「私は良い牧者である。私は私の羊のことを良く知っている」

2025年秋田巡礼 聖伝の荘厳ミサ
2025年5月4日 御復活後第二主日
ジョン・ムワンギ神父説教 同時通訳トマス小野田圭志神父
親愛なる信徒の皆様、
まず、オーストラリアから来た巡礼団を代表して、私はこの秋田の巡礼に私たちを受け入れてくださって、歓迎してくださって、大変深く感謝を申し上げます。
私たちは本当に感謝でいっぱいで、皆さんの温かい心遣い、優しいご親切、またその寛大な歓迎の心に深く感謝しております。
本当にありがとうございます。
残念ながら、私たちは明日の夕方にはここを離れて東京に行かなければなりません。
それにも関わらず、私たちは本当に幸せで、この巡礼のことを感謝しております。
もう一度、オーストラリアとニュージーランドの巡礼団を代表して、心から感謝を申し上げます。
天主様の御望みであれば、またここに戻ってきたいと思っております。
それからもう一つお知らせがあります。
御聖体拝領の後には、どうぞ感謝のお祈りをするようになさってください。
もちろん皆さんは、他の仕事を、他のことを準備しなければならないかもしれませんが、共同体としてここに残って感謝をなさってください。
御聖体(Eucharist)というのは、まさに感謝という意味です。
また、オーストラリアではないのですけれども、ここでは一人の方が感謝の祈りを先唱してくださいますので、皆さんもぜひそうなさってください。
ここにしばらくとどまって、イエズス様にお話し申し上げてください。
私たちの主は、「私は良い牧者である。私は私の羊のことを良く知っている」とおっしゃいました。
ではなんで、イエズス様はそんなことをおっしゃったのでしょうか?
「私は良い牧者である」と。
何故ならば、悪しき牧者が存在しているからです。
なぜおっしゃったかというと、イエズス様は私たちが、主が、イエズス様が良い牧者であると知ることを望んでおられるからです。
そして、どうやって良い牧者と悪しき牧者を見分けるか、その識別の仕方さえも教えてくださいました。
「良い牧者は、自分の命を羊のために捨てる」
これが条件でした。
もちろん、羊の世話をする、牧草地に連れていく、水を与える、もちろんそれはそうです。
しかしさらに、羊を守るために、良き牧者は自分の命を投げ出して、それを危険に晒すことも厭わない、これが私たちの主、良き牧者である主のおっしゃったことです。
良き牧者だけが、自分の命を羊のために捨てることができます。
しかし雇われの羊飼いは、敵が来ると、狼が来ると、羊たちを棄てて逃げてしまいます。
私たちの主は良き牧者です。
自分の羊たちのために命を投げ出しました。
これを、聖金曜日に私たちは目撃しました。
しかし同時に、良き牧者であるイエズス・キリストは、終わりまで私たちと共にいるとも約束されました。
時の終わりまで。
なぜ、そんなことをおっしゃったのでしょうか?
「世の終わりまで、私は一緒にいる」と。
何故かというと、まだ主の群れに属していない、けれども属さなければならない羊たちがまだいるからです。
そこで、主はその羊たちを待って、そしてその羊たちを探していくのです。
そして、それを世の終わりまで続けるということです。
主はこの世の終わりまで、他の羊たちが主の群れに属するのをお待ちになって、私たちと共にとどまり給う御方です。
それはどのようなかたちかというと、御聖体においてです。
主は御聖体において、私たちと共にとどまっておられます。
主はかつてこの地上を歩かれた、そのように、それと同じ主が、また天国におられるその主が、そのままこの御聖体において現存されておられます。
確かに目には、肉体的には、このような五体を、身体をもっては見えませんが、しかし御聖体というパンの形色において、隠されて、イエズス様が本当に現存しておられます。
また私たちの主は、確かに御聖体のうちに現存されておられますが、良き牧者として現存されておられますが、また同時に、司祭職においても現存しておられます。
イエズス・キリストは、確かに大司祭でありますが、しかし他の司祭において、良き牧者としてその現存を続けておられます。
司祭の存在なくしては、イエズス様が司祭において現存することがなければ、秘蹟においてイエズス様が現存することができません。
ですから、信徒たちと共にとどまるために、まず司祭職においてとどまろうとされます。
