聖ヨハネ・ユードによる「謙遜」の黙想(その1)

photograph by Ralph S.
聖ヨハネ・ユードによる「謙遜」の黙想(札幌にて)
その1
第一回:私たちは無である
【はじめに】
2025年の聖年を聖なる年とするために、先月黙想会をしましたが、今回はその二回目をします。今回のテーマは「謙遜について」を考えてみます。
何故かというと、あと10日で四旬節、灰の水曜日ですし、四旬節の中によりよく入っていくためには、謙遜ということが必要だと思っているからです。
何故「謙遜について」かというと、四旬節の最初に、灰の水曜日に、司祭が、教会が私たちに灰をつけて、額に灰をつけて言う言葉が、「人間よ、汝は、おまえは塵であって塵にかえることを覚えよ」つまり、人間はまったく無に等しい、塵にすぎない、何もない、価値のない存在であるということを覚えよ、です。
ですから、謙遜について話すことを提案します。
そこで、今日は三回お話をしますが、一回目には、私たちが無であること、塵あくたにすぎないということを話そうと思っています。
それから二回目には、私たちは、私たちだけでは、主の助けがなければ、私たち自身では何もできないし、私たちだけではなんの価値もないし、それから、私たちが持っているものも何もない。つまり、私たちが無であるということは、いったい具体的にどういうことを意味するのかということを黙想しようと思っています。
三回目では、私たちは主の被造物で下僕(しもべ)ですけれども、役に立たない下僕にすぎない。罪ばかり犯している下僕にすぎないということを黙想して、私たちが謙遜になる、ますます謙遜になる、主の御前において謙遜になるためのこの黙想の材料を提供して、それから良い四旬節を送ってくださるようにと考えています。
今日のこの話を準備するのに、聖ヨハネ・ユードという聖人の本から、聖ヨハネ・ユードが謙遜について色々と黙想をしているので、それを参考にしながら今日はお話をします。
【私たちは無である】
まず第一に最初の黙想ですが、私たちは無である、「人間よ、おまえは塵であって塵にかえることを覚えよ」ということを黙想致しましょう。お話し致します。
まず、謙遜という、本当の謙遜とは何かというと、たとえば、主から頂いたものを否定してそれを卑下して、それを否定することが謙遜ではないのです。
たとえば、もしも主から、私たちに何か特別な御恵みを頂いて、「私たちはカトリック信者だ」とか、あるいは「私たちは日本人だ」とか、「私たちはヴァイオリンを弾くことができる」とか、もしもそうだとしても、それは主の御恵みによってそうなので、それを「いや、そうではないんですよ」と言うのが謙遜ではないです。
そうではなくて、本当の謙遜はどこにあるかというと、天主の御前で、私たちはいったいどんな立ち位置にあるか、私たちは、どのような分際なのか。
ですから、天主との、創造主との御前において、私たちはいったい何かということを、素直に認識して認めることが本当の謙遜なのです。
ラテン語では、謙遜ということをhumilitasと言うのです。
これはhumusという言葉からきて、これは土とか塵という意味で、実は私たちは塵あくたにすぎない者だと。humusという言葉からきていて、塵あくたにすぎないという意味なのです。
では、私たちが無だというのは、「有るじゃないか、私たちは存在を与えられているではないか」
では、いったいどういう意味で、私たちは塵あくたにすぎず、無機な、無きに等しい者なのかということを、一緒に考えてみます。
まず一番大切なのは、天主が絶対の主権者であるということです。
主は、モーゼに名前を聞かれました。エジプトを脱出する時に、(主が)モーゼを指導者とする時に、「私が言っても誰も信じないでしょう。ですから、あなたの名前を教えてください」と。
するとヤーウェは「私は、ありてあるものである。これが私の名前だ」(出エジプト記3章14節)と言うのです。主はこの時に、御自分が「ありてあるものである」という、この光と力に満ちた言葉を伝えました。天主のみが、始めもなく終わりもなく永遠に存在するからです。
申命記にも「私だけがあるということを覚えよ。私だけが存在することを見よ」(申命記32、39)とあります。
またイザヤの書には「すべての国々は、天主の御前では、あたかもまったく存在しないかのようであり、天主にとっては無であり、むなしいものである」(イザ40, 17)とあります。
天主の存在こそが永遠であって、そしてすべてを満たし尽くしていますし、限りがなく、変わることもなく、変化もなく、完全性に満ちておられる御方です。
限りもなく至福であって、豊かであって、栄光に満ちておられて、そして最高の主権を持っていて、誰からも支配されずに独立していて、すべての存在をあらしめているその存在の源です。
天においても地においても、また地の下においても、すべての被造物はこの存在の源である天主に敬意を表わして、そして膝をかがめると、聖パウロが言っています。
そして、天主のみ創造主として礼拝されなければなりません。
