聖霊の賜物:知識

ソース: FSSPX Japan

2025年7月6日  聖霊降臨後第四主日

トマス 小野田圭志神父説教  聖母の汚れなき御心聖堂(大阪)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、

来る土曜日に、堅振の秘跡を受ける方々が20名ほど予定されています。

ですから、今日は聖霊の七つ賜物のうちの一つ「知識の賜物」について黙想いたしましょう。

聖霊の賜物には4つの知性に関する賜物があります。上智、聡明、賢慮、そして知識です。聖霊の賜物は、人間の自然な能力を高めてくれるものです。上智の賜物は智恵に対応しています。聡明の賜物は知的な理解力に、賢慮の賜物は賢明の徳に、そして知識の賜物は自然な知識に対応しています。

それはちょうど、彫像がその像が乗っている台座の美しさを遥かに凌駕するように、ちょうど、宝石がその宝石を固定する金属や金具よりもっときれいで豊かであるように、聖霊の賜物とは、自然的な秩序を遥かに超える非常に豊かな賜物です。【子供が、お父さんに肩車をしてもらっているようなものではありません。】

上智の賜物は、天主的なものごとを判断し味わわせてくれます。

聡明の賜物は、天主の真理や神秘を深く理解させてくれます。

賢慮の賜物は、私たちが天主にたどり着くように、私たちの行為について良い勧めをくれます。知識は、被造物の意味を判断させてくれます。

【聖人たちの知識】

では、知識の賜物とはいったいなんでしょうか?

知識の賜物とは、ラテン語で Scientiaと言います。まさにその意味は、知識、知ること、学識です。

自然の秩序において、私たちの知的な活動で最も大切なものは知る能力(知性)です。知識を通して、天主が大自然の御摂理で作り上げ、そして引き起こしておられる偉大な業について認識します。色々な知識があります。地質、地理、物理、化学、生物、天文、数や形、色々な自然に関する学識もあれば、政治、経済、歴史、言語、社会、心理、教育など人文に関する学識もあります。

私たちは、そのような知識・学識を通して、それらを直接的な原因として物事を知り得るものです。つまり知識とは、被造物に関する人間の自然な理解のことです。

ところで、超自然の秩序の「知識の賜物」とは、まさにこれを高めるもので、自然の知識を超える知識であり、いわば「聖人たちのもつ知識」と言えます。

「それって、つまり神学のことですか?」

はい、確かに神学とは、天主について、理性を使い、信仰の原理を極める学識です。しかし、罪人であっても大罪の状態にあっても、神学者になろうと思えばなることができます。頭を使えば。ところが「聖人たちのもつ知識」とは、天主の聖寵を持ち、聖霊を宿して聖霊に導かれ、聖霊に動かされなければ、その知識を持つことができません。

【知識の賜物】

知識の賜物とは、私たちが被造物を知り、そこから天主へと自らを引き上げることができるように、また、天主が理解する方法で、被造物のことを理解することができるようにしてくれます。被造物と私との関係、被造物の間の神秘的な関係、とりわけ被造物が天主との間に持つ偉大な、超越的な関係について私たちに理解させてくれます。

人間の学識は、万物の振る舞いや性質、それらを支配する法則を私たちに教えてくれます。ところで、知識の賜物は、被造物の性質を教えてくれるのではありません。被造物をもっと広く、もっと深く、天主によって定められたものとして知らせてくれます。この賜物を通して、被造物とは、天主の善と美、天主の智恵とその力、天主の愛の反映であることを私たちに教えてくれます。また、被造物とは私たちを天主や天国へと導く適切な手段であり、私たちが天に昇るための光り輝く階段であり、梯子であることも教えてくれます。それと同時に、被造物が天主との親密な関係においてもっている二重の側面を深く理解させてくれます。このような洞察は知識の賜物によって得られます。

【知識の賜物第一の段階】

知識の賜物の第一段階とは何でしょうか? 

