聖ヨハネ・ユードによる「謙遜」の黙想(その3)

ソース: FSSPX Japan

聖ヨハネ・ユードによる「謙遜」の黙想(札幌にて)

その3

第三回:私たちは「本来は怒りの子」である

今日の最後のお話です。

2025年の聖年を聖なる年とするために、1月と2月黙想会をしています。

そして、今回は四旬節が近付いているので、謙遜について一緒に黙想しています。

謙遜というのは、「天主を前に、私たちが被造物であるという分際をわきまえること」です。

そして、私たちは、イエズス様の御前で無に等しい者であるということを黙想しました。

それから二回目には、私たちは、一人では、主の力がなければ何もできないし、なんの価値もないし、何も持っていない。あるのは罪だけだ、ということを見ました。

 

では、あるのは罪だけ、罪を持っている、では、私たちはいったいなんなのでしょうか?

聖パウロは、エフェゾ人への手紙の中で、32節に私たちをNatura Filii Iraeと言っています。

「私たちは、怒りの子として生まれてきた」

聖ヨハネ・ユードに従って、私たちが、実は「怒りの子」として生まれたというのはどういうことなのか、ということを一緒に黙想して、それを題材に、ますます謙遜になることができるように、私たちの分際は、いったい私たちのあるべき、主の前であるべき場所は、あるべき座っているべき椅子はどこなのか、どんな立ち位置にあるのか、本当は、私たちはどんな分際なのかということを見てみましょう。

 

三つのポイントがあって、一つは、私たちはなんで怒りの子として生まれてきたのか、その理由です。その理由は三つあって、原罪を持って生まれてきたので、罪の子、滅びの子、怒りの子です。聖ベルナルドはこう言っています。「私たちは、自分の中にあらゆる罪の源を持っている。」

確かに、自分を調べてみると、傲慢とか貪欲とか妬みとか、七つの罪源と言われている、ありとあらゆる悪徳の罪の源を、自分の中に持っていることを確認することができます。

もしも、私たちがルチフェルのように傲慢になったり、あるいは、ユダのようにお金のために主を売ってしまったり、あるいは、カインのように嫉妬して兄弟を殺してしまったり、あるいは、ルカ16章に出てくる金持ちのように、毎日豪華な御馳走を食べている大食漢になったり、あるいは、ヘロデのように残酷で、自分の子供さえも、あるいは、生まれたばかりの罪のない赤ちゃんも、自分の立場、自分の地位を、もしかしたら奪うのではないかということで、残酷に殺したり、冷淡になったり、あるいは、反キリストであるかのように淫乱になったり、そしたら私たちは、外の暗闇に追い出されるという、聖マテオの福音の2530節にあるように、外の暗闇に追放されて当然のものを、私たちのうちに持っています。

ですから、もしも私たちが悪口を聞いたりとか、誰かが腹立たせるようなことをしたとしても、いったいそれは不当なことなのだろうか? 

もしかしたら、ありとあらゆる罪の種を、悪の種を自分の中に宿しているのだから、もしかしたらそれが当然なのではないだろうか?

教会の中で、司祭はミサの典文の時に黙ってお祈りします。ただし、典文中一回だけ大きな声が聞こえる時があります。

胸を打ちながらNobis quoque peccatoribusと言うのですが、この時だけは沈黙を破って、司祭は声を出して、胸を叩きながらNobis quoque peccatoribusと言うのです。

何故かというと、これはどういう意味かというと「私たち罪人にも憐れみをください、赦しをください」という意味です。

ところで、私たちは原罪を持って生まれてきたのみならず、私たちはその結果、悪への傾きを持っています。もしも主が支えてくださらなかったら、いつも支えてくださらなかったら、その悪への傾きがあるので、聖ヨハネ・ユードの表現によれば、「私たちは、ありとあらゆる種類の罪の地獄に、石臼が空から落ちるよりも勢いよく落ちてしまうだろう」と言っています。

