聖霊の「聡明」の賜物について御聖体の神秘とともに黙想しましょう

ソース: FSSPX Japan

2025年8月10日  聖霊降臨後第九主日

トマス 小野田圭志神父説教  日本の聖なる殉教者聖堂(大宮)聖母の汚れなき御心聖堂(大阪)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日の書簡で聖パウロは、旧約に起きた出来事が「かれらに起ったこれらのことは前兆であって、かきしるされたのは、世の末にあった私たちへの戒めのためであった。」と言い、旧約の出来事から、私たちへの訓戒を理解するようにと促しています。

また、今日の福音で、私たちの主はエルサレムの盲目を見て涙を流されています。どうぞ、皆さんのお心の中でイエズス様の御顔をご覧ください。その御目からは、涙が零れ落ちているではないでしょうか?

イエズス様は、なぜ涙を流されるのでしょうか? 何故かというと、当時のユダヤの人々が、イエズス・キリストについて、その神秘について理解していないことを嘆かれているのです。主は言われます。

「もしこの日に平和をもたらすはずのものを、おまえが知っていたら。だが、不幸にも、それはおまえの目にかくされている。おまえは訪れの時を知らなかったからだ!」

だから恐ろしいことが起こるだろうと、イエズス様は涙を流されています。しかし、イエズス様は、そのようなことが起きないように、特別のプレゼントを準備してくださいました。そのプレゼントのことを、皆さんによく知ってもらいたいと思っています。それは何というプレゼントかと言うと、聖霊の賜物、特に「聡明」の賜物です。

また、イエズス様は、特に現代において新しいエルサレム(教会)をご覧になり、もしかして涙を流されているのかもしれません。

今日のミサを見ると、聡明の賜物について、どうしても話さざるを得ないと思いました。今日は特に、聡明の賜物を御聖体の神秘に適応させて一緒に黙想いたしましょう。

【知性】

天主は非常に憐れみ深い、そして知恵に満ちた御方です。私たちが、天主の似姿に似せて、その肖像に従い天主から創られたことは、皆さんご存知の通りです。

また、天主は、私たちが真理を認識することができるように知性をも与えてくださいました。しかしそれだけではありません。その知性では足りないところを補うために、天主は、特別なプレゼントをくださいました。それが聖霊の賜物です。聖霊の賜物で、私たちの知性は高められ、強められます。このように、聖霊の賜物は私たちすべてを豊かにしてくださいます。たとえば、聖霊の賜物のうち「畏敬」と「剛毅」は、私たちの感情を強めて高め、私たちが主を畏れること、そして悪に対して力強く打ち勝っていくことを助けてくださいます。「孝愛」は、私たちの意志を助け、天主や隣人との関係を築き、導いてくださいます。そして、残る4つの賜物、すなわち「知識」「聡明」「賢慮」「上智」をもって、天主は私たちの知性を導いてくださいます。

なぜでしょうか? 私たちには、愛、つまり意志があるではないでしょうか?

何故かというと、知性とは、真理を認識する、人間の最も高貴な能力です。知性は人間の全ての能力を支配しています。確かに、善を愛し善を欲する能力である意志や愛は、私たちの倫理的、道徳的な生活を送るために極めて重要な働きをしますけれども、この意志さえも知性の支配に服従しています。何故かというと、知性が「何が善であるか」を意志に示さなければ、意志はそれを欲し愛することができないからです。

そのため、知性は良く働かなければなりません。知性は人間の全ての能力を支配していますから、この知性が狂っていると、私たちは真理を知ることができず、善を善と認めることができなくなってしまいます。ですから、私たちの知性は、天主からの聖霊の動きに一致し、聖霊の息吹きに波長を合わせなければなりません。そうして初めて、意志も感情も正しく動き、また完成させられるのです。

キリスト教生活にとって、超自然の真理を知ることは極めて重要です。イエズス様はこうおっしゃいました。

「永遠の命とは、唯一のまことの天主であるあなた(御父)と、あなたがお遣わしになったイエズス・キリストを知ることであります。」(ヨハネ173-4節)

【信仰】 

この知性を完成させるために、四つの賜物(知識・聡明・賢慮・上智)が与えられているということは、先ほど申し上げた通りですが、皆さんの中には、こうおっしゃる方がおられるかもしれません。

「イエズス様を知る、天主を知る、超自然の神秘について知るためには、信仰があれば十分ではないでしょうか?」と。

確かに、天主について知る、イエズス・キリストについて知る、超自然の神秘について知るためには信仰という徳があります。信仰とは天主の真理が源です。天主は、誤ることもなければ騙すことも騙されることもない御者ですので、その権威に信頼し、天主が啓示された全ての真理をことごとく信じる、これが信仰の徳です。そして、信仰とは超自然の徳(対神徳)ですから、聖霊の賜物よりも遥かに高貴で優れたものです。