被造物とは、天主の善と美の反映だけれども、天主御自身ではないということです。つまり、被造物とは私たちを天主へと導く手段だけれども、目的ではないということです。

だから、被造物は虚しいのです。旧約時代、すべてを思い巡らし、すべてを経験し、地上のすべての喜びの泉を味わったソロモン王は「虚しさの虚しさ、全ては虚しい」という奥深い言葉を残しています。これが、全てを知った者が辿り着いた究極的な結論です。

すべてのものは虚しい。いかなる被造物も、私たちの心の巨大な容量、その無限の渇きを満たすことはできない。天主は、私たちをご自身のためだけに造られた。私たちがどんなに被造物で心を満たそうとしても、それは決して叶わない、満たされない、それらは虚しいものである。被造物は、私たちのためのものではない!

しかし、そのような警告にもかかわらず、私たちは虚しさを求め、嘘を愛し、私たちを堕落させるような快楽を愛し、私たちを酔わせるような名誉に惹かれて、私たちを束縛する物質的な財を愛しています。虚しい被造物が、私たちを奴隷のように虜にして、私たちの心を支配し、私たちの霊魂を惹きつけ、私たちを天主から引き離そうとしています。

私たちは、被造物の虚しさを理解するために、どれだけの失敗や失望、幻滅を必要とするのでしょうか。どれほどの天主の聖寵(お恵み)が必要でしょうか。

ところが、知識の賜物が与えられると、人は被造物の本当の意味や姿を瞬時に理解することができます。聖フランシスコ・ボルジアは、スペインの女王イサベラに仕えていた宰相でしたが、女王イサベラの死体を前にしてこう叫びました。「もう二度と、死ぬことのできる主人に仕えることはない!」と。その後、聖フランシスコ・ボルジアは、自分の職務や名誉、宰相の地位もすべてを捨ててイエズス会に入会しました。

また、聖シルヴェステルも、亡くなった死体を見て、すべての被造物から離れようと決心しました。これは「回心」と呼ばれる完全な変化です。物事の虚しさに対する突然の深い確信は、知識の賜物によるものです。イエズス様の御言葉があります。

「あなたが、もし完全になりたいなら、もちものを売りにいき、貧しい人々に施しをせよ。そうすれば、あなたは天に宝をつむだろう。それから、私について来るがよい。」(マテオ1921

確かにこの御言葉は真理ですが、私たちがその御言葉を聞いて、その通りに実践するとは限りません。しかし知識の賜物は、この地上のものが虚しいものであるという、より深く完璧な確認を生み出します。知識の賜物は、地上のものを完全に軽蔑することで私たちを満たします。そのような霊魂にとって、すべての被造物は突如としてその魅力を失い、昔あった魅力が消えてしまうのです。そして、かつて喜びを見出していたものの中に、安らぎを見出すことができなくなるのです。それはまさに、真っ暗闇の中に落ち込んでいるかのようです。十字架の聖ヨハネは、そのことを「感覚の夜」と言っています。

【第二の段階】

では、第二の側面はなんでしょうか? 知識の賜物が、私たちに地上の虚しさを見せ、私たちの霊魂を清めると、私たちは新しい方法でこの世のものを観ます。

たとえ、被造物が虚しいということが事実だとしても、それと同時に、被造物には天主の輝きというある種の魅力があることも確かです。それぞれの被造物は、天の宝、黄金、宝石という、とてつもない宝物を包む粗末な包装紙のようでもあります。残念ながら、多くの人々はその包みに目を奪われて、中の宝を求めることができなくなっています。足台ばかり見ていて、美しい聖像(御像)を見ることができなくなっています。それにもかかわらず、すべての被造物の中には、天主の偉大な愛の炎の閃光が秘められています。

