聖ヨハネ・ユードによる「謙遜」の黙想(その2)

ソース: FSSPX Japan

聖ヨハネ・ユードによる「謙遜」の黙想(札幌にて)

その2

第二回:私たちは何もできない、何の価値もない、罪以外何も持っていない。

第一回目の話では、私たちが無に等しい者である。天主だけが、ありてある者であって、私たちは、すべて主から受けた者であるということを黙想しました。

 

では、私たちは無に等しい者であるということは、さらに言うと何か?

聖ヨハネ・ユードに従って黙想を続けます。

 

このお話で、三つのポイントがあります。

一つは、私たちは何もできない。

第二に、私たちはなんの価値もない。

最後に、私たちは何も持っていない。あるのは罪だけ、ということを見ましょう。

それを黙想することによって、ますます私たちが謙遜になることができますように。

そして謙遜になることによって、ますます私たちの心が砕かれて、そして柔らかくなって、そしてお祈りとか償いとか、御恵みが染み通って、そして豊かな四旬節の実りをもたらすことができますようにしていきましょう。

 

では、第一のポイントですけれども、私たちは何もできない、これを考えてみます。

天主のみ全能で、その力は永遠であって、無限であって、絶大で、すべてが、天主のすべてが善であって、正義であって、憐れみであって、そして完全です。

天主の善は全能であって、天主の正義も全能であって、天主の憐れみも全能であって、天主の完全性も全能です。

天主にとってはすべてができます。天主の善さ、そのお持ちの性格すべてが全能です。

そして、誰であったとしても、一瞬たりとも天主の全能の力に刃向かうことはできません。

天と地も全宇宙も、全被造物が力を合わせても、天主に刃向かうことはできません。逆らうことはできません。出エジプトにはこうあります。「その名は全能。天主の御名は全能である」と。

でも、天主が全能であるということは、自分に矛盾することをすることはできません。自分を破壊することはできません。

ですから、罪を犯すということは全能の力ではなくて、弱さによります。無力さによります。

ですから、天主が罪を犯すことのないとしても、それは、全能には一切関わりがありません。

そして、この私たちは、全能の憐れみである天主からすべてを頂いて、天主に属している者です。天主は、私たちを子供として愛しておられ、特別に選ばれて、私たちを恵み続けておられます。

どれほど素晴らしいことでしょうか!

グロリアという、ミサの時に、 Gratias agimus tibi propter magnam gloriam tuam.

「御身の栄光が偉大であることがゆえに、私は御身に感謝します。」

ところで、この全能、天主こそが全能であって、そして、天主こそが、私たちのうちにある弱さを助けてくださることができますし、私たちの悪を、私たちのうちにある悪を滅ぼすことができます。そして、この全能の天主が、私たちのために人間となられました。

人間となったイエズス・キリストは、なんとおっしゃったかというと、ヨハネ530節にはこうあります。「私は何一つすることができない。私が行なうことはすべて塵。御旨を果たすために、私から自分では何もしない」と言っています。

そうすると、イエズス様でさえも、天主御父にすべて依存しているということを、従っているということを表明しつつ、私たちに模範を示しています。

全能の天主御子がそうであるならば、被造物である私たちは、いったいどうなのでしょうか?

ですから、私たちもどんなに良いことがあったとしても、どんなに素晴らしい業績を成したとしても、実は本当のことは、自分でやったというよりは、主が憐れんでそれをすることができるようにしてくださったがためです。

御子でさえも、自分では御父なしには何もできないことを認めているのですから、そして、自分が成し遂げたすべてのことを御父のためにした、御父のためだと言っているので、御父に帰しているので、私たちはいったい、自分のものと帰することができるでしょうか?

マリア様は、この御謙遜において、御子を完全に真似されました。

それなので、御父は、すべての力を御子に、そしてマリア様にもお与えになりました。

どれほどイエズス様がすべてを御父に帰したがために、その報いとして、御父から力を受け取ったかというと、イエズス様は、最後にこうおっしゃいます。

「天においても地においても、すべての力は私に与えられている。」

イエズス様が謙遜であれば謙遜であるほど、天主御父はイエズス様を高められました。

マリア様が御謙遜であれば御謙遜であるほど、主のはしためであればはしためであるほど、天の元后にまで高められました。

それはなぜかというと、私たちの傲慢を打ち砕き、それから、私たちが、イエズス様とマリア様の謙遜を分かち合うことができるようにするためです。

私たちは何もできない、ということはどういうことかというと、何を言いたいかというと、自分の力だけでは、天主に喜ばれるようにすることは何もできない。

イエズス様は、弟子たちにこう言われました。

「おまえたちは、私なしには何もできない。」(ヨハネ15, 5

イエズス様の御恵みがなければ、主を喜ばれるようなことさえも、何もできないということです。

第二には、私たちが何もできないというのは、喜ばれるようなことができないのみならず、善いことを言うことさえもできないということです。行ないのみならず、言葉さえも善い言葉を言うことができない。イエズス様はこう言いました。マテオ1234節にこうあります。

