「死」を黙想する
聖カルロ・ボロメオ司教と頭蓋骨
2025年11月2日 聖霊降臨後第21主日
トマス 小野田圭志神父説教 日本の聖なる殉教者聖堂(大宮)
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
11月は死者の月です。ですから、一緒に死について黙想いたしましょう。
死とは、いったい何でしょうか?
私は子供の頃、お葬式に参列したことがありましたが、当時のことをまだ覚えています。亡くなった方が火葬されるのを見た時、子供ながら非常にショックを受けました。
火で焼かれて、熱くはないのだろうか?
人は、死んだらどうなるのだろうか?と。
私たちは誰でも、例外なく死にます。私たちは全て、確実に死を迎えます。私たちは皆、ちょうど死を宣告されている死刑囚のようです。しかし、私たちがいつ死ぬのか、どのようにこの世を去っていくのかはわかりません。
「死は盗人のようにやってくるから、いつでも警戒せよ」と、主は言われます。ですから、私たちは、自分の永遠を決定する死の時を、いつでも準備していなければなりません。11月は特に、死について考え、死の準備をするには最高の時です。
【今日の福音:死】
今日の福音で、私たちの主はこう言われます。
「ちょうど天の国は、しもべたちと決算の整理をしようとする王のようなものである。」
王たるキリストは、しもべである私たちと、ある日、決算の整理をします。
私たちの全ての善い行いと、また私たちが犯した全ての罪や悪は、ある日、厳しく吟味されて計算され、そして裁かれます。王たるキリストは、私たちの人生における全ての思い・言葉・行い・怠りを厳しく審判します。これが、私たちの決算の日です。この決算の日は、私たちの死の時です。何故なら、死の時、死の直後、その瞬間に、私たちは主イエズス・キリストによって一人ひとり裁かれるからです。
【死の起源】
では、死とはなんでしょうか?
死とは、私たちの霊魂が、肉体から離れて分離する時です。息が止まり死を迎えると、今まで生き、成長し続けていた肉体は腐り始めます。実は、人間はもともと、天主の特別な御恵みによって、死なないように造られていました。しかし、罪によって、死と苦しみ、そして病がこの世に入ってきました。ですから、言ってみれば死とは、私たち人間にとって本来のあり方ではないのです。そのため、死は私たちにとって大きな苦しみです。
しかしながら、人間の本来のあり方が戻るかのように、世の終わり――人類の大決算の発表の日に、私たちはもう一度、肉体を持ってよみがえります。私たちの霊魂は、再び肉体と合体して一致し、元通りになります。私たちは、肉体を持って永遠の幸せを得るか、あるいは肉体を持って永遠の苦しみに入るかのどちらかになります。
死は、罪の結果この世に入ったもので、太祖アダムの罪のために、私たちは全て死ぬようになってしまいました。そのため、私たち人間にとって、死とは当然受けるべきものであり、私たちはどうしても一度は死ななければなりません。人間は、死を逃れることは絶対にできません。
【永遠の運命は死の瞬間に決定する】
私たちの永遠の運命は、死の瞬間に決定します。これを「私審判」と言います。もしも、私たちに罪の負債がなく、地上で多くの良い業を行いながら生きてきたとしたら、死を迎えた私審判の時、私たちはどれほど幸せでしょうか!
「祝福されたしもべよ。永遠の昔から、天使たちと義人たちのために準備された永遠の国に入れ」という宣告を聞くことでしょう。私たちは永遠の命を受け取り、救霊を達成します。それに反して、もしも、天に宝を積む代わりに大罪をたくさん犯し、地獄に値する状態で死を迎えてしまったならば、私たちはどれほど不幸でしょうか!
何故かというと、その瞬間、私たちは、永遠の死という終わりなき苦しみの宣告を受けるからです。それは、悔やんでも、悔やんでも悔やみきれない大失敗です。終わることのない恥ずかしめと拷問、いつまでもいつまでもいつまでも続く悲しみと憎しみの連続。
永遠の幸せと永遠の不幸は、死の瞬間に決定します。
【死は確実である】
聖パウロは言います。
「人間は、一度だけ死んで、のち審判を受けると定められている」(ヘブレオ9:27)。
また、旧約のヨブの書にはこうあります。
「人の日々は短い。人の【生きる】月の数は御身のもとにある。御身は人の終わりを定めたもうた。この終わりは超えることができない。」
Breves dies hominis sunt : numerus mensium ejus apud te est : constituisti terminos ejus, qui praeteriri non poterunt.