アッシジの聖フランシスコの人生の第一段階は、地上のものを軽蔑することでした。

知識の賜物は、彼にすべてを捨てさせ、清貧を愛するようにさせました。貧しさは真理であり、天主に至る梯子です。清貧こそが最大の富であることを知ったのです。

それ以来、聖フランシスコのまなざしは一変しました。聖フランシスコは、地上のすべてのものに深い愛情を注ぐことができるようになったのです。花、鳥、水、太陽、これらすべては天主の意味を持ち、すべてが天主について語りかけ、すべてのものとの深い、計り知れない、貴重な友情を感じたのです。

妹なる水、兄弟なる火、兄なる太陽、弟なる狼と呼びかけました。

聖フランシスコが鳥たちに説教を始めると、小さな生き物たちが彼の周りに集まってきて耳を傾けました。聖フランシスコは、一時的で表面的なものしか見ない人間の貧しい視覚ではなく、異なる目で被造物を観たのです。全ての被造物のうちに天主の反映を観たのです。全てが創造主を観せ、映し出す透明な水晶のように映りました。すべての被造物、すべての出来事、全世界が、天主を愛するように彼を招いているように思えたのです。

知識の賜物の完全さには、私たちの被造物に対する完全な離脱があります。被造物の束縛を受けていない霊魂は、天主の子の聖なる完全な自由、自由の喜び、そして完徳の深い幸福をそこに見出します。何故かというと、被造物や出来事の全てを、天主の眼差しで観るようになるからです。

【苦しみと屈辱の価値】

知識の賜物がもたらす特別な効果があります。ぜひ、この効果のことを知ってください。それは、私たちに起こる苦しみや屈辱を、他の人とは違った目で見ることができるようになることです。

アビラの聖テレジアは「苦しむか死か、これ以外に選択肢はない」と思っていました。

パッツィのマグダラのマリアという修道女は「死ぬのではなく、苦しむことを望む」と言っていました。

十字架の聖ヨハネは、ある時イエズス様にヴィジョンでこう尋ねられました。

 「わたしのためにしたすべてのことに、あなたはどんな報いを望むのか?」

すると、十字架の聖ヨハネはこう答えました。

「あなたのために苦しみ、あなたのために軽蔑されることを望みます」

報いや報酬として犠牲や屈辱を求めるのは、私たちにとって非常に不思議で奇妙なことです。しかし、天主から送られた全ての被造物を、知識の賜物という観点から見れば、それがたとえ犠牲や屈辱であっても超自然的な意味を持っています。不完全な私たちは、表面的なことしか認識できませんが、知識の賜物によれば、苦難と恥辱は非常に尊い高価なものです。何故かというと、苦しみと恥辱によって、私たちはイエズス・キリストに似ることができるようになるからです。私たちをイエズス・キリストに似た者にさせてくれるものほど、天主的で神々しいものはあり得ません。

【遷善の決心】

では、最後に遷善の決心を立てましょう。

イエズス様が私たちを招いてくださっている聖徳の頂、私たちの兄弟たちが到達した天主のお住まいは、美しく、甘美で、崇高なものです。たとえ、私たちにそのような高みに登る力がなかったとしても、それを観ると、そのようなところへ向かう生活を送りたい、完全なキリスト者としての生活を送りたいという願望を燃え立たせてくれます。

聖霊が、私たちの霊魂に生み出す素晴らしい業を黙想して思い描く時、私たちの心はときめき、精神は励まされます。私たちは、この素晴らしい光と、最も甘美な愛と、終わることのない無限の平安の中に包んでくださる天主とともに幸福になるために創造され、今この地上で生活しています。ですから、今日の書簡で聖パウロはこう断言しています。

「兄弟たちよ、今の時の苦しみは、私たちにおいてあらわれるであろう光栄とは比較にならないと思う。」

これが知識の賜物の効果です。

最後に、聖霊の浄配であるマリア様にお祈りいたしましょう。特に堅振の秘跡を受ける方々がよりよい準備をして、聖霊の賜物で満たされますように。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。