「空に向かって投げられた石臼よりも、勢いよく落ちていくだろう」と。

さらに、聖ヨハネ・ユードは、「もしも奇跡によって抑えられなければ、特別な御恵みによって奇跡的に抑えられなければ、私たちは、ありとあらゆる種類の罪の地獄に落ちるだろう」と。

この「私たちを罪へと引きずり込むこの重り、この悪しき傾きは自己愛である」と言います。

聖アウグスティヌスはこう言っています、『告白』の中に。

「自己愛は私の重りである。私はどこへ行くにも、その重りに運ばれる(下に行く)」(聖アウグスティヌス、コンフ113C- 9 

ですから、私たちは悪への傾向を持っているので、私たちは罪人と言わなければなりません。

私たちの成す仕業、成す事業といのは罪人の仕業であって、もしも罪を犯さないことができたとしたら、私たちを、そのように支えてくださる天主の憐れみに感謝しなければなりません。

もしも、天主が他の人々に、天主が私たちに与えてくださったのと同じ恵みをお与えになられたとしたら、きっと、他の人は私たちよりももっと早く、もっと優れた聖人になっていたでしょう。

ですから、他の人を見て、私たちは特に軽蔑する理由などないと、聖ヨハネ・ユードは言います。それのみならず、罪の傾きがあるのみならず、私たちは実は罪の奴隷である。

何故かというと、聖ヨハネはこう言うからです。

813節「罪を犯す者はだれでも、罪の僕である、奴隷である。」

ですから、もしも主の助けがなかったら、罪が私たちを支配して、主人となって、私たちはきっと罪のことだけを考えて、罪のことだけを話して、罪だけを行なって、それ以外の何も良いことをすることができなくなっていただろうと。

ちょうど、聖なるものが、聖人が聖徳へと高められるように、私たちも罪に凝り固まってしまって、罪へと変えられてしまっただろうと。

罪以外のそれ以外何者でもなくなってしまっただろうと。ですから、そのような私たちは、天主や他の被造物が、罪そのものだとして取り扱って当然だろうと。

では、第二のポイントなのですけれども、「怒りの子として生まれた」。

罪は、いったいどれほどの邪悪さを持っているのでしょうか?

そこを見ることによって、そのような邪悪さを持っている罪を犯すような私たちは、どれほど価値のない者だろうか、ということを見ます。

まず、罪というのは、「天主のものを奪い取って、自分自身を天主とする」と聖ヨハネ・ユードは言います。どういうことかというと、私たちが罪を犯すと、私たちの可能な限り、天主をその玉座から引きずり下ろして、天主を無として否定して、そして自分を天主の座につけるということに他ならないと言います。

天主のみが持つ尊厳を奪って、自分がその尊厳の座に立つということです。

このすべてのものは、御自分のために主は創られました。

天主は、万物(被造物)を御自分のために創られました。

天主こそが、人間すべての被造物の源であって、原理であって、模範であって、究極の目的です。ところが、その頂点である天主の立場を、人間が奪い取って、そして天主ではなくて、私を模範として、私の考えをルールとして、自分に従うようにとすることです。

天主は、全能の創造主は、全宇宙を万物を創った時に、御自分を目的として、御自分の至福に幸せに到達することができるように創りました。

そして、そのために御自分を模範として、御自分の正しい規律を与えて、掟を与えて、そして思い、言葉、行ないによって、心を尽くし、魂を尽くして主を愛して、主に向かうように望まれました。そのために、天主を知ることができる知性も人間は持っています。

天主を愛することができるように、意志も持っています。

天主のもとに行くことができる、天主のために尽くすことができるような、すべての能力が与えられました。

さらに、人間がそれを喜んですることができるように、自由にすることができるように御恵みを与えて、信仰の光を与えて、私たちの心を照らして、愛の心を与えて、意志を燃え立たせました。