「毒虫(蝮、毒蛇)の世代よ、あなたがたは悪であるのに、どうして善いことを言うことができようか。」

あるいは、コリント前書123節には「聖霊によらなければ、だれも主イエズスと言うことはできない。」

何もできない、善いことが何もできない、善いことを言うことが何もできないのみならず、考えることさえもできないと、聖ヨハネ・ユードは言います。

コリントの第二の手紙35節には、「私たちが満ち足りるのは天主からである。」

ですから、天主の御恵みなしには、善い思いすら抱くことができないということです。

そして、もしも主の助けがなければ、私たちは、善の聖徳の行ないを行なうことさえ少しもできずに、そして、このわずかな誘惑でさえ、一瞬たりとも抵抗することができないだろうと。

ですから、私たちは、主の御助けがなければ、主が助けてくださらなければ、まったく善いことを思うことさえも、考えつくことも、言うことも、行なうことも、悪に抵抗することさえもできない。なんら行なうこともできない、これが真理だ。

ですから、私たちは、いつもこう言わなければならない「主よ、早くわが助けに来たまえ」と。

Deus, in adjutorium nostrum intende. Domine ad adiuvandum me festina,

では、自分では私たちは何もできない、ということをさらに進めると、実は、私たちはなんの価値もないと言わなければなりません。これは第二のポイントです。

まず、イエズス様は天主ですから、人間となった天主でありますから、すべてが天主の価値を持っています。無限の価値を持っています。

イエズス様の御考え、御言葉、行動すべてが無限の価値を持っています。

そして、イエズス様の御人性も人間の本性も、肉体も霊魂も天主の本性と一致しているので、その涙一滴も、御血ひとしずくも、汗のちょっとも、すべてに無限の価値があります。

それにも関わらず、イエズス様は、あたかもまったく価値がないかのように扱われることを望まれました。まったく無価値な存在であるかのように生活しておられました。

イエズス様の御言葉、イエズス様のその御業、奇跡、その御人性、御生涯、尊い御血をまったく価値がないように軽んじられました。

その生活された当時から、あたかも自分のものはなんでもないかのように、そしてそれをあたかも当然であるかのようにされていました。考えて行動されていました。

現代でも、イエズス様はまったく価値がないかのように、多くの人から取り扱われているのです。キリスト教を信じないような人々、異端者、それから、イエズス様のことで冒瀆を受けたり、あるいは御聖体が冒瀆されたり、あるいはあざけられたり、イエズス様の教えた福音が馬鹿にされたりしています。

しかも、中には、カトリック信者たちからも同じように悪く取り扱われたりもしています。

そして、十字架にもう一度つけ、足蹴にしています。イエズス様の模範を見ると、私たちは、価値があるイエズス様でさえも、それを受けることを甘んじるならば、私たちは、いったいどのように謙遜にそれを、私たちには価値がないということを受け入れるべきでしょうか?

聖ヨハネ・ユードは、さらに言葉を続けます。

どんなに惨めであっても、どんなに小さな虫けらであっても、植物であっても、彼らは天主に従順に従っている。鳥も犬も天主の御摂理に従って、本能に従って生活している。

しかし人間は、罪の堕落のために、被造物の中で動物以下に落ちてしまっている。

泥や塵や、最も卑しいものの下に、自分を置くようになってしまっている。

何故かというと、罪を犯しているから。

ヨナタンは、自分を死んだ犬とダビドに対して言っています。そのように考えていると。

「私のような死んだ犬を顧みられるとは、いったいあなたのどのような下僕なのでしょうか。あなたはいったいどのような方なのでしょうか。私はいったいあなたのどのような下僕なのでしょうか」(列王記下98節)と。

罪を犯したがために、私たちが価値を失ってしまったということをもっと掘り下げてみると、イエズス様は、こうおっしゃったことがあります。

あなたがたは、地の塩である。もしも塩が味を失ったら、何で味を付けるだろうか。

もしも、そのような塩が味を失ってしまったら、なんの役にも立たず、捨てられて足に踏まれるだけである、と。

罪に陥っているということは、味を失った塩と同じだと、聖ヨハネ・ユードは言います。

ですから、私たちは罪を犯したのであるから、本来ならば、天主の家から追い出されて、人の足に踏まれるだけしか価値がない者です。

預言者エゼキエルの書には、ぶどうの木について、実をもたらさないぶどうの木について話しています。「ぶどうの木はどうなるのか、なんの役にたつのか、それはどんな仕事に役立つだろうか」(エゼキエル15, 2-4

