聖十字架称賛の祝日の説教(大阪)
十字架上のイエズス・キリスト
聖十字架称賛の祝日の説教(大阪)
2025年9月14日 イヴォン・フィルベン神父
聖十字架称賛の祝日の説教(大阪)
十字架は天主の知恵を表す
親愛なる信者の皆さま、天主は偉大で素晴らしいお方です。私たちは皆、小さな困難や問題を抱えていますから、時折顔を上げて天主の知恵を仰ぎ見ることは良いことです。
聖十字架の祝日は、この知恵を表しています。実際、十字架は偶然起こった出来事ではなく、天主の救いの計画の一部であり、その計画の中心なのです。
今日は、十字架の神秘について深く考え、天主の知恵をたたえましょう。
0)序文
この説教では、このミサの序誦、特に次の一節についてお話しします。
「御身は、十字架の木材の上で、人類の救いを成し遂げ給うた。それは、死が起こったところから命が生まれるため、また、木材によって勝利した者が、木材によって敗北させられるためである」。
これは、どのような木材なのでしょうか。この問いに答えるには、一つ明確にするための説明が必要です。ヘブライ語には、「木材」(wood)と「木」(tree)の両方を指す、「エツ」(etz)という、単一の言葉があります。したがって、この言葉は、自然の木を指すこともあれば、私たちの主の十字架のような木材でできた物体を指すこともあります。
もちろん、十字架は生物学的な意味での木ではありませんが、ヘブライ語では同じ言葉で表されるのが現実です。この言語的関連性に力を得て、教父たちは、この二つの現実を結びつけました。聖十字架のミサの序誦で取り上げられているのは、まさにこの種類のたとえなのです。
したがって、この序誦は、次のように訳すことができます。「御身は、十字架の木の上で、人類の救いを成し遂げ給うた。それは、死が起こったところから命が生まれるため、また、木によって勝利した者が、木によって敗北させられるためである」。
象徴的に言えば、十字架は【生きている】木です。これこそが、理解しなければならないことです。そして、この木は、堕落の木と関連があります。これはもちろん、原罪というアダムの罪が起こったエデンの園の木のことです。そうなのですが、それだけではありません。エデンの園には多くの木がありました。聖書に出てくる木を調べてみましょう。
1)聖書の木
聖書は、木を愛する書物です。初めに、エデンの園には多くの木がありましたが、そのうちの二本は特別なものでした。その二本の木は園の中央に立っていた、命の木と善悪を知る木です。天主は、人間に善悪を知る木の実を食べることを禁じられましたが、命の木の実は禁じられませんでした。人間は、善悪を知る木の実を食べて罪を犯し、その罪の罰として園から追放されたため、最初の命の木もはく奪されてしまったのです。
しかし、聖書の終わりに、再び命の木が現れます。黙示録の最終章、時の終わりに到来する新しいエルザレムにおいて、命の木が現れるのです。「(天のエルザレムの)広場の中央に、毎月一度ずつ、一年に十二度の実を結ぶ命の木がある。その葉は、異邦人を癒やすために用いられる」(22章2節)。
聖書の冒頭には二本の木、すなわち命の木と善悪を知る木があり、最後には再び命の木が現れて、最後の審判を通過した選ばれた人々が、もう一度その木のところに行くことができるのです。
しかし・・・もう一本の木、すなわち罪がこの世に入った原因となった善悪を知る木は、どうなったのでしょうか。
2)十字架の木
私たちの堕落の木となった、この善悪を知る木は、十字架の木によって「置き換えられ」ました。序誦はこう言っています。「御身は、十字架の木の上で、人類の救いを成し遂げ給うた。それは、死が起こったところから、命が生まれるためである」。知恵の木から死が起こった後、十字架の木という新たな木が、天主によって植えられました。それは、新たな知恵が私たちに与えられて、私たちを贖い、再び命の木のところに行くことができるようにさせるためなのです。
最初の知恵の木では、アダムは高慢から天主に逆らいました。しかし、新たな知恵の木である十字架の木において、私たちの主は、御自らの人性により、罪の苦しみの深みにおいて天主に服従されました。「彼は死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくして従われた」(フィリッピ2章8節)。十字架の木は、最初の罪の木を贖うのです。
親愛なる信者の皆さま、天主の知恵の偉大さがお分かりでしょう。ほかの誰が、数千年の歴史にわたる、これほど首尾一貫した計画を思いつくことができたというのでしょうか。これは人間の知性のわざではなく、「天主の多種多様の知恵」(エフェゾ3章10節)のわざなのです。聖書の冒頭にある命の木は最後に再び現れ、天主の計画は回復します。そして、新たな知恵の木である十字架の木が、人類の罪の木である最初の知恵の木と置き換わるのです。
3)十字架の知恵
そうです、しかし、新たな命の木を味わうためには、一つ条件があります。すなわち、聖パウロによれば「天主の知恵、神秘で隠されたもの」(コリント前書2章7節)である十字架の木を、その新たな知恵とともに受け入れなければなりません。私たちは、十字架上の私たちの主の犠牲と一致して、自らを犠牲として捧げることを受け入れなければなりません。日々の生活における大小の犠牲を、マゾヒズムからではなく、私たちの主の十字架と一致して受け入れなければなりません。私たちが、何らかの形で私たちの主イエズス・キリストと共に自らの人生を犠牲として捧げることを受け入れるなら、時の終わりに、私たちも天のエルザレムに自分の居場所を得て、命の木を味わうことでしょう。
しかし、ここ地上の、この過ぎゆく人生においても、ご聖体を受けるとき、私たちは命の木の実をあらかじめ味わうのです。
親愛なる信者の皆さま、天主は偉大で賢明なお方であり、この世の行方と私たち一人一人の人生の行方を支配しておられます。天主は、罪の木を贖う十字架の木によって、ご自分の知恵を示されます。私たちが、犠牲の精神によって、この木を味わえるかどうかは、私たち次第なのです。