聖母の御潔め祝日の典礼を通して、主の御謙遜を感嘆する

2025年2月2日 聖母の御潔(おんきよ)め 聖母の汚れなき御心聖堂(大阪)
トマス小野田圭志神父
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
今日は、聖母の御潔めの祝日、また同時に、主の神殿への奉献の祝日でもあります。
今日の典礼は、旧約の二つの儀式に由来しているのですけれども、この典礼を通して、私たちは、特に「主の御謙遜」について黙想し、その御謙遜を感嘆して、そこから何か霊的な実りを得たいと思っています。
今日の典礼は、旧約の二つの儀式に由来しています。
一つは、長男(あるいは長子)の神殿への奉献の儀式です。
もう一つは、子供を産んだ母親の潔めの儀式です。
【長男(長子)の神殿への奉献】
第一の、長男の神殿への奉献について、モーゼの律法によると、長男は天主のものとされています。
特に天主は、エジプト脱出の時、エジプト人たちの家では、人間も動物もすべて、その最初の男の子、子供を皆殺しにされました。
しかし、過ぎ越しの小羊の血の印が付けられていたイスラエルの家では例外で、その皆殺しを免れることができました。
そこで、主は人間でも動物でも、最初の子供(長子、長男)を主のものとされました。
脱出の書13章にはこうあります。
脱出13:1-2 「イスラエルの子らのうち、はじめて母体を出ずる初子(ういご)は、人にもあれ、けものにもあれ、ことごとくわれに捧げよ。そはことごとくわがものなればなり」
Locutusque est Dominus ad Moysen, dicens : Sanctifica mihi omne primogenitum quod aperit vulvam in filiis Israel, tam de hominibus quam de jumentis : mea sunt enim omnia.
また、人間の長男(長子、初子)は、司祭として、天主に捧げられた者として、天主の祭祀を行うことになっていました。
しかし、後にレヴィ族が司祭職を担うようになって、長子を神殿に捧げられた者から贖って、家に引き取ることができるようになりました。
そこで、今日まさに、主の神殿の奉献がなされたわけです。
【御潔め】
それと同時に、母親の御潔めもありました。
モーゼの律法によると、子供を産んだ母親は、律法による原罪の伝達の穢れを受けたと規定されています。
そこで、産後40日目にエルサレムの神殿に詣でて、御潔めの儀式を行い、そして、一歳になる小羊を燔祭のために捧げることになっていました。
しかし、貧しくて小羊を捧げることができない家庭は、その代わりに「山鳩一つがい、あるいは鳩のひな二羽」を捧げることでそれが免除されました。
マリア様たちも、貧しかったために小羊を捧げることができず、山鳩あるいは鳩のひなを二羽捧げました。
【義務】
ところで、これは教父たちが指摘していることですけれども、厳密に言うと、御子イエズス・キリストもマリア様も、この律法の規定に従う義務は全くありませんでした。
何故かというと、イエズス・キリストは、真の天主ですから、贖われる必要は一切ありませんでした。
またマリア様も、聖霊の働きによってイエズス様をみごもった方ですから、またさらに言えば、罪の汚れが全くない無原罪の御宿リでしたから、潔められる必要は一切ありませんでした。
この律法の規定に従う義務があるかないかについて、イエズス・キリスト御自身が、後にはっきりと説明されたことがあります。
そのことは、マテオの聖福音の17章に書かれています。
ある時、カファルナウムで、神殿の税である二ドラクマ貨を集める人々がペトロのところにやって来てこう言うのです、「あなたたちの先生は、二ドラクマ貨を納めないのですか?(神殿に税金を納めないのですか?)」と。
すると、ペトロは性急に「納めます」と答えます。
そして、家に入ってくると、イエズスが先をこして尋ねるのです。
「シモンよ、どう思うか。世の王たちは、税や貢をだれからとるのか?自分の子からか?ほかの人からか?」と、おおせられたので、ペトロは「ほかの人からです」と答えます。
すると、イエズス様は答えて「それなら、子は免除されている。」と。
つまり、天主の御子は、神殿に税を払う必要はない、ということです。
