聖母の汚れなき御心は主への愛と御子の全神秘で満ちている
2025年1月2日 聖母の汚れなき御心聖堂(大阪)ミサ 説教
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
愛する兄弟姉妹の皆様、今日は2025年1月2日です。
2025年、聖なる年をより聖心にふさわしいものとして過ごすために、今年の初土曜日に、この一年をマリア様の汚れなき御心にお捧げいたしましょう。そのために私たちはいま準備をしています。
今日黙想したい点は二つあります。
一つはマリア様の汚れなき御心は大きな愛によって天主と一致している、一つとなっているということです。
第二の点は、マリア様の汚れなき御心のなかには御子の神秘がすべて含まれている、あたかも福音書であるかのようだ、ということです。
【聖母の汚れなき御心は巨大な愛によって天主と一致している】
マリア様の汚れなき御心は、天主の御子イエズス・キリストの御母の御心です。天主の御母、ご自身の御心です。そればかりではありません。天主御父の最愛の娘の御心、天主聖霊の愛するいとも清い浄配の御心です。つまり三位一体から深く愛されて、高貴で、愛深い、そして憐れみ深い、そして私たちを母として愛する御心です。
マリア様の汚れなき御心は、想像を絶するほど純粋で純潔で、天主をお愛しするという愛以外のいかなる愛もありませんでした。これを言いかえると、すべての罪から切り離されていたということです。そればかりでなく、この世と自己愛と被造物への愛着から完全に離脱しておられました。天主の御旨を熱烈に欲して、マリア様の願いはただ天主の御計画、天主の御命令、天主の思し召しのまま、おこないたいということでした。ですからマリア様は、すぐに、心から、喜んで、すべてにまったく従って、服従して、すべてを主に委託しておられました。まかせきっておられました。
ですから、聖母の御心は、救い主イエズス・キリストをもっとも美しく・もっとも忠実に・正確に写し出した、そして聖心を反射させる、いわば鏡のようでした。天主への愛徳と愛情、ご謙遜と従順、御忍耐と貞潔、この世の軽視、罪を憎むこと、イエズス・キリストの至聖なる聖心がもっているすべての聖徳が、マリア様の汚れなき御心に生き生きと完全に写し出されています。
もちろん聖母の汚れなき御心は、イエズスの至聖なる聖心とは区別されています。なぜかというと、イエズス様の聖心は、マリア様の御心を、聖徳においても卓越さにおいても、無限に超越しておられるからです。それにもかかわらず、三位一体の天主は、特別の愛によって、この二つの聖心を一つとなったということが言えるほど、分かち難く結び付けて一致させました。なぜかというと、イエズス様の聖心もマリア様の御心も、この二つはいつも同じことを望み、いつも同じ精神で、いつも同じ愛で動いていたからです、生きていたからです。
使徒行録を見ると、初代のキリスト者たちが、「一つのこころ一つの精神で一致していた、生活していた」とあります。Cor unum et anima una.