ところで、人間は恩知らずにも、すべてを受けながら天主から離れて、自分の利益のために自分を捧げて、天主への愛のために用いる代わりに、天主を愛する代わりに自分を愛しました。

自分の利益だけを考えて、天主よりも被造物、自分を選択しました。

天主へと行く代わりに被造物に愛着して、天主から遠ざかってしまいました。

そして、すべての恵みと祝福を天主に帰そうとする代わりに、自己満足と自尊心で、自分自身にすべて帰しています。

あたかも無でしかないような自分によって、すべてがもたらされたかのように、自分の情念、欲情の支配に従っています。

天主を支配者として従う代わりに、天主の霊に導かれる代わりに、自分の汚い自分の歪んだ情欲に導かれて生きています。自分を目的として生活します。

本当ならば天主のうちに安らぎを得て、平安を得て、天主のためにすべてを行なうべきなのに、その代わりに自分のうちに安らぎを求めようとして、自分のためにすべてを尽くそうとして、そして苦しんでいます。

すべてを創られて、すべての善の源であって、最高の善をお持ちの、完璧な幸せの御方の憐れみと愛と、そしてその喜びと名誉と利益の、その源の方こそが、すべてに勝って優先されるべきにも関わらず、人間は、自分だけの自己愛と、自分の喜びと自分の名誉と自分の都合を最優先して天主を否みました。

こうして、天主の座から天主を引きずり下ろし、玉座を簒奪して、奪い取って、自分はあたかも天主であるかのようにして自己崇拝に陥り、天主だけが持っている崇敬を自分に払っている。

これが罪の極致であって、罪が意味するところです。

私たちが罪を犯す度に、何度も行なってきたことでした。

このような底無しの罪を犯してきた私たちは、尊敬するに値するでしょうか?

それとも軽蔑に値するのでしょうか?

それだけではありません。罪を犯すと、自分を天主とするだけでなくて、天主によって創られたすべての被造物に対して、自分を天主であるかのように見せつけます。

何故かというと、天主のみに属する者を、他の被造物に与えて、天主よりも自分の利益と喜びと名誉を優先することを望んでいるので、あたかも自分に、私に究極の善があるかのように自分を高く評価して、あたかも自分が独自に善を行なうことができるように、自分を賞賛して、喝采を浴びることを罪人は望んでいますから、そうすることによって、被造物は、あたかも私を天主であるかのように賛美して喝采する、そして褒め称えることを望んでいます。

主のためにすべてを行なう代わりに、自分のために行ないながら、そして自分に賛美を求めています。そうして、天主だけがあらゆる被造物に対して持っているべき地位を奪って、自分がその誉れを得ようとしてきました。これが罪の深淵です。深い淵です。

そして、そのような簒奪の横取りの行為を、私たちは罪を犯す度にしてきました。

そればかりではないと、聖ヨハネ・ユードは言います。

「最後の極限があり、不義の最も深い淵がある」と。

罪人は、天主が自分のあたかも奴隷であるかのようになることを望むと。

つまり、天主が、私の利益や私の喜び、名誉を、天主御自身の名誉や喜びよりも優先してくださることを望んでいる。天主の御摂理が支配するよりは、私の思いの通り世界が動くことを望んでいる。

あたかも天主が私の下僕であって、奴隷のように働かなければならないことを望んでいる。

そして、天主が、罪人の私の気まぐれや、空想のままに世界を支配してくださる、導いてくださるように望む。

こうして天主の上に立つ天主となろうとして、もしも私の言うことをしてくれない天主なら天主ではない、要らない。

天主に自分を崇敬させて、崇拝させて自分を偶像化しようとさせる。

これが罪の底無しの淵であって、私たちは罪を犯す度にそれを行なってきた。

私は無であるにも関わらず、天主がすべてであるにも関わらず、天主の上に立とうとしてきた。

もしも、被造物があるいは天主が、私のことのために何も与えずに、何も顧みなかったとしてもそれは当然ですから、罪人ですから。しかし、天主だけのものを、私がそれを奪い取ろうとしてきた。

では、聖パウロは「怒りの子として生まれてきた」と言うのですけれども、確かに私たちは罪を犯すことによって、酷いことをしてきましたけれども、では罪の結果、いったい私たちはどうなのでしょうか?