でも、イエズス様は言葉を続けて、この問題を解決するにはどうしたらよいか、ということをペトロに教えます。
「しかし、かれらをつまずかせないようにしよう。あなたは海に行って釣糸をたれ、最初に上がる魚をとり、その口をあけてスタテル貨を見つけるだろう。それでもって、私とあなたとのために、かれらに税をおさめよ」と、おおせられます。
つまり、何も知らない人々をつまずかせないために、かたちの税を納めたとのことです。
話を戻すと、御潔めの式についても、聖ヨゼフとマリア様は同じ心で、人々を「つまずかせないように」、掟を守らないという見本とならないように、御謙遜の精神で、厳格に言えば、義務がなかったにも関わらず律法に従いました。
聖パウロによると、天主は御子を「時が満ちて、女から生まれさせ、律法の下に生まれせた」(ガラチア4:4)とあります。
さらに言葉を続けて「それは、律法のもとにある者をあがない、私たちを養子にするためであった」と。
ですから、聖家族は、主の御降誕後の40日目の今日、2月2日に、ベトレヘムからエルサレムの神殿へと巡礼をされて、御子を神殿に奉献することによって、また、御潔めの式に与ることによって、モーゼの掟に従おうとされます。
【エルサレムの神殿】
エルサレムの神殿は、真の唯一の天主ヤーウェのために、罪の赦しのためのいけにえを天主に捧げるために、新約が実現するべき前兆の一つとして、天主の命じられた規定の通りに建てられました。
イエズス様が捧げられたのは、ヘロデ大王が再建した第二の神殿でした。
聖ヨゼフもマリア様も、なぜこの神殿が建設されているのか、誰のために建てられているのか、良く御存知でした。
つまり、この神殿は、生まれて40日になるこの赤子イエズス・キリストのために立ち聳えていることをよく御存知でした。
つまり、イエズス・キリストは、御自分の家に、御自分の神殿に今入ろうとされているのです。
言い換えると、影法師であった旧約を今実現させ、シルエットであった旧約を廃止して、その代わりに成就した新約を開始させる御方として神殿に来られたのでした。
ですから、この神殿の中でいつも話題となって話されていたメシア、また、そのためにいつもいけにえが捧げられていたその御方、そのために司祭が存在し、すべての儀式が行われているその目的の御方、神殿の存在理由それ自体であるイエズス・キリストが、今こうして入ろうとされるのです。
御降誕(クリスマス)では、主はこの世に来られたという神秘を祝います。
今日、御潔めの祝日では、主が人類の待望していたメシアとして、約束の本当の救世主として、御自分の神殿に到来されたという大神秘を祝っています。
【御謙遜】
王の王、人となった真の天主が、御自ら御自分の神殿に来られた、エルサレムの神殿に御入場されたとすれば、赤いカーペットを敷いて、トランペットのファンファーレと大砲の爆音とでお迎えすべき歴史的な大瞬間だったではないでしょうか?
全人類の歴史を変える、私たちを永遠の地獄の死から救い出す方が、ついにやって来られた、こうして旧約が成就し、新約が今成立するという、永遠に人類が記念すべき偉大な瞬間がやって来たのです。
4世紀には、エルサレムへの巡礼者エジェラという女性が、エルサレムでは、この祝日が毎年「復活祭のように」盛大に祝われていることを記録に残しています。
ところで、その本番の時、イエズス・キリストの神殿への到来は、誰もそのことを知りませんでした。誰も気が付きませんでした。
他の赤子と何一つ変わらず、御謙遜に来られたからです。
イエズスを受け取ったレヴィ族の司祭も、あるいは周囲の人々も、特別な方だ、特別な方がやって来られた、などとは一切気が付きませんでした。
何という主の御謙遜、聖ヨゼフとマリア様の何という深い御謙遜でしょうか。
教父たちが指摘している通り、イエズス様が御謙遜であればあるほど、また、御謙遜の行為をなさるたびに、御摂理によって主に栄光が帰されます。
たとえば御降誕では、主が御謙遜にも馬小屋でお生まれになった時、光り輝く天使たちの大群が、生まれたばかりのイエズスに栄光を帰します。
「天のいと高き所には天主に栄光あれ! Gloria in excelsis Deo!」
そして今日も、天主の御摂理によって、主は栄光を受けました。