しかしながら、問題があります。

それは聖パウロが指摘している通り、この世において「私たちは、鏡を見るようにぼんやりと見ている、今、私は、不完全に知っている」(コリント前1312)に過ぎないということです。ですから、私たちが鏡を見るようにぼんやりと見ていて、不完全な信仰によって私たちが知っているもの(天主)を、聖霊の賜物によって補わなければならないのです。

また、信仰とは、天国という永遠の日中の輝く光に辿り着くまで、私たちの旅路を導くともし火のようなものです。聖ペトロが言うように、信仰とは「夜明けがはじまり、あけの明星があなたたちの心にのぼるまで、暗闇にかがやくともし火として」(ペトロ後119)私たちの天国への旅路を照らし、導いてくれる光であり、道しるべです。また、信仰の真理は、聖霊の賜物の照らしによって、さらに強く輝き出されます。聖霊の賜物は、信仰に基礎を置きつつ、信仰を助け、真理の深みや信仰の調和を理解させてくれます。

そうして、やがて私たちが天国に辿り着いた時、信仰の暗闇は消え去ります。至福直観に変わるからです。天主をそのまま見るからです。つまり、天主を信じるのではなく、天主を直接に、顔と顔を合わせてはっきりと完全に見ることができます。その時、もう信仰は必要なく、信じる必要もなくなります。

また、地上では信仰に基礎を置く聖霊の賜物も、天国では同じく至福直観に変わりますが、聖霊の賜物は天国でも続きます。

【信仰と聖霊の賜物】

では、私たちが天国に辿り着くまで、聖霊は、信仰の深さ、豊かさや美しさを、どうやって私たちに理解させてくれるのでしょうか? それは「愛によって」です。

聖トマス・アクィナスは、物事を知り、判断するためには二つの方法があると言います(神学大全第一部第一問第6項異論3への回答)。

一つは、頭で知識として理解することです。たとえば、ある人が、たとえ有徳の人(聖なる人)ではなかったとしても、知識によって、徳のある生活とは何か、聖なることとは何かを知っていて、これが正しいことだ、これが悪いことだと判断することができます。たとえその人が、悪徳に満ちた罪人であったとしても、知識だけは備わっていることがあり得ます。

もう一つは、愛によるものです。徳のある生活を愛し、日頃から徳のある行いを習慣的に行いながら生活している人は、聖なるものや有徳のことに対して、親和性や傾向があります。また、密接な体験があるためよく知っており、その人自身が、人間らしい行為とは何かという徳の基準となるほどだと述べています。

ですから、聖トマス・アクィナスによると、第一の学識によるやり方では、勉強、読書、お説教によって知識を得るという、知性だけにとどまるものです。

第二のやり方は、聖霊の賜物により、天主を愛する霊魂に与えられるものです。特に「上智」により、天主に関することを、単なる神学の知識だけではなく、実際に体験し、生きることによって判断します。そのような人は、天主のことをいつも考えて祈り、天主と密接で親密な愛のうちに一致しているので、天主のことを深く知ることができるようになります。これは、愛によって計られる知識だと言われています。これは、超自然の秩序ではあることです。つまり、より多く愛する人は、より多く深く知ることができるということです。

実を言うと、このようなことは自然のレベルにおいてもあります。

自然の秩序においては、ある事柄に興味を持って好きになると、そのことを深く知りたくなります。普通は、知れば知るほどその善さが分かり、より多く愛することができるようになります。しかし、この自然のレベルでも、時として、愛によって多くのことを知ることができるようになる場合もあります。たとえばお母さんを見てください。お母さんは、我が子のことを本能的に、直観的によく知ることができると言われています。お母さんは、我が子の考えや気持ちをズバリと見抜くことができ、あえて聞かなくても、我が子のことがよくわかっているのです。愛によるその理解なのです。

そして、超自然の秩序においても、これと似たことが起こります。超自然の愛徳が全ての徳を一つにまとめ、その徳を超自然の命に活かし、私たちを天主へと結びつけます。聖パウロはこう言います。

「主につく者は主と一つの霊になる。」(コリント前617

また、こんなことも言います。

「私は生きているが、もう私ではなく、キリストが私のうちに生きておられる。」(ガラチア220

つまり、私たちは愛徳により天主と結ばれて一つの霊となり、天主のことを愛によって理解するようになるのです。聖霊の賜物の力によって、愛から来る光によって、論理的にというよりは、むしろ愛の直観によって、天主の最も高い神秘、最も深い原理、最も聖なることが分かるようになるのです。

【聡明】

私たちが完徳に到達するためには、信仰の真理をできる限り理解し、それを喜ぶほどに深めなければなりません。特に、この理解を与えてくれる特別な賜物が、聡明の徳と聡明の賜物と言われています。表面的な理解ではなく、真理の深みに至らせてくれる賜物が聡明の賜物です。

これに対して、知識の賜物は、被造物を通して創造主へと至らせてくれる賜物であり、賢慮の賜物は、私たちの行動を導く賜物です。上智の賜物は、天主の高見から全てのことを判断させてくれる賜物です。

聡明の賜物により、私たちは超自然の真理、キリストの神秘、信仰のドグマを深く理解することができるようになります。そしてこの賜物を受ければ受けるほど、使えば使うほど、うまく発達させればさせるほど、私たちはますますよくわかり、また鋭く直観することができるようになります。いったいなぜでしょうか?