ですから、イエズス様が司祭において現存されるということは、非常に本質的な事柄であって、これなくしては、イエズス様の現存を世の終わりまで続けることができません。
また、私たちの日常の生活においてもこれが確かに言えます。
私たちは天国へと歩んでいる者ですが、天国を目的地として歩んでいる者ですけれども、その歩みのうちに、常に司祭がいなければなりません。
まず私たちが生まれた時に、洗礼によって超自然の命へと導かれなければなりません。
また、私たちが成長して力が必要だという時には、堅振の秘蹟によって司祭的な現存が必要です。
この場合には特に司教様ですけれども、しかし、死の危険とかあるいは特別な状況においては、司祭もこの堅振の秘蹟を特別に授けることができます。
また、私たちが霊的な糧に養われなければならない時、聖寵の命に養われる時に、御聖体を受ける時に、司祭がそこにいます。
また、聖寵の命から私たちが堕ちてしまった、あるいは離れてしまった、罪を犯してしまった時にも、司祭がそこにいて、それを回復させてくれます。
また、私たちの人生の終わりを告げる時、司祭がそこにいて、来世への、永遠の旅立ちを準備してくれます。
また、私たちが天主の使命を、天主の創造の業を続けるという使命を受けた時に、婚姻の秘蹟を受ける時、やはり司祭のもとに行きます。
また、司祭の祝福を受け、また人生の祝福を受け、ガイダンスを受ける時に、あるいは私たちの心に何かの指導を受ける時に、御聖体を受ける時に、私たちは司祭のもとに行きます。
私たちの人生の色々な側面において、司祭はいつもそこにいなければなりません。
しかし、この司祭的な現存は、もしも私たちがもっと聖なる司祭たちを得るというための十字軍に参加しなければ、これを得続けることはできません。
私たちの主は十字軍を呼びかけています。
何故かというと、「穫り入れは多いけれども、働く者は少ない」とおっしゃっています。
ですから、良い牧者たちが多く与えられるように祈らなければなりません。
良い家族を持っている皆さん、そして子供たちをこのビジョンにおいて育ててください。
もしも男の子がいれば、子供たちが司祭、あるいは修道者になることができるように良い準備をさせてあげてください。
そして彼らが、まだイエズス様の群れとなっていないような霊魂たちを、イエズス様のもとに導くことができますように。
彼らを助けることができるように、良い子供たちの教育を、このビジョンで行なってください。
私たちの主は約束されました。
「もしも私のために父を離れ子供を離れ、家を離れた者は、この世では100倍、そして後の世では永遠の命を受ける」と。
ですから、もしかしたら皆さんの中には「ああ、私は主のために人生を捧げたら子供ができない」などと心配するかもしれません。しかしそうではありません。
もしも司祭になれば、すべて皆さんが、多くの信徒の方々がすべて私たちの兄弟姉妹であり、父母であり、子供たちです。
もしも皆さんの中には、「ああ、私の子供が、息子が、あるいは娘が召命を受けて神学校に入れば、修道院に入ると、私にはもう子供がいなくなってしまう」と恐れるかもしれません。
しかしそうではありません。
もっと素晴らしい子供が、皆さんのもとにあるということです。
何故かというと、主は100倍のことを約束されたからです。
もちろん私たちの子供たちが皆、主のもとに捧げられてしまうと、私たちには孫もひ孫もなくなってしまうかもしれません。
しかし、この子供たちは修道生活を送ることによって、天国への約束を受けています。
どちらの方が良いでしょうか?
たくさんの孫を受けるのと、天国に行く子供を見るのと。
もちろん、子供たちがすべて天国に行く方が良いに決まっています。
ですから今日、良き牧者の主日において、良き牧者が、多くの良き牧者たちが私たちに与えられるように、教会に与えられるようにお祈りしましょう。
オーストラリアでは、この主日に第二献金があって、召命のために多くの献金がなされます。
外国にそのお金を送ったりしますが、これを見ても、どれほど私たちが良き牧者のために犠牲を払わなければならないかということがわかります。
ちなみに日本では、秋田巡礼のために、一週間前に第二献金が行われました。
ですから皆さん、良き聖なる召命が与えられるようにお祈りいたしましょう。
特に今日お祈りしましょう。
そして、子供たちがこのビジョンに従って育つことができますように、良い教育を行うことにいたしましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。