礼拝するというのはどういうことかというと、被造物が、絶対の創造主に対して「自分があなたから創られたものです」ということを認めて、それにふさわしい態度をとること、これを礼拝と言います。
ですからもしも、被造物が真の創造主以外のものに礼拝を捧げると、これは偶像崇拝になります。永遠に、誰からにもあらしめられることなく、御自分で常に変わることなく存在しておられる方こそ、「ありてあるもの」であると言われなければなりません。
ですから、もしもそうだとすると、天主以外のものは被造物はすべて、天主から「あらしめられて、ある」——存在させてもらっているものにすぎません。
たとえ天使たちでも、色々な七つの階級の天使たちであっても、ケルビムであってもセラフィムであっても、天主様から存在させられて、あらしめられているお陰で、存在を保っていることになります。
北海道の大自然、この美しい雪も、陽の射す、小枝から漏れる太陽の光も、その枝に残る雪も、雪の上を舞う鳥も皆、主からあらしめられて存在しています。
ですから、創造主だけが、私たちにとって、本当の意味で最高だと考えられなければなりませんし、尊敬されなければならないし、愛されなければならないし、尊ばれなければなりません。
ですから、本当ならば、このたとえ美しい大自然の真っ白い雪であっても、美しい鳥の歌声であっても、あるいは、青い空と美しい湖であっても、どのような素晴らしいものであっても、これは主によって創られたほんのちょっとしたものなので、最高の善、最高の美、最高の頂点その源である主から比べれば、塵あくたにすぎないのです。
ですから、被造物を愛して、被造物を探し求めて、被造物をというよりは、それよりももっと、その根源を求めて愛し、望み、追究する価値があります。
でも、私たちのいつもの話の内容は、被造物の話で、天主のことはほとんど話すことがありません。
では、私たちはそのような天主に対して罪を犯すと、どのようにして主を、ありてある方を、あたかも無いかのように取り扱っていることになるか、ということを考えてみます。
まず、無神論者は頭の中で、あるいは口に出して「天主など存在しない」と言って、天主を無としようとします。無きものとしようとします。
詩篇の中にもこうあります。「 愚か者は心の中で言った:天主などいない」(詩篇13, 1)と。
しかし第二の段階で、ただ思いとか口だけでなくて、生活やあるいは日常の道徳において、ある人々は、天主を信じない人々は、あたかもまったく天主を無視して、行動して生活しています。罪を犯すことによってさらに、天主の御旨を無視して、天主を無としようとします。
主の御旨よりも、自分の気まぐれを達成しようと思うからです。天主の永遠の御旨を破壊しようとします。そして、天主の永遠の知恵を冒瀆しようとします、否定しようとします。
そして、天主が私たちを罰することなどないなどということを望んだり、あるいは天主は、私たちより力を持っていない、主権などないということで、軽んじようとします。天主の御摂理を馬鹿にしようとします。
しかも、私たちはたとえ理論的に、あるいは思想的に無神論ではなかったとしても、生活の態度で、時として主が存在していないかのように、主が私たちをご覧になっていないかのように生活したり、行動したり、あるいは罪を犯したり、主に対してその御稜威を傷つけたり、あるいは主を無視、あたかも無き者にしようとしていました。
これを考えると、私たちはますます謙遜になるようにと導かれています。
これが、聖ヨハネ・ユードが私たちに伝えたいという、謙遜への導きの第一の点です。
第二は、私たちが謙遜になるように、イエズス・キリストを見るようにと提案します。
イエズス様は、まず御自分が人間として非常に御謙遜になって、そして御自分はあたかも無い者であるかのようにされました。聖パウロはこう言っています。
「主は御自分を無とされた。空(くう)とされた。」(フィリ.2, 7)
それで、聖ヨハネ・ユードは、イエズス様は、人間性においても人間の本性においても、天主の本性においても、御自分をあたかも無いかのようにされたということを提案します。
まず、イエズス様は完璧な人間であったのですけれども、考えにおいても、そして内的な状態においても、内的な心の持ち方においても、言葉においても行動においても、御自分をあたかも無い者であるかのようにされて行動されました。
イエズス様は、御自分のことをいつも「人の子」と言っています。
人の子というのは、実はヘブライ語では「アダムの子」という言い方をするのですけれども、つまり、人の子というのは、無の子供のことである、なんの価値もない者であるということを言われます。
そして、お生まれになった時も、亡くなる時まで、まったく自分を無価値な者として、へりくだられて、御謙遜に従順に御生活されました。すべて天主御父のためになさいました。
自分のためになさったことはありませんでした。
このイエズス様の模範を見ると、私たちも考えや言葉や行ないにおいて、ますます謙遜になって当然ではないだろうかと、聖ヨハネ・ユードは私たちを謙遜へと招いています。
イエズス様がこれほど御謙遜なのに、無である私たちは、いったいどのような態度をすることができるだろうか?
