聖十字架称賛の祝日の説教(大宮)
十字架上のキリスト
聖十字架称賛の祝日の説教(大宮)
2025年9月14日 ロンジーノ金神父
聖十字架称賛の祝日の説教(大宮)
1.はじめに
今日は、聖十字架称賛の祝日をお祝いしています。
十字架は、カトリックという宗教を象徴するしるしです。
しかし、十字架にさらに近づいて、よく見つめると、なぜ、これがカトリック信者のしるしでなければならないのかと、疑問に思うかもしれません。
そこには、裸の体を十字架にくぎ付けにされた一人の人間がいて、彼は、その状態で、周囲の人々の目の前で死んだのです。
それは、最も恥ずべき死でした。
なぜ私たちは、カトリックの宗教全体を象徴するものとして、この恥ずべき記念を保持しているのでしょうか。
なぜ私たちは、この祝日を「称賛」と題して記念し、お祝いするのでしょうか。
2.本論
十字架の重要性を理解するために、聖十字架について少し考察してみましょう。
1)私たちの主イエズス・キリストがつけられた十字架
まず、それは単なる十字架ではなく、私たちの主イエズス・キリストがつけられた十字架です。
私たちの主は、その十字架と密接につながれています。
むしろ、主ご自身が十字架と一体であるかのように、十字架につながれて固定されています。
主ご自身が、十字架と離れているのではなく、十字架と一つになられているかのようです。
聖十字架は、イエズス・キリストなしには決して存在しないものです。
ですから、人生において天主を見つけたいなら、天主がどこにおられるかを知りたいなら、十字架を見つめ、聖十字架のもとに行くべきなのです。
2)十字架に固定された私たちの主イエズス・キリスト
さらに、この十字架は、私たちの人生に、もう一つ教訓を与えてくれます。
この十字架は、キリスト信者として行動する法を与えてくれます。
十字架には、くぎ付けにされた一人の人間が見えます。
ご存じのように、人間は、自由意志と理性を持っているため、この目に見える世界で最も自由な被造物です。
人間は、自分の行いを自由に選びます。
しかし、その自由な被造物が、あらゆる自由を奪われて、十字架につけられているのです。
これは、何を意味するのでしょうか。
十字架は、天主の法を象徴しています。
私たちは、従順によって、自分の意志を天主の法に従わせることで、救いを得ることになるでしょう。
人間に与えられた最も高貴な能力である自由意志は、自分を天主の掟に合わせるために与えられたのです。
私たちは、自分の行いを、天主の法に、十字架につけなければなりません。
残念なことに、私たちの最初の父祖は、この十字架を捨てました。
彼らは、天主の掟の言葉を拒みました。
彼らは、自分たちに与えられた(天主の言葉という)この目に見えない十字架を捨てました。
その結果として、彼らはそれ(すなわち目に見えない十字架)から切り離され、天主の命を失いました。
堕落した人類に、この天主の法について教えるため、主は御自ら進んで、十字架刑を、十字架につけられるという苦しみを受けられました。
3)十字架刑による傷
私たちの主イエズス・キリストの傷のことを考えるならば、聖十字架は、さらに多くのことを述べているように思えます。
両足のくぎ付け
足によって、人間は、行きたい場所に行きます。
人間は、欲しい物、望んでいる物を手に入れることのできる場所に行きます。
私たちの主は、十字架をカルワリオまで運ぶために、ご自分の足を使われ、その十字架につけられました。
私たちの主の固定された足が私たちに教えてくれることは、私たちが行くべきだと天主が望んでおられる場所にだけ行き、一旦その場所に到達すれば、他の場所にさまよわずに、私たちの愛着や望みを天主のご意志に固定しなければならない、ということです。
両手のくぎ付け
手によって、人間は、あらゆる活動を行うことができます。
例えば、自分の体に危険が迫れば、人間は手を使って自分を守ります。また、人間は欲しい物を手の中に収めます。
ある人が何かを自分の手中に収めているのならば、その人がそれを所有しているということです。
しかし私たちの主は、手を使ってご自分を守ろうとはされず、永遠に続く命を保とうともされませんでした。むしろ、その代わりに、躊躇なく、両手を最大限に広げられました。
私たちもまた、天主と隣人に対して、自分を完全に、余すところなく捧げるように最善を尽くすべきです。
「すべての心、すべての霊、すべての知恵をあげて、主なる天主を愛せよ」(マテオ22章37節)
やりで貫かれた聖心
人間にとって、自分の命以上に大切なものはありません。
人間の命を維持する内臓器官の中で、心臓は最も重要なものです。
しかし、この心臓でさえも、体を流れる血液がなければ、役に立たない器官となります。
一旦、十字架のことに戻りましょう。
十字架の犠牲の結ぶ実は、イエズス・キリストの御血、つまり聖心、心臓の傷から流れ出た御血でした。
天主は私たちにも、日々の生活から同じ実を結ぶように期待しておられます。
私たちの活動の結ぶ実とは、どんなものであるべきでしょうか。その活動の、まさに命とは、どんなものでしょうか。
それは愛徳、天主への愛です。
天主への愛のために、自分の意志を犠牲とするとき、私たちの「傷を負った心臓」―なぜならば、私たちは自分の意志に従わなかったので、自分のしたいことをしないことによって、自分の意志を犠牲にしたのです―このことにより、私たちの「傷を負った心臓」から、愛徳の実が生まれるのです。自分をすべて捧げるのです。
3.結論
親愛なる信者の皆さま、この説教では、聖十字架について、少し考えてきました。
十字架は、単に一人の人間の恥すべき死を記念するだけのものではありません。
十字架は、歴史の最初に人間が拒んだ天主の法を、再び示し再建するものなのです。
ですから、私たちは、「称賛」という単語を用います。
この単語は、人間が歴史の最初期に拒絶したものです。
この十字架という教科書によって、私たちは、天主の法に従って生きる方法を学びます。
この教科書が私たちに学ばせたいのは、最も大いなる矛盾です。
なぜなら、自由そのものがくぎ付けにされ、最も自由な被造物が最も「不自由」になるからです。
しかし、この矛盾によって、私たちの主は、死によって命を得られました。
死によって命を得る以上に矛盾したことがありうるでしょうか。
これこそが、天主の知恵であり、キリストの真の弟子である私たちの使命なのです。
この聖十字架を、私たちの生活の中心に置くのを忘れないようにしましょう。
― 皆さまが人生の中で重い十字架を担っておられるとき、その十字架のせいで天主に不平を言おうとするとき、私たちの主が、その重い十字架とともに、そこにおられることを思い出してください。
天主が皆さまと共におられます。これ以上何が必要でしょうか。なぜ気に病むのでしょうか。
― また、好ましくない状況に陥って、逃れることができないときには、自分を天主のご意志にくぎ付けにしてください。
進んで天主の御摂理に身を委ねてください。
そうすれば、この十字架の箱舟に足を固定されたまま、私たちはこの世から上げられることでしょう。
自分の意志通りにできないせいで苛立つかもしれませんが、この私たちの意志の傷によって、私たちは天主のご意志の結ぶ実、すなわち天主ご自身、永遠の命を得るのです。
「実に、十字架の言葉は、滅びる者には愚かであるが、
救われる者私たちにとっては、天主の力である」(コリント前書1章18節)。
アーメン。