罪の結果、私たちは、天主と天主が創ったすべての被造物の怒りの対象になった。

そして、私たち自身の断罪の対象にもなったということです。

ですから聖パウロは、私たちは怒りの子として生まれてきたと言っています。

何故かというと、私たちは、肉体と霊魂を主のために使うために与えられました。

しかし、罪を犯すことによって、まず霊魂を殺します。超自然の命を奪い去ります。

そして罪を犯すことによって、しばしば飲み過ぎたり食べ過ぎたり、あるいは節制を欠いたり、不貞潔などあるいはその他の濫用によって、自分の肉体さえも可能な限り傷付けます。

ですから、罰としてその命、天主からの御恵みや友情、永遠の幸福、地獄の苦しみを味わうこととなって当然ですけれども、悪魔が、あるいは地獄にいるすべての人が、私たちを傷付けるよりもさらに、罪を犯すことによって、私たちは自分自身に害を与えていることになります。

何故かというと、まず罪を犯すからこそ霊魂が殺されるのであって、罪を犯すからこそ私たちの肉体が害を受けるからです。

そこで、聖ヨハネ・ユードはこう言います。

「地獄の悪魔やこの世の生き物が、どのような怪物であれ昆虫であれ、たとえ私の破滅のために一致団結したとしても、罪を犯すことによって、罪はそれよりもはるかに多くの害を与えている。

だから、私はこの世のすべての忌まわしく卑しいものよりも、罪を犯す自分自身を軽蔑して、へりくだり、憎むべきである。

もしも罪を犯すことによって、私が悪魔に明け渡されるならば、悪魔は私の憎しみを行使するだろう。私の罪によってもたらされた憎しみを、悪魔は私に対して行ない、正義の行為を行なうだろう。」

悪魔が、もしも私たちを地獄において傷付けたとしても、それは正義の正しいことをしているわけです。しかし、罪を犯す私たちは、罪を犯したといって非常に自分を賞賛して、自分を高く評価して、自分をますます愛して「ああ、すごいことをやった」と褒めています。

聖ヨハネ・ユードは言いますが、「これは矛盾ではないだろうか。悪魔でさえも正義をするのに、私たちは不正義をしている。死よりも悪魔よりも地獄へでも、罪以外の何者でもない私を憎むことを許してください。」

つまり言いたいことは、死よりも悪魔よりも地獄よりも、私たちは罪を憎まなければならない、そして、そのような罪を犯す私自身を憎まなければならない。

罪を犯すことによって、私たちは可能な限り最も酷い悪を自ら招くのですけれども、自分だけではありません。罪を犯すことによって、可能な限りにおいて、天主の聖なる業をことごとく破壊しようとします。

自然界で罪を犯すことによって、天主が立てた秩序を不当にも崩壊させようとして、全世界を無に帰そうとするかもしれません。

でも、神学者たちはこう言っています。

天主が創った全宇宙、大宇宙がもしも無となったとしたら、無に帰されたとしたら、たとえばノアの時代の大洪水で、すべての動物たちが地上からいなくなってしまったとしても、大罪を犯すほど大きな悪ではないと。

罪を犯すということは、たった一つの罪だったとしても、全世界が滅亡するよりも、滅亡させるよりも大きな悪を行なうことになる。

何故かというと、たった一つの霊魂でも、自然界よりもさらに価値があるから。

ですから、大罪を犯した者は、天主の御恵みと栄光の世界も無として、そして全宇宙を破壊させたよりもさらに重大な悪を行なうことになる。

ですから、罪人は当然、自然界、御恵み、恩寵、栄光のすべての被造物の怒りを買うことになって、裁きの日には、その正当な怒りを私にぶつけることになります。

今でさえ、きっとそうすることでしょう。もしもイエズス様の御憐れみと、イエズス様の流された御血潮がこれを制止しなければ、正当な怒りを私たちに投げつけてきたことでしょう。