聖トマス・アクィナスはこのように説明しています。聖霊の賜物は、私たちへの贈り物(プレゼント)だからです。贈り物は、与えられる前には贈り主のものですが、ひとたび与えられると、それを受け取った人のものになります。また、受け取った人は、その贈り物を自由に使って楽しむことができます。聖霊は天主御自身であり、天主から私たちに与えられる贈り物です。そして、もしも私たちに聖霊が与えられたのならば、私たちのものになります。私たちのものである限り、私たちはそれを自由に使って楽しむことができます。そして、聖霊により私たちの心の目が照らされ、清められ、天主の真理の神秘の深い奥底にまで到達して読み取ることができるようになると説明しています。

私たちは、天主の見えない神秘を、目に見えるものを通さずには知ることができません。

「天主の不可見性、すなわちその永遠の力と天主性とは、世の創造のとき以来、そのみわざについて考える人にとって、見えるものだからである。」(ローマ120

たとえば、天主の愛がどれほど深いかということは、イエズス・キリストという天主が人となられたことにより、私たちは知ることができました。洗礼が新しい生まれ変わりであることも、キリストが良き牧者であり、ぶどうの木であることも、キリストの神秘は、目に見えるもの(象徴)を通して私たちに伝えられます。

また、イエズス様はこうもおっしゃっておられます。

「私のあとに従おうと思うなら、自分をすて、自分の十字架をになって、私に従え。」(マテオ1624-25

この御言葉を聞いた時、私たちは「十字架を担うとは、どういうことだろうか?」と思うのではないでしょうか? 聡明の賜物は、私たちにその深い意味を分かるようにさせてくれます。私たちの人生の意味、人生の目的、いったい何故このような出来事が起こっているのか、そしてイエズス様の全ての神秘についてさえ、その深い意味をも分からせてくれます。その中で、最も深く究極的な神秘は「御聖体」でしょう。パンの外観のもとに、本当に実体的に現実にイエズス・キリストがおられる御聖体の神秘です。このイエズス様の神秘を、聖霊の聡明の賜物は私たちに分からせてくれます。

聖パウロは、今日の書簡の中で、旧約のイスラエルの民に起こった出来事は、新約の前兆であり象徴だったと言っています。イスラエルの民は、岩から霊的な飲み物を飲みましたが「その岩はキリストであった」と。霊的な水はそのお恵みだったとも言っています。また、霊的な食べ物であったマンナは、御聖体の象徴であり、前兆だったと述べています。

イエズス様が真の天主であること、天主の御言葉が人間となられた御托身、死を受けることなどあり得ない天主が、死の苦しみを受け、十字架の上で亡くなられた御受難、創造主である天主が、被造物によって食されるために御聖体となられた秘蹟、といった全てのイエズス・キリストの神秘を通して、聖霊の聡明の賜物は、十字架のいけにえやミサ聖祭のこと、どれほどイエズス・キリストの愛が広いか、あるいは、天主がどれほどご自分を無とされているのかを深く理解させてくれます。そうして、カトリックの教えを知れば知るほど、その教えが、どれほど全てにおいて美しく調和がとれているのかを私たちに理解させてくれます。

ちょうどそれは、聖霊の聡明の賜物により、高い山に登って全地を見渡し、その素晴らしいパノラマを眺めるかのようです。あるいは、まばゆいばかりの星に満ちた天上を見て、ああ!とうっとりするかのようです。

私たちの心はきれいに晴れ晴れとして、天主の完全であること、天主がいかに正義であるか、それと同時に、天主がどれだけ憐れみ深い方であるか、また、天主の愛がどれほど無限に私たちに対して溢れているのかを、聖霊の賜物は分からせてくれます。さらに、今までホコリなんかないと思っていた家に、太陽の光がパーッと差すと「あ!なんだ、この家もホコリにまみれていた」と分かるかのように、聖霊(聡明)の燦然とした輝きに私たちの霊魂が照らされる時、私たちがいったい何であるかを理解できます。私たちがどれほど憐れで、惨めで無に等しい者であるか、ちっぽけな子供のような存在であるかということを深く理解させてくれます。

