聖ヨゼフの謙遜を学ぶ
2026年3月19日 童貞聖マリアの浄配証聖者聖ヨゼフ
トマス 小野田圭志神父説教 日本の聖なる殉教者聖堂(大宮)
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
今日は聖ヨゼフの大祝日です。聖ヨゼフの謙遜について一緒に黙想することを提案します。
【1:導入】
何故かというと、私たちが生きているこの現代世界と人々は、全てをその傲慢な人間中心という理性のフィルターを通して見ようとしているからです。これはいったい役に立つのか、便利なのか、お金が儲かるのか、有利な地位は手に入るのか、おもしろいのか、楽しいのか、結果は簡単にでるのか、などなど。
そして、現代世界が、科学や最新技術によって獲得した支配力、通信能力、交通能力、あるいはコンピューターなどで、自分で何でもできると信じ込んでいます。この世界は私たちが思い通りに変えることができる、人間は天主の領域まで入り込むことができ、天主の業を成し遂げることができると、まるで自らを天主にしようとしています。多数決で決めれば良い、法も法律も自由に思い通りに変えることができる、道徳だって生命だって、家族も社会もみんな人間の思い通りに変えることができる。これを専門用語で「革命」と言います。
そうして世界や人生を支配し、あるいは支配しようと試みて、そしていわば人間の独自の宗教・礼拝・信仰を作り出そうとしています。人間を信じ、人間に希望し、人間を愛するという新しい宗教が出来上がろうとしているようにさえに見えます。ですから、人間はある意味、傲慢という病に侵され、目が見えなくなってしまっているかのようです。
こうして、現代人は天主の神秘を理解することができなくなっています。何故ならば、「従う」ことを現代の人々は理解できなくなっているからです。自分を犠牲にして天主に従うことは考えられなくなっているからです。ですから、誰にでも従うことを拒むこともできます。拒むことを望みます。もしも誰かに従うとしたら、それはおもしろくない結果を避けるためだけです。天主への愛のために、主とその掟、その御旨に従うことは受け入れようとせず、あり得ないことになってしまっています。
ですから、この現代の狂気に対して、私たちは聖ヨゼフに助けを求め、聖ヨゼフの模範や聖ヨゼフが天主から受けた賜物、そして聖ヨゼフが実践した徳を黙想することが非常に大切です。特に「聖ヨゼフの謙遜の徳」を黙想することが大切です。何故かというと、多くの聖人たちが述べているように、聖ヨゼフに対して与えられたすべての賜物と徳の中で、最も際立っていたもの、そして聖ヨゼフを天主に最も嘉(よみ)される者としたものは、その謙遜だったからです。主なる天主が、聖ヨゼフに授けられたすべての恵みの中で最も尊いものは、その深い謙遜でした。私たちは聖ヨゼフを真似して、聖ヨゼフのように天主に喜ばれる者となる必要があります。
【2:全ての徳の土台である謙遜】
では、聖ヨゼフがどのように多くの徳を勝ち取っていたのかを見てみましょう。
謙遜という泉から、聖ヨゼフの霊魂には数えきれないほど他の恵みが湧き出ました。何故なら、聖ヨゼフは、物心つくようになって以来、いつも自分を低くして謙遜に考え、主の御前に自分を無に等しい者と思い、自分を打ち砕いたからです。そして、主の御旨にいつも従うことを考えていました。
教父たちは「聖ヨゼフの謙遜ゆえに、天主は聖ヨゼフをイエズス様の養父および聖母マリア様の守護者として選ばれた」と語っています。また、その謙遜さゆえに、天主はすべての被造物の中で最も謙遜な聖母マリア様を、彼の浄配(妻)として与えられたのです。
主イエズス・キリストに導かれたすべての聖人たちは、常に謙遜を「あらゆる完徳の基礎であり土台である」と見なしていました。
聖ベルナルドは「謙遜は、あらゆる霊的な建造物、あらゆる聖性が築かれる礎石であり、キリスト教信者の霊魂が、敵の襲撃から守られる難攻不落の砦」と言います。
また、アルスの聖司祭(聖ヨハネ・ヴィアンネ神父)は、謙遜についての説教の中で「この徳がなければ我々は何も持たないが、これさえあれば他のすべての徳を得ることができる」と言っています。
【3:聖ヨゼフの謙遜:労働】