そればかりではありません。天主の御業を、被造物を破壊するのみならず、天主さえも滅ぼそうとします。

何故かというと、天主の贖い主イエズス・キリストのすべての御業さえも、それをドブに捨てるようなものであるからです。

イエズス様の成したすべての功徳、苦しみ、尊い御血、天主の御子の御生涯と御死去、そして聖なるカトリック教会に定められたすべての秘蹟、救霊の手段を、罪を犯すことによってまったく無用のものとしてしまいます。

ですから、聖ベルナルドは、罪人は「自分の力の及ぶ限り、天主を無としようとする」と言っています。

聖パウロはヘブライ人の手紙の中に、「イエズス・キリストを、天主の子を再び十字架につける」(ヘブライ6, 6)と言っています。

ですから、このような、天主さえも天主の尊い御業さえも滅ぼそうとする、無としようとする罪に対して、そのような罪を平気で犯している人々に対して、すべての被造物は、一致団結してこれを打ち砕くべきであると思うことでしょう。

ですから、私たちは怒りの子として生まれたということが何を意味するかというと、私たちは善を受けるに値しない、またすべての悪を受けるに値する者となったということです。

私たちは怒りの子として生まれた、不義の子として生まれた、死の子として生まれたので、善を受けるには値しない、ということです。

肉体的な善、霊的な善、時間的な善、永遠に関する善、自然の善、超自然の善、栄光における善、すべて私たちは今、絶え間なく毎瞬間、毎瞬間、溢れんばかりの愛と御恵みを頂いているのですけれども、実はそれに値しない者なのだ。

ふさわしくない、無限にふさわしくないにも関わらず、主はあまりにも善い方なので、それを与え、喜んで与え続けておられるのですけれども、でも私たちはそれを受けるにふさわしくない者なのだということです。

何故かというと、罪によって天主からの祝福を自分から遮って、天主の聖寵と天主の愛と友情を自分から奪ってしまったから。

天主の子供であり、天国の相続人であるというとてつもない御恵み、また、天主が持っておられるすべての宝を、私たちは自分で放り捨ててしまった身分であるから。

また、本当ならば、私たちが天主に対して奉仕しなければならないし、名誉を栄光を帰して愛して、天主に従わなければならないのですけれども、それをも拒否して、それを奪って、天主に与えるべきものを盗んで奪って、天主に与えるべき栄誉を栄光を自分に帰してしまっているので、私たちは、もはや善を受けるに値しなくなってしまった。

尊き御血の、イエズス様の御血によって贖われた、無限の価値のある御血で贖われた私たちですけれども、自分でそれを捨ててしまったので、罪を犯すことによって捨ててしまったので、そしてさらに、イエズス・キリストを十字架につけることを望んでしまったので、そしてその結果として、被造物からその贖い主を奪うことを望み、私たちは受けるべき善、善を受けるにはあまりにもふさわしくない立場に自分を追いやってしまいました。

ですから、もしも私たちが忘れられたり、あるいは評価が低かったり、あるいは何か軽蔑を受けたとしても、それは別に驚くことではありません。

善を受けるに値しないのみならず、私たちは、あらゆる悪を受けるに値するものとなってしまいました。聖ヨハネ・ユードはさらに言います。「私たちはあらゆる悪と軽蔑と罰、苦しみを受けるに無限に値する者になってしまった」と。

何故かというと、罪の邪悪さというのは、あまりにも邪悪なので、その大きさというのは、天主だけが、聖なる天主だけが完全に理解できます。

私たちは、罪によって無限に聖なる天主に侮辱を与え、損害を与えてしまったので、その結果、無限における無限の邪悪の性格を持っています。

ですから、聖ベルナルドはこう言っています。「罪人は自分の力の及ぶ限り、天主を無とする。」

つまり、天主に無限の邪悪を与えてしまうということです。

ですから、もしも被造物が、あるいはこの自然界の生き物が、言葉や行ない、行動で私たちを傷付けたとしても、天主が私たちを罰したとしても、私たちは驚くべきでしょうか?