私たちが生まれた時、自分の名前が記された出生届が市役所に提出され、カトリックの洗礼を受けた時には、洗礼台帳に名前が記されました。そのように、ある日、私たちは死亡届が出され、その死がこの世に記録されることでしょう。私たちの先祖が皆そうだったように、私たち一人ひとりは全て、必ず永遠の世界へと旅立たなければなりません。愛する兄弟姉妹の皆さんも私も、ある日そうなります。
私たちがこの世にいる間、いったい何が起こるかはわかりません。
生まれた赤ちゃんがお金持ちになるか、貧しくなるか、健康か病気がちか、長生きか短命か、私たちにはわかりません。
しかし、王様の王子様であろうと、乞食の子供であろうと、必ず死ななければならないことだけは確実です。どれほど力がある王様で、大統領であっても、自分の死の時を一瞬たりとも遅らせることはできません。
「主の御旨には、誰も抵抗することができない。」
今日、入祭誦で唱えられた通りです。死の時が来れば、私たちはそれに何の抵抗もできず「さようなら」とこの世に別れを告げなければなりません。
しかしながら、この世に愛着し、この世の楽しみを味わい尽くして「いつまでも死なないで、この世にいるかもしれない」と思っていたような人々は、昔にもいたことでしょう。けれど、そのような人々も死を迎え、その肉体はウジのえさとなったり、土に帰って塵と灰になり、骨だけがお墓の中に入っています。私たちが墓地に行くと、お墓の一つ一つは、私たちにこう語りかけているようです。
「私には昨日起こったことが、おまえには今日起こるだろう。」
"mihi heri, et tibi hodie." (シラの書38:23)
私たちが確実に死ぬことは、どうしても変えることのできない真理です。私たちは、これを絶対の真理として信じるのみならず、この目で見て確認しています。もしも、皆さんの誰かが「自分は死なない」と言ったとしたら、その人は、ちょっとおかしくなってしまったと思われるでしょう。
でも、私たちは、皆がちょっとおかしいかのようなのです。何故かというと、私たちは自分が死ぬことをコロッと忘れて、死は決して来ないかのように今を生きているからです。日々、その死が近づいているにもかかわらず、死はまだ先の遠い話であり、この地上にまだずっと生き続けるかのように生活しています。死は決して来ないかのように錯覚して生きることは、私たちの不幸な誤りです。
【永遠を準備する】
聖パウロは言います。
「私たちはここに不変の都をもっていない。私たちは未来の都を探している」(ヘブレオ13:14)。
ですから言ってみれば、私たちはこの地上にしばらくいるだけの、天国へ向かって旅をする巡礼者のようなものです。異国を旅している、通過するに過ぎない旅人です。私たちの祖国は天にあります。私たちの本当の家はここにはありません。私たちの本当の住み家は天国です!永遠のものです!
日本は今、円安で、たくさんの方が日本の様々なところに来て、多くの観光客でにぎわっているとニュースで聞きます。たとえば、もしもたった一週間だけ日本に滞在するだけのある観光客が、その一週間だけで、全財産を日本で全て使い果たしてしまったとします。好きなだけ飲んで食べ、これを買ってあれを買って家も買って、一週間経って帰国する時、その手にも、祖国の家にも全くお金が残っていなかったとしたら、そんなことはありうるでしょうか?
これはもちろん冗談の話ですが、いつかは「バイバイ」と言って離れる異国の地で全ての富を使い果たし、私たちの本当の故郷に何の貯えもないとしたら、それを愚かだと言う方々は多いのではないでしょうか?
しかしながら、もうすぐ「さようなら」と離れるこの世の快楽だけを追求して、永遠に住む天国の準備をしないのは、この観光客と同じではないでしょうか?
また、もしもこれから死刑を執行される死刑囚がいたとして、たとえば、残りわずか数分の時間を使い、財産を増やすために株を買って貯金することを考え、出世するための計画を練り、自分の評判のために他人の悪口や侮辱を言い、盗みの計画を立て、または、コンピューターゲームでアイテムをたくさん集めていたりなどしていたら、なんとばかばかしいことを!と思うのではないでしょうか?
この死刑囚は、最後に残されたわずか数分の時間を使い、聖なる死と永遠のために準備するべきではなかったのではないでしょうか?
もう使うことのない財産と名誉のために、いったいなぜそのように神経を使わなければならなかったのでしょうか?
さらに、もしもある学生が、大切な試験を受けるその前晩にコンピューターゲームをして、あるいは全然関係ないことをしていたら、それは賢いのでしょうか?
それとも、ちょっとでもノートを見返した方が賢いのでしょうか?
私たちも、死刑囚と同じく死に向かっています。イエズス・キリストによって裁かれるために、決算の日、審判の席に立つ日は確実に近づいているのです。
【死の時は不確実である】
私たちは、決算の日の準備をしなければなりません。
では、決算の日とはいつなのでしょうか。明日でしょうか?
