時は永遠のためなり「つかの間」のこの世の今しか、痛悔の念を起こすチャンスがない
2021年4月25日 復活後第三主日
トマス小野田圭志神父 説教
愛する兄弟姉妹の皆様、
今日は2021年4月25日、復活後第3主日です。今日の福音で私たちの主が最後の晩餐で弟子たちに「あなたたちは間もなく私を見なくなるが、また間もなく私にあうだろう、私は父のもとにいく」と言われました。これは何の意味でしょうか?一緒に黙想しましょう。
1:使徒たちに伝えようとしたこと
「あなたたちは間もなく私を見なくなる」とは、その夜ユダヤ人たちに逮捕され、翌日には十字架に付けられ、夕方には葬られてしまうので、イエズスをもう見なくなるだろうということを暗示しています。しかし「私は父のもとにいく」と言われるので、死とは通過点に過ぎないことも暗示されます。しかも「また間もなく私にあうだろう」、別れは、ほんのつかの間であり、弟子たちのもとに戻ってくると言われます。「しばらくの間」主は苦しまれ、また「しばらく」して、主は復活されたからです。弟子たちは、もはや死すべきキリストを見ることがありません。何故なら、キリストにはもはや死も苦しみも無いからです。
あるいは、「あなたたちはしばらくの間、私を見なくなる」とは、3日間、主は墓の中におられることを暗示し、「またしばらくの間、私にあうだろう」とは、復活後、40日の間、御昇天するまで、弟子たちにお姿をお見せになることを意味しています。
主は言葉を続けます。「あなたたちは泣き悲しみ、この世は喜ぶだろう。そうだ、あなたたちは悲しむが、その悲しみは喜びにかわる」。
弟子たちは主の死を悲しむけれども、この悲しみは復活によって喜びに変わる、キリストを死に仕向けた者たちは、キリストの弟子たちの悲しみとキリストの死を喜ぶ。しかし、弟子たちの悲しみは、喜びに変わるのです。2000年前だけの話ではなく、この世での涙と苦しみを通して永遠の喜びに至ろうとする全てのキリスト者に適用されます。この世では義人は涙し、この世は面白おかしく楽しむかもしれません。しかしこの世の喜びは、この世だけのもので限りがあります。ところが義人にとって、この世の短い悲しみは、無限の喜びに変わります。
今日のミサの密誦は、この真理を祈っています。His nobis, Dómine, mystériis conferátur, quo, terréna desidéria mitigántes, discámus amáre cæléstia.
主よ、願わくは、この奥義によって、われらが地上的な欲望を和らげ、天上のことを愛することを学ぶ聖寵が、われらに与えられんことを。
主は、この事を譬えでこう言われます。「婦人は、子を産むときなやむ、その時が来たからである。しかし子を産んでからは、もう苦しみをおぼえない。この世に一人の人間が生まれ出たことを喜ぶからである」。
婦人は、出産後苦しみをもはや覚えません。あまりにも大きな喜びが続くからです。子供が生まれた、というのは主の復活の暗示です。婦人は聖なるカトリック教会です。教会は誘惑や苦しみの中で発展しつつ、苦悩します。しかし教会は信徒が永遠の命に生まれる時、喜びに満たされます。
キリストは死者の中からよみがえり、もはや死ぬことはありません。イエズスはこう断言します。「あなたたちも今は悲しんでいるが、ふたたび私があなたたちにあうとき、あなたたちの心は喜び、もうその喜びはあなたたちからうばわれることはない」。
聖アウグスチヌスは、主はこの復活の喜びに言及して、「しばらくの間」とは、全世界が存在し続ける間のことを意味するとも言っています。「しばらくの間(つまり世の終わりまで)あなたたちは私を見ないだろう、何故なら私は聖父のもとに行くから。しかしまた、しばらくの後、あなたたちは私を見るだろう」。たとえ「しばらくの間」が今は長く思えても、世の終わりにはどれほどつかの間のことにすぎなかったかということがわかるだろう、と。
2:つかの間のこの世での命
主は、「しばらくの間」を私たちの人生も意味して「しばらくの間、あなたたちは私を見ないだろう」と言われました。聖ヤコボも同じことを言います。「あなたたちの命とは何か?あなたたちはしばらく現われて、またたく間に消えていく湯気である」(ヤコボ4:14)。
たとえ今の「つかの間」の命であっても、よく使うことによって「永遠の報い」を勝ち取ることができるようになります。聖パウロは言います。「実に、今は恵みのとき、今は救いの日である」(コリント後6:2)。時は短い。「時は縮まった。だから、以後、… 泣く人は泣いていないように、喜ぶ人は喜んでいないように、買う人は所有していないように、この世のものを利用している人は全く利用していないようにせよ。まことに、この世の姿はすぎ去るものである」(コリント前7:29-31)。
この世の悲しみはつかの間のことで、すぐに過ぎ去ってしまうから、泣く人は泣いてはならないし、この世の楽しみや喜びもつかの間のことで終わりがすぐ来るので、この世の喜びに愛着してはならない、この世はあっという間に過ぎ去るので、この世を利用する時は、それを楽しむためではなく、永遠の命のために功徳を積むために使え、ということです。「時は金なり」とよく言いますが、本当は「時は永遠のためなり」と言わなければなりません。
●シエナの聖ベルナルディーノは、私たちに天主から与えられた「つかの間の時」は、貴重な最大の贈り物であり、時をよく使って永遠の復活の命に至るようにつとめることを教えています。「つかの間」は、最高の善である天主を所有させ、全ての罪の赦し・天主の聖寵・永遠の栄光を得させることができます。Modico tempore potest homo lucrari gratiain et gloriam.