その時「イエルザレムには、義人で、敬虔で(主を畏れる者)、イスラエルのなぐさめを待ちのぞんでいるシメオンという人がいた。聖霊はその人の上にあった。かれは、聖霊によって、主のキリストを見るまでは死なないと啓示されていたが、この時、霊にみちびかれて神殿にきていた。」(ルカ2:)
老シメオンと、年老いたアンナという女預言者とは、「イスラエルのなぐさめ」つまり旧約の預言の成就を待ち望んでいた人々でした。
そして、主の御摂理によってこの二人も、今日エルサレムの神殿に居合わせて、聖家族がやってくるのを目撃します。
一見、何の変哲もないこの赤子、この子が救い主であると、すぐにシメオンは察知します。
この子こそがメシアだ、この子こそが待ちに待った救い主だ!なんという喜びだ!と、もう喜びを抑えることができません。
すぐに駆け出して、シメオンは聖家族に近づきます。
シメオンは、マリア様にお願いして、その子を自分の腕にだいて、天主を賛美して言います。
その時、聖霊は、特別な御恵みを、満ち溢れんばかりの聖寵をシメオンの霊魂に注ぎ込んで、預言の言葉を言わしめます。
マリア様はその言葉をじっと聴いていて、覚えていました、心に刻み付けていました。シメオンの言葉はこうです。
「みことばどおり、主よ、今こそ、あなたのしもべを安らかに死なせてください。私の目は、もう主の救いを見ました。その救いは、あなたが万民のためにそなえられたもの、異邦人をてらす光、み民イスラエルのほまれであります」これは、聖務日課の終課で、毎晩、聖職者たちが歌います。
そして、このシメオンの言葉を繰り返します。
旧約のイスラエルの民、ユダヤ人たちは、真の救い主を受け取るために、そして、それを世に示すために特別に選ばれた民でした。
救い主を受け入れることができるように、愛され準備され、恵まれた特別な民でした。
しかし、イスラエルという民が、世界の諸々の民から栄光を受けるのは、イエズス・キリストのため、イエズス・キリストのためだけです。
言い換えると、イスラエルの栄光は、イエズス・キリストを受けることだけに、イエズス・キリストを認めることだけにあるのです。
そしてそれは、新約の今では、どの民族であれ、どの国であれ、イエズス・キリストを真の救い主として認め、信じ、従うならば、その程度に従って、その諸国もより多くの栄光を受け、またイエズス・キリストを拒むに従って多くの没落を得ます。
【ロウソクの儀式と遷善の決心】
では、最後に遷善の決心を立てましょう。
イエズス・キリストの御謙遜に感嘆致しましょう。
私たちは、栄光を受けるべき全能の天主が、これほど御謙遜になったのを見て、罪人である私たちが、いつも自分を高めようとしているのを、どれほど恥ずかしく思わなければならないでしょうか。
イエズス・キリストの御謙遜に倣う、マリア様と聖ヨゼフ様の御謙遜に倣う御恵みを請い求めましょう。
もしも、主や聖母が、罪がなかったにも関わらず、天主であったにも関わらず掟に従ったならば、罪人である私たちは、いったいどれほど掟を愛し、主を愛するため、法に従わなければならないことでしょうか。
私のやりたい通りではなく、主の御旨を果たそうとしなければならないことでしょうか。
「心の清い者は幸いである。彼らは天主を見るであろう。」とあります。
シメオンも、心の清い者でありました。
主の掟を守ろうと、主を悲しませることだけを恐れて生きていた男でした。
そのシメオンは、すぐに救い主を認めることができました。
今日、私たちはローソクの祝別とローソクの行列を行いました。
ただのローソクのように見えましたけれども、イエズス・キリストのシンボルとして、それを受け取りました。
私たちが、日常の生活のすべてを、イエズス・キリストの目を持って、イエズス・キリストを認めることができますように。
イエズス・キリストの御旨を認めることができますように。
すべて主の教え、主の聖寵、主の真理と愛に従って、日常の生活を行うことができますように。
そして、今日ローソクを受けたように、私たちが行列したように、私たちの生活を持って、主の光が燦然と輝くことができますように。
また、主の愛の光を伝えることができますように、お祈り致しましょう。
最後に、マリア様にお祈り致しましょう。
聖母の御取り次ぎによって、確かに、この主の御恵みを受け取ることができますように。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