火の中に入れるだけしか役に立たない。

マタイ310節にも、役に立たなければ、火の中に投げ込まれるだけだと言われています。

ですから、罪を犯したアダムの子孫すべての運命はこれです。

永遠の火に投げ込まれるしかない、それこそが、私たちの価値であるということです。

そして、もしもそうだとしても、これは天主が正義に従ってなさったことなので、聖ヨハネ・ユードによれば、私たちは、当然罪を犯すならば地獄に落ちる、火に焼かれるべき者なのですから、天主が、わざわざこの玉座に立って、私たちを義か善か裁くほどのことさえも必要ではない、そういう裁きを受ける資格さえもない。

何故かというと、私たちの卑しさと、堕落と罪を考えるならば、ヨブ記にこうあると。

143節「あなたは、このような者に目を開き、あなたとともに裁きを受けさせようと思うのか。……彼をあなたの裁きを受けさせるにふさわしいとお考えになるのですか」

その価値さえもないと。

では、この結果、第三に、聖ヨハネ・ユードは私たちに何を言うかというと、私たちは、何も持っていない、罪以外何も持っていないということです。

まず、聖ヨハネ・ユードは、いつも主の模範を考えさせます。

イエズス様が無価値であるかのように思われ、自分が取り扱われるような模範を示した、あるいは、御自分は一人では何もできない、御父にすべてを帰しておられたということを見たように、イエズス様は、聖徳と聖寵に、恩寵に満ちた御方であったにも関わらず、真理に満ちた御方であったにも関わらず、常に御自分を謙遜に考えていました。

主の中には、まったく悪の影さえもなかったにも関わらず、あたかも悪に満たされていたかのように、人々は取り扱いました。

そしてまた、悪に満たされて善が無かったかのように、御自分を謙遜にへりくだっておられました。すべてを自分のものとはせずに御父にゆだねて、御父に帰しておられました。

それでもしもイエズス様がそうであれば、私たちはどう考えれば良いでしょうか?

聖パウロは、ローマ人への手紙718節でこう言っています。

「私の肉体の中には、聖なるものが宿っていないと私は知っている。」

どんな善も、どんな資格も、どんな利点も、自然的なものであれ超自然的なものであれ、すべては、私たちは自分では何も持っていません。

聖パウロはこうも言っています。コリントの前書47節に「おまえは何を持っているのか。もし受けているのならば、なぜ、あたかも受けていないかのように、自分に栄光を帰しているのか。」

私たちが、もしも何か善を持っていたとしたら、これは主が私たちに与えてくださったもので、天からの賜物であって、超自然の賜物であって、私たちはそれに栄光を帰することはできません。

たとえば、私が綺麗なスータンを着ていて、高いイタリアのローマで作ったスータンを着ていて、すごい高価な生地を使って、すごく上手くできていて「おお、神父様、そのスータンすごいですね」と言われて、私が「ええ、すごいでしょう」と言って威張ったところで、「いや、神父様のことを褒めているわけではなくて、ローマのその洋服を作った人がすごいですね。スータンの話をしているのであって、神父様のことではないですよ」

もしも、主から私たちが超自然の御恵みをたくさん受けていながら、それを、あたかも自分のものであるかのようにするのはお門違いではないだろうか。聖ヨハネ・ユードは言います。

私たちが、主から受けた賜物が多ければ多いほど、ますます謙遜さを感じ、そして畏れなければならない。受けたものが多ければ多いほど、天主に捧げなければならないものが多くなる。

でも、自分を注意深く観察してみると、次のことに気付く。

つまり、私たちは、主の御前にますますへりくだらなければならない理由がたくさんあるということです。主からたくさん善いものをもらっていながら、実は私たちをよく観察すると、私たちの心の深くに根差しているものは、むしろ悪ではないだろうか。

信仰が足りないこととか、愛徳が足りないこと、正義が足りないこと、節制がないこと、慎重さのないこと、謙遜さが欠けていること、忍耐が欠けていること、柔和が欠けていること、従順が欠けていること、ありとあらゆる悪徳が深く根差しているだろうから、自己愛に満ちていて、自分を尊敬し、他人からの高い評価を願い、そしてうぬぼれている。

実はあらゆる善に欠けていて、あらゆる悪に満ちているにも関わらず、他人からはあたかもあらゆる善に満ちて、悪に欠けているかのように思われたく思っている。

実は、私たちは何も持っていない。あるのは罪だけだと。

第二の話はこれで終わります。