私たちが死ぬのは確実ですけれども、それがいつなのかは、天主以外の誰にもわかりません。主は、すでに私たちの死の時を定めておられます。何年何月何日何時何分、私がどのようにこの世を去り、永遠の世界に入るかをすでにご存知です。
イエズス様は、次のように言います。
「あなたたちも用意しているがよい。人の子がいつくるかを、あなたたちは知らないのだから」(ルカ12:40)
聖パウロは言います。
「あなたたちは、主の日が、夜の盗人のようにくるものであるということをよく知っている」(テサロニケ第一5:2)
聖アウグスチヌスはこう言っています。
「最後の日が隠されているのは、全ての日が聖なるものとなるためだ」
Latet ultimus dies, ut observentur omnes dies.
【確実な死を忘れない】
私たちのこの世での生命は、すぐに終わる日が来ます。しかし、それがいつなのか不確実ですから、聖人たちはいつも死のことを覚えて、そのために準備をしていました。
聖カルロ・ボロメオという有名な司教様は、いつも食卓に頭蓋骨をおいていたそうです。
また、ボロニウス枢機卿は、指輪に「死を忘れるな Memento mori」という言葉を刻んでいたそうです。
イタリアのスラッゾ司教区の司教であった、福者ジョヴァンニ・ジョヴェナーレ・アンチーナ Giovanni Giovenale Ancina, C.O.(Member of Confederation of Oratorians of St. Philip Neri) † (26 Aug 1602 Appointed - 29 Aug 1604 Died)も、やはりいつも頭蓋骨をもっており、そこにはこのように書かれていたそうです。
「私もあなたのようだった。そして、あなたも私のようになるだろう」
"Come tu sei, fui pur io: e com'io sono, sarai pur tu."
【遷善の決心】
では、最後に遷善の決心を立てましょう。
私たちは、どのような死者の月を過ごしたら良いでしょうか?
聖なる死を迎える準備をいたしましょう。永遠のために、今の時を聖なるものとして過ごす決心を立てましょう。
ところで、聖なる死を準備するための、最善の秘訣とはなんでしょうか?
それは、ミサ聖祭にあずかることです。告解の秘跡を受けることです。私たちに残された時間を使い、聖なる死を準備して、永遠の至福のために功徳を蓄える最高のやり方です。
イエズス様は、ご自分の十字架の死をもって私たちの死を聖なるものにされました。そして、ご自分の復活をもって、私たちに永遠の生命を与えられます。
ミサ聖祭の功徳によって、イエズス様は煉獄の霊魂たちを苦しみから解放し、あるいは苦しみを和らげ、あるいは短くし、天国に早く入ることができるようにされます。ですから教会は、全ての死せる信者の記念日に、一日に三回ミサをするようにと司祭を招いています。十字架のいけにえであるミサ聖祭を通して、キリストは私たちの生活を聖化され、煉獄の霊魂たちを助けます。
ミサ聖祭を通して、キリストは十字架の実り、贖いの効果・果実を私たちに分配します。
ミサ聖祭を通して、諸聖人が生まれます。
ミサ聖祭を通して、私たちは王たるキリストと一致します。
ミサ聖祭を通して、キリストの祝福と聖寵が私たちに、家庭に、社会に、諸国に、煉獄に広がり、私たちの永遠の準備をします。
ミサ聖祭を、心から愛してください!
それから、若い方々と、小さなお友だちにも訴えたいと思います。
11月の間、私たちは死ぬということを、これが本当だということをよく黙想してください。私たちは、その死の準備をしなければなりません。また、死を聖なるものとするために、ミサ聖祭がとても大切だということを確信しなければなりません。
でも、ミサ聖祭が立てられるためには、神父様が必要です。神父様がいなければ、ミサ聖祭もないからです。しかし、ミサ聖祭がなければ、イエズス様は霊魂を聖化することができません。霊魂を救うことができません。もしも、私たちが天国に行きたいと思うならば、どうしてもミサ聖祭が必要です。司祭が必要です。聖なる司祭が必要です。また、司祭とともに、霊魂たちのために祈る修道者、修道女が必要です。
青少年の皆さん、もしもキリストが、あなたたちを司祭職や修道生活に召し出したもうなら、寛大に「はい」とイエズス様に答えてください。皆さんの「はい」あるいは「いいえ」という答えに、何千、何万、何十万という霊魂の、永遠の救いと滅びがかかっています。お医者さんは、体を治して健康を与えるかもしれません。でも、司祭や修道者たちは霊魂を癒し、多くの人々を聖化して、彼らに永遠の命を与えます。
ですから、若い皆さん、キリストの招きに耳をよく傾けてください。キリストの聖性への招きを聞こえなくさせるような騒音を避けてください。司祭召命や、修道召命を妨害するようなものを遠ざけてください。携帯やコンピューターゲーム、お友だちとの悪い付き合い、わいせつな悪い本や雑誌、映画、YouTubeなどの動画や音楽にも気を付けてください。私たちは「永遠のために」生きています。
では、最後にマリア様にお祈りいたしましょう。
「天主の御母聖マリア、罪人なるわれらのために、今も臨終のときも祈り給え。アーメン。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。