【御聖体】

聡明の賜物は、私たちに「イエズス・キリストがいったいどのような御方であるか、どなたであるか」を分からせてくれます。真の天主であり真の人、本当の人間となられた本当の天主、そしてこの天主こそが、御聖体において在し給うと。パンの外見のもとに、「真の人にして真の天主イエズス・キリストご自身が在し給う」と理解させてくれるのです。

このような聖霊の賜物に導かれ、聡明の賜物が、究極の神秘である御聖体とはいったい何かを理解させてくれるほど、そして、私たちがいったいどれほど無であるかを理解させてくれるほど、私たちは感嘆せずにはいられません。

聡明の賜物は私たちを突き動かし、この信仰の真理を態度で表して、信仰を公に告白し、宣言したくなります。私たちに御聖体の前で跪かせ、礼拝をさせます。そして、口で御聖体拝領をさせます。これは、私たちの先祖が、過去から歴史を経て何千年もやってきたことです。またそれこそが、王たるキリストに「ぜひ私たちの町を、村を、祖国を祝福してください。王様、どうぞ私たちの町をお歩きください」と言って、御聖体行列をする信仰です。私たちの愛の王、無限の天主に、ぜひ、私たちの心に、家庭に、町や村、祖国にお越し頂きたいと望み、その祝福を願うのです。

御聖体の信仰の神秘を深く読み取った過去の先祖は、私たちにどうすべきかを教えています。たとえば、高槻の城主であったユスト高山右近が、壮大にクリスマスや御聖体の祝日、復活祭を祝ったことは、私たちにとって全く深い理解と同意ができるものです。

ですから、私たちもそのような祖先の信仰の心がますます分かるようになり、そして私たちも跪いて口で御聖体拝領をしたい、イエズス様をお愛ししたい、イエズス様とともに御聖体行列をしたいと望むようになります。

聖霊は、そのような信仰告白や信仰宣言を、どれほど多く愛し、祝福されることでしょうか! そしてそれにより、ますます多くの人々が、信仰の真理へと、真の信仰へと回心するお恵みを受けるようになります。

しかし同時に、聡明の賜物は、現代を生きる私たちに警告するかもしれません。もしも御聖体を手で受けたり、粗末に扱われるのをご覧になるイエズス様は、どのように思われるでしょうか、どれほどお悲しみになられるでしょうかと。今日の福音のように泣かれ、嘆かれるのではないでしょうかと、私たちに警告するのではないでしょうか。もしかしたら、イエズス様は、今日の福音と同じようなことを、現代を生きる私たちにおっしゃるのかもしれません。

「ああ、イエルザレム、もしこの日に平和をもたらすはずのものを、おまえが知っていたら、御聖体が何か知っていたら、お前がわかっていたら、そのような取り扱いはしなかっただろう。だが、不幸にも、それはおまえの目にかくされている。おまえにはそれが見えないミサが何かを分かっていない

イエズス様が御聖体のことを予告した時、ユダヤの人々のほとんどは理解できず、イエズス様のもとを去っていきました。その時イエズス様は「ああ、社会的な受容の態度がまだ準備できていなかったのだろうか」「この話はなかったことにしようか」「この話はしないように」とはおっしゃいませんでした。ペトロを始め、使徒たちにさえ「お前たちも去りたいのか」とおっしゃったほどです。

しかし、聡明の賜物に満たされたペトロは、使徒たちを代表して言います。

「主よ、あなたをおいていったいだれのところに行きましょう。あなたは、永遠の生命の御言葉をお持ちです」

このようにして、聖霊に清められ、信仰の神秘の深奥に深く入ることができる霊魂は、どれほど幸せでしょうか!

【至福八端:こころの清さ】

至福八端の心の清さは、聡明の賜物と関連付けられていると聖アウグスティヌス、聖トマス・アクィナスは言います。

「心の清い人はしあわせである。かれらは天主を見るであろうから」

私たちは今、聖霊(聡明)の賜物で、天主の神秘を深く見ることができ、分かるようになりますが、ついには天国において、顔と顔を合わせてはっきりと見えるようになるでしょう。

最後に、被昇天のマリア様にお祈りいたしましょう。

聖霊の浄配である聖母マリア様の御取次で、私たちが聡明の賜物をますます頂くことができますように。天国から私たちを愛して、私たちのために取り次いでくださっているマリア様が、聖霊の聡明の賜物を私たちに取り次いでくださいますように。

そして、イエズス様の神秘、御聖体の神秘、ミサ聖祭の神秘を始め、信仰の神秘を深く鋭く理解して、イエズス様を嘆かせることがありませんように。

そうしてついには、マリア様とともに天国で私たちの主イエズス・キリストにまみえ、永遠の至福の生命に至らせて頂くことができますようにお祈りいたしましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。