イエズス様は、自分のためには何もおっしゃいませんでしたし、自分のために行なったのではなくて、すべては御父のために行ない、語り、考えておられたので、私たちはイエズス様を真似しなければならないのではないか?
これは人間性の点だけですけれども、天主の本性においても、御自分をあたかも無であるかのようにされました。もちろん、天主は御自分の本性を無とさせることはできませんけれども、しかし、あたかも無となったかのように御自分を取り扱いました。
たとえば、無限の存在である天主、始めもなければ終わりもない永遠の存在なのに、時間の中に人間としてお生まれになって、しかも赤子としてお生まれになりました。
あたかも無限の天主ではないかのように。
そして、全知全能の最高の知性である天主が、話すこともできないような赤ちゃんになられました。この一言で全宇宙を無から創ることができるほどの、それほどの方が、弱々しい赤ちゃんになって、母親の胸に抱かれておりました。
生命、すべての生命の源であって、すべてのものを生かしているその命そのものである天主が、十字架の上で死を迎えました。
最高の栄光と最高の幸せ、最高の名誉と栄光に満ちておられる方イエズスが、その天主が、不名誉と苦しみと貧しさ、そして十字架への磔の中にお亡くなりになりました。
すると、私たちは、私たちの中には、卑しいものや邪悪なものや、堕落したものがいっぱい満ちているのですけれども、それにも関わらず私たちは、自分を高めようとしたり、自分を傲慢に高く見せようとしたりしますが、イエズス様の模範と比べると、どれほど私たちは惨めなものでしょうか。
しかも、人間の本性としてへりくだられて、天使であるにも関わらず、あたかも無であるかのようになさることを、甘んじて受けたイエズス様ですけれども、実際にこの地上に生きておられる間、あたかも何者でもないかのように取り扱われて、そしてそのような生活を送られました。
無に等しい存在として、お父さんとお母さんに従い、そして人々からあざけりを受け、悪魔憑きと言われ、酒飲みと言われ、そしてありとあらゆる暴言、サマリア人と言われ、冒瀆の言葉を受けながらも、イエズス様は、それを忍耐強く寛容に、それを受け止めておられました。
もしも、主がただの人間であったとしても、それほどの尊敬を欠いて、それほどの優しさを欠いて、それほどのことをしたら、普通の人だったら怒るようなことを、真の天主であった方が、さらに不名誉で残酷に取り扱われながらも、主はそれを御赦しになりました。
しかも、現代においては、祭壇の御聖体において、天主の本性も私たちにとっては隠されて、人間の本性さえも隠されて、ただのパンであるかのように思われて、そしてカトリックの信者でさえも、あたかもイエズス様ではないかのように、パンの屑であるかのように取り扱って、それでもイエズス様はそれを赦されて、そのまま罰することなくおられております。
すると私たちは、それに引き換え、少しでも何か言われると、自尊心が傷付いて、夜も眠れずに、あのことを、あの人はこう言ったということを考えると、腹がメラメラして。
イエズス様は、それと比べると、どれほど御謙遜と柔和に満ちておられて、御自分が軽蔑されたり侮辱されても、そのように取り扱われても、それを甘んじ受けることのできるほど御謙遜でした。
では、聖ヨハネ・ユードは、黙想の第一点に、天主がありてある者であると、私たちは無に等しい、そしてイエズス様が、御自分がどのような態度を、謙遜な態度をとられるかということを黙想するようにしますが、三点、第三のポイントとして、では私たちはいったい何か?
天主から私たちの方へ、ちょっとちらっと目を向けてみます。
私たちは、主からあらしめられている者ですから、聖パウロはこう言っています。
「或る人が、自分は無であるにもかかわらず、自分は何者かであると思うならば、その人は自分をあざむいている」(ガラティア書6, 3)
ですから、私たちが無であるにも関わらず、何者かであると思うのならば、あざむいているわけです。つまり、無からあらしめられて、創造されて、そしてすべては主から頂いたものであると。これが事実なのです。
主は、なぜ私たちをあらしめてくださっているのでしょうか?