何故かというと、聖なる創造主、あるいは、その創造主に忠実に生きているこの世のすべてのものが、地獄行きの虚無そのものである私たちが、むしろ、存在している、ここにいるということを許しているということに、私たちは驚かなければならないと、聖ヨハネ・ユードは言います。

ですから、他の生物が、言葉や行動で私たちを傷付けたり、天主が私たちを罰したとしても、驚くには値しないと。

むしろ、聖なる天主、創造主が、そして主に忠実なすべての被造物、生き物が、「地獄行きで虚無以外の何者でもない私たちが、今こうして存在していることを許しているということ」に、むしろ驚くべきだろうと。

怒りの子として生まれてきたというのは、このような意味であると言います。

ですから、善を受けるにも値しないし、またあらゆる悪を受けるに値するということは、何を意味するかというと、もしも私たちが謙遜になろうとしても、謙遜になり過ぎることができないということです。

ですから、聖ヨハネ・ユードの説明には、つまり、私たちは、自分の無価値と惨めさの深淵を完全に理解することができない。

この知識を深く十分に知り得た後でさえも、私たちの無の底知れぬ深淵には、まだ知られるべきことが無限にあると言わなければならない。

知らなければならないことが、まだ無限にあると言われなければならない。

だから私たちは、決して十分に謙遜になったと言い切ることはできないし、最大の努力をしても、自分の卑しさによる屈辱から、本当の謙遜の最終段階からは遥かに遠ざかっているだろう。イエズス・キリストだけが、この最終段階に到達した。

何故なら、天主だけが、自らを限り無く御謙遜になさったからである。

私たちがいくらやろうとしても、到底十分な謙遜にはなりきれない。

この地上、そして地の下の地獄のすべての生き物が、全力を尽くして私たちを軽蔑し、中傷し、馬鹿にしたり侮辱したとしても、それは、私たちが受けるに値する屈辱のほんの一部にすぎないだろう。

それにも関わらず、と聖ヨハネ・ユードは言います。

どうして私たちは、まだ苦しみを避けようとしたり、謙遜になることをこんなに難しく感じたりすることができるのでしょうか?

どうして私たちは、名誉を愛し、軽蔑をこんなにも恐れることができるのでしょうか?

主イエズスよ、私たちに憐れみを与えてください。

 

聖ヨハネ・ユードは、さらに話があるのです。

怒りの子として生まれたというのは、つまり、私たちは、天主が創ったすべての被造物が、私たちに対して怒って当然であり、永遠の苦しみを受けるに値する者となったということです。

 

しかし、既に時間が来てしまいましたので、今日はここでお話を終わりますが、私たちは最後にこう主に祈りましょう。

私たちは、まったく無であって、なんの価値もなく、そして役に立たない下僕であると。

私たちには、罪しかない。私たちは怒りの子として生まれてきた。

ですから、私たちが当然受けるべきものは何かということを思い出して、そして、そのことをいつも思いながら一日を過ごすように致しましょう。

そうすると、いつも謙遜の機会がある時に、「あ、来た!やったぁ!」と、そしてその時に(不満や憤りを感じる代わりに)私たちは聖霊が教えるように、常に謙遜でいられるようになることができます。聖書にもこうあります。「すべてのことにおいて謙遜になりなさい。」

ですから、私たちはこう言いましょう。

「イエズス様に、永遠に誉れと栄光がありますように。アーメン。」

 

では、お祈りをして終わりに致します。