聖ヨゼフの謙遜は、その生涯のあらゆる行いにおいて輝いていました。聖ヨゼフは、太祖たち、特にダヴィドの王家の直系の子孫でした。ダヴィドの王の末裔でありながら、聖ヨゼフは決してその高貴な血筋を誇ったりはしませんでした。先祖が持っていた権威や栄光を失ったことに対して、不平も漏らすことも文句を言うことも、天主につぶやくこともありませんでした。すべてを御旨として受け入れておられました。その時代、聖ヨゼフは無名な者として生き、大工という身分の低さに甘んじ、その生活は貧しく目立ちませんでした。また、聖家族を養うために絶え間ない厳しい労働が待ち受けていましたが、それを喜んで捧げました。いわば聖ヨゼフは、苦難と屈辱に満ちた人生を送られた方です。本当ならば、王笏を持つにふさわしい高貴な手であったにもかかわらず、聖ヨゼフの手は、いつも職業の道具に、その過酷な労働に捧げられていました。
聖ヨゼフは、常に天主の御摂理に完全に従順でした。天主が望まれた、謙遜で目立たない境遇を、聖ヨゼフは心から愛していました。誰にも気づかれることなく生き、謙遜の徳を実践することを喜びました。たとえ、自分の体の中には、先祖二十代にわたる王家の血が脈々と流れていようとも、その名誉を謙遜に隠し、自分の職業の道具を、名誉と栄光をもたらす王権の象徴と取り替えることは決してありませんでした。
【4:聖ヨゼフの謙遜:聖母の浄配】
聖ヨゼフは、マリア様を妻として迎えることに同意しました。聖フランシスコ・サレジオによれば、聖ヨゼフが同意した理由はただ一つでした。それは、結婚という聖なるベールの下に身を隠し、人々の視線から逃れて、誓いを立てていた貞潔の徳を守るためでした。聖ヨゼフもまた、マリア様と同様に、貞潔の誓いを立てていました。
聖ヨゼフは、主が彼に与えようとしていた栄誉を全く予期しておらず、まさか天主の御母の浄配となる名誉を受けるとは思ってもいませんでした。預言者たちによって予告されていたのがマリア様であり、世界の初めから約束されていたメシアを生むべき御方であることを知った時に、聖ヨゼフは深い謙遜のうちに、この神秘に驚きました。そして、自分の理解を完全に超えるこの途方もない神秘を前にして、天主の御母と共に暮らすには値しない者、非常にふさわしくない者だと自分を理解していました。
聖ベルナルドによれば、聖ヨゼフはマリア様から離れようとして、後に聖ペトロが主に対して言うことになる「主よ、私から離れてください。私は罪人です」と似たような言葉を、心の中で口にしていたと言います。
また、聖ヨゼフは、後に子供の癒やしの奇跡を主なる天主に求めたあの百人隊長と同じように「私は、あなたを家の中に迎え入れるにはふさわしくない者です」とも考えていたとのことです。
聖ヨゼフは、その謙遜ゆえに、妻である至聖なる聖母に対して、自分はふさわしくないと考えていました。聖ヨゼフが聖母の貞潔を疑うことは決してなく、悪いことを考えることもありませんでした。天主の子が童貞女から生まれると預言した預言者たちへの信仰に満ちて、聖ヨゼフはそのような母に仕えるに値しない者だと信じていたのです。
聖ヨゼフが何をすべきか考えを巡らせている最中、天主は天使を通して彼に現れ、御托身というこの神秘が天主の御業であることを告げられたのです。そして聖ヨゼフに「恐れるな、マリアを妻として迎え入れよ」と言い、聖ヨゼフは天主の御旨を謙遜に受け入れて従い、マリア様と共に暮らし続け、主とマリア様と生活された聖家族という「学校」において、父としての使命に備えていきました。
【5:聖ヨゼフの謙遜:イエズス・キリストの養父】
聖ヨゼフは、この家庭生活の中で、謙遜の徳を実践することを学び、ますます謙遜の徳を深めていきます。謙遜の徳は、特に自分の目の前にある模範を見て、聖ヨゼフの中で育っていきました。
考えてもみてください。尊き天主の御母であり、聖霊の浄配であるマリア様が、聖ヨゼフに仕え、すべてにおいて彼に従順に従い、奉仕する姿を目にして、聖ヨゼフはどれほど驚いたことでしょうか! 同様に、天主の御言葉である三位一体の第二位のペルソナが人間となられ、ナザレトの家庭において従順に生き、服従される姿を見ていたのです。
聖ヨゼフは、その生涯においていろいろな事実を見ましたが、たとえば、老シメオンがイエズス様を腕に抱きながら「主よ、今こそ私を逝かせてください」と感謝の参加を歌い、天主に祈るのを聞いていました(Nunc dimittis)。つまり、シメオンは、天主から約束された「救い主を見るまで死なない」と言われたその約束が、今この目の前で叶い成就したと理解し「ついに私は死ぬことができる。天主の御許に行くことができる」と歌ったのです。