●同じシエナの聖ベルナルディーノは、「時ほど貴重なものは何もないが、これほど人々から貴重でないと考えられているものも何もない。Nil pretiosius tempore, nil vilius reputatur.」とも言っています。今の「つかの間の時」は、私たちが罪を嘆き、悔悛し、償いをして、天主の憐れみを得るために与えられています。今、痛悔の念を起こすことによって、永遠が左右されます。ほんの少しの時で、永遠の破滅から救われることもできます。しかし、そのためには時はほとんど使われていません。
●クレルヴォーの聖ベルナルドは、天主のために使ったのではない時は失われた時だと言います。
Omne tempus quo de Deo non cogitasti, cogita te perdisse.
(あなたが天主のことを考えなかった時、あなたは時を失ったと考えよ。)
聖アルフォンソ・デ・リグオリによると、女子ベネディクト会の或るシスターが栄光の姿である人に現れたことがあったそうです。このシスターは苦しい病気で亡くなったのですが、自分が今、天国にいて完全な幸せを楽しんでいると伝えました。シスターは天国でもしも何かを望むことがあったとすると、天国の栄光はあまりにも素晴らしく、「めでたし」を唱えた分だけ与えられるような栄光を増やすためであっても、もしもできるならこの世に戻って世の終わりまで残酷な病気の苦しみを喜んでイエズスに捧げたいほどだ、と伝えたそうです。
悪魔は、私たちの人生が「つかの間」であることをよく知っています。
Vae terrae, et mari, quia descendit diabolus ad vos habens iram magnam, sciens quod modicum tempus habet.
「地と海とはのろわれた。悪魔は時のみじかさを知り、大いに怒ってあなたたちに向けてくだったからである」(黙示録12:12)。
悪魔は人間を地獄に突き落とそうとして「つかの間の時」を利用しています。では、私たちは天国に行くために与えられた「つかの間の時」を、そのために使わずに、悪魔の思う通りにこの世の快楽のために浪費してせっかくのチャンスを逃してよいのでしょうか?
3:遷善の決心
聖アウグスチヌスは「告白」の中でこう言います。「晩(おそ)かった、私が御身を愛したのは、これほど古く、そしてこれほど新しい美しさよ!晩(おそ)かった、私が御身を愛したのは!Sero te amavi, pulchritudo tam antiqua et tam nova, Sero te amavi.」
「本当なら聖人になるところを、天主への罪の負債を増やして過ごした日々!天主を愛するために与えられたけれども、かえって良心の呵責を増やすために使った時間!ああ、馬鹿なことをしたものだよ、功徳の宝を積む代わりに、地獄の火の燃料を増やしただけだった」。
しかし、まだ時は与えられています。ですから「まだ時のある間に、すべての人に、とくに信仰においての兄弟である人々に、善をおこない」(ガラチア6:10)ましょう。「今の時をよく利用」(エフェゾ5:16)しましょう。「キリストは苦しみをうけて、死者からよみがえり、そのようにしてご自分の光栄に入るべきであった」(ルカ24:46)。私たちについても同じです。
最後に聖母に祈りましょう。私たちがいつも目を天国に向けてこの世の生という「つかの間の時」を永遠のために使うことができるように取り次ぎを祈りましょう。
「あなたたちは間もなく私を見なくなるが、また間もなく私にあうだろう、私は父のもとにいく」。