もしもそうだとすれば、イエズス様とマリア様との一致はさらにそうでした。あたかもイエズス様の聖心がマリア様の御心の中で動いていたかのように、そして、マリア様の御心がイエズス様の聖心であったかのように、一つとなっていたと言えるほどです。
【聖母の汚れなき御心は御子の神秘がすべて含まれる福音書】
マリア様の御心のすばらしさは、ただイエズス様とマリア様の御心が一つとなったかのようにあったのみならず、イエズス様のご生涯のすべての神秘・すべての出来事・すべての驚くべき御業が、ありとあらゆることが、おさめられていたということです。ですから第二の点として、マリア様の汚れなき御心は、御子の神秘をすべて含んでいる福音書だということができるほどです。
これは聖ルカがわたしたちに証言していることです。聖ルカの福音書の二章には、二か所同じような記述があります。
「羊飼いたちは、この子について天使が話したことを知らせたので、それを聞いた人々はみな、羊飼いの話を不思議に思い、マリアは注意深くそのことを心に留めて考えつづけた。」(ルカ2:17)マリアは注意深くそのことを心に留め考え続けた。
またそののちにイエズス様を神殿で見失ったのちに、
「その母は、これらの記憶をみな心におさめておかれた。」(ルカ2:51)
ともあります。
ですから、マリア様の御心は、いわば生きている福音書ということができます。すべてイエズス様のことが記憶に留められているからです。
聖ヨハネ・ユードはもっと言葉をすすめます。
聖霊はマリア様の汚れなき御心に永遠の福音を特別に記録した命の書と言える。だから、キリスト教の善徳・美徳を完全に理解して、熱烈にそれらを愛するためには、汚れなき御心という福音書を読まなければならない、とさえ言っています。
聖ヨハネ・ユードによれば、さらに、マリア様のご謙遜の素晴らしさを学びそれを真似ること、私たちの傲慢と虚栄の恐ろしさを知りそれを捨てること――これはマリア様の御心を通して学ぶことができる、と。
マリア様の御心は、御子イエズス・キリストへの愛にごうごうと熱烈に燃えたっていました。そして、いまでも燃えたぎっています。マリア様は、イエズス様がお生まれになったその瞬間から、幼きイエズス・キリストが救い主である天主であることをよくご存知でした。あまりにもそれは明らかでした。
ですからマリア様は、イエズスさまを胸に抱いて、養っていたその時も、服をお着せになって、お世話をしていたそのときも、どれほど深い愛情と敬愛をもってイエズス様に対してそれらを行っていたことでしょうか。すべてイエズス・キリストを私たちに救い主として与えようと、救い主としてこの世に与えようと思ってそれらをなさっておられました。
なぜかというと人類はこの救い主を待ちに待っていたからです。私たちを永遠の死から永遠の苦しみから救いだすためにはこの方が必要だ、とよーくご存じだったからです。私たちを苦しみから逃れさせるために私たちが永遠に苦しまないために、マリア様はすべての愛をこめてイエズス様に奉仕していました。私たちはどれほどマリア様に恩があることでしょうか。
シメオンの預言を聞いた時、マリア様はどれほどお苦しみになったことでしょうか。イエズス・キリストの命がヘロデ王から狙われてエジプトに逃亡された時、あるいはナザレトで三十年間清貧に貧しい御生活をされていた間、また主の御受難の時、十字架を担いでおられるのをごらんになったとき、ボロボロになって鞭打たれ茨の冠を被せられたお姿を…それを見たとき、特に十字架の足元に佇(たたず)んでおられたとき、イエズス様の亡骸を…息をしていない心臓が止まったその冷たくなった体を胸に抱いたとき、十字架から降ろされたイエズス・キリストを見たとき、マリア様の胸にはどれほどの悲しみの剣が貫き刺されたことでしょうか。
聖ラウレンチオ・ユスティニアノという聖人はこう言っています。
「聖母の汚れなき御心は、御子イエズス・キリストの御受難をきれいに映し出している。聖母の御心は、イエズス・キリストの御死去を映す完璧な鏡である」と言っています。
また別の聖人、聖ラウレンチオのリカルドという人はこうも言っています。
「聖母の苦しむ御心は、何千もの苦悩で、その御心のありとあらゆるところが剣(つるぎ)で刺し貫かれたようで、苦しまないところは一切なかった」と言っています。
一体、だれが、マリア様をこれほどまで苦しめたのでしょうか!だれが、主をこれほどまで愛して、私たちを愛する大切な方を悲しませてしまったのでしょうか!マリア様のこの苦しみの原因はいったい何なのでしょうか?誰のせいだったんでしょうか?
私と愛する兄弟姉妹の皆様の罪のために、マリア様の汚れなき御心は、死の苦しみを受けました。ですから、私たちにはできるかぎり、マリア様の御悲しみと苦しみをお慰めして、償い、マリア様に栄光を帰す義務があります。
マリア様は天から、このミサに与りそしてこの一年をマリア様の汚れなき御心を通してお捧げしようとする私たちを見て、どれほどお慰めを受けお喜びになっていることでしょうか。このミサをお捧げして、マリア様により多くの罪の償いと讃美をお捧げいたしましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によって、アーメン。