聖ヨゼフは、托身した御言葉が30年もの間、自分と共に働き、天主から授けられたこの職業を学んでいくことに驚きを覚えます。聖ヨゼフからの命令に「はいお父様」「はいわかりました」と、どんなに難しいことでも忠実に実行し、ご飯を食べることができなくても、寝る時間が少なくても、あるいは難しい仕事でも、重い物を運ばなければならなくても、イエズス様は従順に行いました。聖ヨゼフは、天主の御稜威(みいつ)が打ち砕かれ、万物の創造主が小さな幼子となり、自分の息子となって従順に従い、人々の目には卑しいと映る仕事を一生懸命している姿を、ただただ見つめていたのです。
洗礼者ヨハネが、罪人の中に紛れ込んだ天主の御言葉がヨルダン川のほとりで彼に洗礼を求めたとき、驚きに満たされたのであれば、聖ヨゼフが絶え間ない感嘆の中で生きたと言っても、言い過ぎではありません。
ユダヤ人たちは、後にイエズス様についてこう言います。「この人は大工の子供ではないか?」と。しかし、聖ヨゼフは、イエズス様が単なる大工の息子以上の存在であることを知っていました。すなわち、聖三位一体の第二位のペルソナにして、万物の創造主である天主、約束されたメシア(救い主)であると。
生涯を通じて、聖ヨゼフのすべての幸福はここにありました。天主の御子の御謙遜を模倣し、自分の人生において同じことを行い、自らも謙遜となるということです。
聖ヨゼフは、イエズス様とマリア様の御謙遜を前にして、わずかな誇りや虚栄心さえも抱くことはありませんでした。それどころか、その御謙遜と自己を無にする姿勢の模範は、天主の偉大さと私たち被造物の無力さについて、聖ヨゼフにさらなる確信と偉大な真理とを与えました。自分では決して見出すことのできなかった謙遜の真髄を掲示してくれた、とも言えます。
つまり、人となられた天主イエズス・キリストが、従順の生活を通して初めて、天主の御稜威にふさわしく賛美することができるのならば、私たちのあらゆる礼拝と賛美は、天主の御前では全くの無に等しいということです。すなわち、天主の御稜威を礼拝するには、それほどまでの謙遜が必要だということです。ですから、私たちの主イエズス・キリストを通して、イエズス・キリストによって行われない限り、私たちの行為それ自体は、決して天主の御心に適うことはあり得ず、だからこそ、天主が私たちの代わりにこうして礼拝されることが、私たちに対してどれほど憐れみ深いものであるか、私たちが無に等しい者であるにもかかわらず、どれほど多くの憐れみを注いでくださっているのかを信じるようにさせてくれました。
【5:遷善の決心】
では最後に、遷善の決心を立てましょう。
聖ヨゼフを通してイエズス様に、謙遜を愛して、謙遜を実践すべき理由とその義務を理解するお恵みを乞い求めましょう。また、私たちが聖ヨゼフに倣い、聖ヨゼフのような謙遜が心の奥底に根を下ろして定着し、それが自然に外へと現れ、謙遜の行いをもたらすよう、そのお恵みをも乞い願いましょう。
謙遜の本質とはいったい何か、この崇高な徳の本質をより深く理解するための光を与えてくださるよう、また、私たちの中に存在する自己愛と傲慢が嫌悪感をいだいても、この謙遜の徳を実践する恵みを惜しみなく授けてくださるよう祈りましょう。
罪人である私たちは皆、屈辱や軽蔑を考えるだけで、自分の本性が露わになることを感じずにはいられません。だからこそ、他人の目から見て自分を卑しく見せるようなものはすべて隠そうとします。私たちは自分自身に対しても偽り、自分を正当化します。
ですから、あらゆる罪の根源である高慢を憎むことから始め、謙遜の対極にあり、その反対の悪徳であるこの高慢と勇敢に戦う力を、天主に与えてくださるよう願いましょう。
そして、聖ヨゼフに倣い、私たちは頻繁にイエズスの聖心を黙想しましょう。
イエズス・キリストの聖心は、私たちを必然的に謙遜へと導き、謙遜を愛させ、その実践を容易にしてくれるでしょう。
聖ヨゼフのように、イエズス・キリストの聖心の謙遜が、私たちの崇敬の主たる対象であり、私たちの模範となりますように。
私たちがこのようにすれば、謙遜な霊魂と共にいることを心から喜ばれる救い主は、聖母マリア様と聖ヨゼフにそうされたように、私たちにも恵みを注ぎ、親密に語りかけてくださるでしょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。