聖霊降臨後第五主日の説教(大阪)
商人を追い出すイエズス
聖霊降臨後第五主日の説教(大阪)―怒りは罪か
2025年7月13日 イヴォン・フィルベン神父
「神父様、私は罪を犯しました。怒ってしまいました」。これは告解で、よく言われる罪です。多くの悔悛者にとって、怒りは、それだけで罪のように思えるのです。
しかし、それは本当なのでしょうか。「はい」でもあり、「いいえ」でもあります。「はい」だというのは、怒りは七つの罪源の一つであるからであり、また、私たちの主が、今日の主日の福音の記述に同意しておられるように思えるからです。「兄弟に怒る人はみな審判をうけ、兄弟に向かって『白痴』という人は衆義所にわたされ、『気違い』という人はゲヘンナの火をうけるであろう」(マテオ5章24節)。
「いいえ」だというのは、福音では、例えば、私たちの主が、神殿の商人たちに対するように、怒っておられる場面が何度か出てくるからです。また、旧約聖書は、繰り返し天主の怒りを述べているからです。天主がいかなる悪徳にふけることができるというのでしょうか。
実際のところ、怒りは、それ自体で罪なのではありません。事実、怒りは、時には良いこともあり、必要な場合もあるのです。すべての怒りを罪として告白しなければならないわけではありません。
怒りは、どの程度までなら罪なのでしょうか。また、どのような条件の下でなら罪なのでしょうか。これが、この説教のテーマです。
I/怒りは熱情である
基本的に、怒りは悪徳ではなく、霊魂の熱情、霊魂の内部の動きなのです。今日的には、感情であると言えるでしょう。私たちの霊魂は肉体に封じ込められた霊ではなく、肉体の形相であり、肉体に生命とアイデンティティーを与えるものなのです。私たちが死ぬと、肉体は霊魂を奪われて、数日以内に形相のない質料に戻ります。一方、霊魂は、物質ではないため存在し続け、天主の御前で審判を受けるのは霊魂なのです。霊魂は肉体とともに死ぬわけではなく、肉体と再一致する時を待っています。これが、私たちが信経で歌う「死者の復活」(resurrectionem mortuorum)です。
ですから、人間は天使ではありません。天使は純粋な霊ですが、人間は肉体に付随した霊です。このため、霊魂には熱情、肉体に刺激される感情があります。この熱情は、天主が私たちに望んでおられる状態と結びついているため、それ自体は良いものです。
これらの熱情の一つが怒りであって、私たちの目の前にある不当な危険によって引き起こされる感情です。何かが私を不当に脅かすので、それに抵抗するために私は怒るのです。
II/良い怒りと悪い怒り
怒りは悪いものでしょうか。それは場合によります。熱情はそれ自体良いものですが、理性によってコントロールしなければなりません。動物にも感情はありますが、動物の感情は理性によってコントロールされるものではありません。人間の場合は違います。肉体は人間の本性の一部ですが、肉体に指令を出さなければならないのは霊魂であり、物質は霊に奉仕し、肉体と熱情を理性がコントロールしなければなりません。
ですから、怒りには考慮すべき点が二つあります。対象と節度です。
怒りの対象は理性に合致しているでしょうか。本当に不当な問題が何かあるのでしょうか。本当の理由もなく怒ることは、もちろん罪です。あるいは、上司に叱られたから、妻と子どもたちに怒りをぶつけるといった、身近にいる間違った人に対して怒ることもそうです!
二つ目の基準は節度です。怒りは過失に釣り合ったものでなければなりません。私たちは時に、コントロールを失うことがあります。疲れていると、ほんの些細な不当なことが危機を引き起こします。些細なことでかっとなって、少し置き場所を間違えてお皿を割ったりします。それは罪であり、もし暴力を伴うなら、間違いなく大罪です。
今日の主日の福音で私たちの主が警告しておられるのは、このような怒りです。すぐ前の一節が人殺しについて述べていることを忘れてはなりません。つまり、ここで対象となっている怒りは、隣人の死を望むという行き過ぎた怒りなのです。
III/良い怒り
しかし、詩篇はこう述べています。「怒れ、しかし罪を犯すな」(ウルガタ版4章5節)。この意味は、罪ではない怒りもあるということです。
第一に、目的が良く、節度を重んじるという怒りがあります。教会でつまずきを与えることが起こっているのを見て怒ることは、教会当局を軽んじるような表現をしない限り、罪ではありません。
怒りは、理性的な判断から来るものであれば、徳となることさえあります。例えば、自分の子どもを罰しなければならない父親が、自分の言うことに重みを持たせるために怒ろうと決める場合です。時には、それがメッセージを伝える唯一の方法です。悪い行いに関して、決して怒らないのは間違っています。なぜなら、怒らないことは、意志がないこと、「本当は抑えつけたくない」という意味だからです。
最後に、一つの重要な原則に触れておきましょう。行動は、実行する際に熱情が伴っていれば、さらに徳のあるものとなります。決断は熱情なしにしなければなりませんが、実行には可能な限り熱情が伴わなければなりません。熱情のある聖人たちの例は尽きることがありません。クレルヴォーの聖ベルナルドを思い浮かべてください。彼は欧州の宮廷を巡り、信仰を守るという名の下に王たちに激怒しました。王たちには、一言も発する勇気はありませんでした!
親愛なる信者の皆さま、私たちの怒りの多くが罪深いのは、怒りの対象や度合いにおいて罪深いものであるからなのですが、怒りがすべて悪いものであるわけではなく、中には徳のあるものさえあります。ですから、こう自問してみましょう。「私はどのように、なぜ怒るのか」と。