聖木曜日の説教―いけにえである御聖体(2026年、大宮)
イエズスと御聖体
聖木曜日の説教―いけにえである御聖体(2026年、大宮)
2026年4月2日 ブノワ・ワリエ神父
聖木曜日の説教―いけにえである御聖体(2026年、大宮)
親愛なる兄弟の皆さま、
この聖木曜日に、私たちは、高間の部屋に集まって、御聖体の制定のことを黙想します。
ここで、私たちの主イエズスが、すでに一年前、カファルナウムの会堂で御聖体の神秘を説教しておられたことを思い起こすのが、ふさわしいでしょう。ヨハネ福音書6章で、主は「人の子の肉を食べず、その血を飲まなければ、あなたたちの中には人の子における命がない」と荘厳に宣言されました。しかし、主はその時、御聖体を制定されませんでした。その理由は、深遠なものであり、御聖体の本質を明確に示しています。
キリストは、私たちのために屠られた小羊として御自身を捧げようとされる時になって初めて、血を流さない形で新たにした同じいけにえを、教会に授けることがおできになったのです。言い換えれば、キリストが御受難のまさに直前に、この秘跡を制定されたのは、天のパンを単に前もって味わうものとしてではなく、世の贖いのためにいけにえとして捧げられた御自身を永遠に記念するものとしてだったのです。
ですから、「主イエズスは、裏切られた夜、パンを取り」(コリント前書11章23節)、それを御体に変えられました。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、豊かな命を生み出せない(ヨハネ12章24節)ように、御聖体のパンはキリスト御自身の死の実りであり、それによってキリストは、永遠の命の糧として御自身をお与えになるのです。
次に、キリストは杯を取り、ぶどう酒を尊き御血に変えられました。「これは、新しくそして永遠なる契約の血、私の血の杯である。あなたたちと多くの人の罪の赦しのために流されるのである」。
ぶどうの木は、搾られて初めて実りとなります。真のぶどうの木であるキリスト(ヨハネ15章1節)もまた、苦しみのぶどう搾り場で搾られようとしていました。「ゲッセマネ」という地名自体が「油搾り」という意味です。この油搾りの地で、真のぶどうの木は、私たちの罪の重さで押しつぶされ始めました。そこにおいて、御受難の杯が最初にキリストに差し出され、そこにおいて、キリストは苦悶の中で血の汗を流され、その贖いのぶどう酒の最初の数滴が、キリストの聖なる人性から流れ出ました。
預言者イザヤは、メシアの衣が、メシアが世の救いのために流す血によって神秘的に真っ赤に染まることを予見しました。「なぜあなたの服は赤く、あなたの衣はぶどう搾り場を踏む人のようなのか。私は一人で、ぶどう搾り場を踏んだ。…そして血が私の衣に飛び散った」(イザヤ63章2-3節)。
したがって、御聖体の秘跡が、パンとなるために砕かれる小麦と、ぶどう酒となるために搾られるぶどうという二つの形色(けいしき)から成るという事実は、非常に意義深いものなのです。
親愛なる兄弟の皆さま、この聖木曜日に、教会は、御聖体の最も深遠な現実を私たちの前に示します。それは、カルワリオの丘で、一度血を流す形で捧げられ、そして今、私たちの祭壇の上で、世の終わりまで血を流さない形で捧げられる、いけにえであるキリストです。この秘跡を受けるとき、私たちは、天主の御子が私たちへの愛ゆえに自らをいけにえにされた行為そのものと一致するのです。
肉となられた御言葉の聖なる人性を用意することで、この犠牲の質料そのものを提供してくださった寛大な御母である童貞聖マリアが、私たちがこの聖なるいけにえにふさわしくあずかることができるよう、執り成してくださいますように。アーメン。