神学の話にちょっといくと、私たちは、創造されたのですけれども、これは、天主がまったく自由に、私たちをあらしめたということです。
なぜ自由かというと、主は無限の方なので、無限の可能性が、やり方があるわけです。私たちでなくてもよかったわけです。
私たち以外の他のもっと素晴らしい、あるいは無限の可能性のうちに、その中に皆さんを選んで、永遠の昔から私たちを愛されて、私たちを選んで、あらしめようと、そして皆さんのことを永遠の昔から愛されて、皆さんに永遠の命を与えようと思って、特別に今こうやって、今ここに存在しておられるわけです。
そして、今こうやって生活されて命を与えられて、イエズス様のことを知ることができるようにされる御恵みを受けて、そして何故かというと、永遠の命を与えたいと思われたからです。特別に選ばれて、今望まれて皆さんはここにいらっしゃるわけです。
他の無限の可能性があったのですけれども、今ここの世界を主は望まれて、これが現実に存在しているわけです。これが天主の自由と言われています。
本能的に、どうしてもそれをしなければならなかったということは一切なかったのです。
私たちでなければならなかった必然性は、一切なかったのです。まったく自由に、主が御望みになったのです。
では、なぜ私たちは選ばれたのでしょうか?
私たちに何か良いことが、特別な功徳とか、特別な主に気に入られることがあったのでしょうか?
いや、一切無かったのですが、私たちが持っているすべては、主から与えられたもので、私たちに与えられる理由も、ただ唯一、主が善い方であったから、それ以外には説明がありません。
私たちが選ばれたというのも、主がとても善い方で、私たちを愛してくださったから。それ以外の理由はまったくありません。
それにも関わらず、こうして私たちを生かしてくださって、愛し続けてくださって、私たちに御恵みを与え続けてくださっています。無に等しいような私たちをあらしめてくださっています。
この「ある」というのは、「存在している」というのは、私たちがよく考えて、分析して、言葉を現実を分析するとわかるように、一瞬しか無いのです、「ある」というのは。
一瞬経つと、「あった」になってしまいます。
その未来はあるだろう、でも「ある」というこの現実は、あっという間に過ぎてしまうのです。ちょうど、電気が、発電所から今この時に通じなければ電気が光らないのと同じなのです。
ちょっとでも切れたり、発電するタービンがストップして、電気が回らなくなれば、光もありません。私たちも、天主が今あらしめようと全瞬間、継続して、ずっとあらしめてくださるからこそ、今私たちはこうやって生活していますが、ちょっとでもそれがなくなってしまうと、もう無の世界に逆戻りしてしまわなければなりません。これが私たちなのです。
ところで、このような無に等しい私たちですけれども、すべて与えてくださった被造物を、あるいは時間を、あるいは才能を、あるいは生命を、あるいは能力を使って、罪を犯して主に対立しようとします。
無から引き出されて、なんの功徳もなく、なんの取り柄もなく、生かしめられている私たちですが、すべてを主から与えられている者ですが、それを使って、私たちは主に対立して戦いを挑んで罪を犯そう、罪を犯すことによって対立する。
そのような私たちは実は、しかもそのような罪をうぬぼれたり自慢したりしているような私たちは、天主にとって、どれほど耐え難いおぞましい存在であるでしょうか?
そうすると、私たちが言葉や考えや行動において、虚栄心を持ったり、名誉や賞賛を求めたりすることが、ちょっとお門違いではないかということを、ヨハネ・ユードは私たちに思い出させます。傲慢というのは幻想だ、嘘だ、盗みだと。何故かというと、私たちは無だから。すべては主から頂いたものだから。自分が何者であるかということは、自分をあざむくことであるということは、つまり、私たちは、傲慢になると嘘つきになってしまう。
なにか、善は自分のものとする者や、あるいは名誉や栄光を自分のものだとする者は、本当の所有者である天主からそれを奪って、無である自分のものであるとする盗人だ。
私たちはどれほど多くの盗みをしてきただろうか?
幻想を抱いてきたことだろうか?
嘘をつき続けてきただろうか?
無であるにも関わらず、どれほどこの過ちを犯してきただろうか?
私たちは、主に赦しを請わなければならない。
自分たちがどんな人間なのか、主が、もしも絶えず私たちのために憐れみを注いでくださらなかったら、私たちはどうなっていただろうか?
よく考えよと、ヨハネ・ユードは最後にこう言います。
「私たちは、無に過ぎない。主よ、イエズス・キリストよ、私たちは無に過ぎません」
これで一回目のお話を終わります。