聖霊降臨後第四主日の説教(大宮)

ソース: FSSPX Japan

堅振の秘蹟

聖霊降臨後第四主日の説教(大宮) 堅振の秘蹟の重要性

2025年7月6日 イヴォン・フィルベン神父

聖霊降臨後第四主日の説教―堅振の秘蹟の重要性

親愛なる信者の皆様

 来週には、大阪と大宮で、ガラレタ司教により、堅振の秘蹟が執り行われます。これは、このあまりよく知られていない秘蹟についてお話しする良い機会です。その説明のため、今日の主日の福音を利用することにします。

 この秘蹟の必要性は、一般に、あまりよく理解されていません。この秘蹟は、救いのために必要なものでしょうか?そうではありません。では、この秘蹟は、重要なものでしょうか?その通りです。これが難しいところです。堅振の秘蹟の重要性を理解するということは、キリスト教的生活の非常に重要な要素、すなわち、キリスト教徒であるということは、救われるための最低限のことをするだけではない、ということを理解することです。ちょうど今日の主日の福音に示されているように、実際、キリスト教的生活には、二つの段階があるのです。

I/ 二つの段階

 今日のミサの福音の中で、聖ペトロの行動には二つの段階があることに気がつきます。最初に、ペトロは自分の船に私たちの主を迎え入れますが、すでにこれ自体、聖ペトロが主を信頼していることの大きな印です。実際、この時点では、ペトロは自分の網を洗っていて、翌日の漁の準備のためにすでに大変忙しくしています。しかし、ペトロは自分の仕事を中断して、私たちの主がその船の上から教えられることに同意します。ペトロは、私たちの主を助け、自分の船の中に迎え、主のために自分の時間を割くのです。

 しかし、それは第一の段階にすぎません。第二の段階は、それよりずっと厳しい要求です。ペトロは、船を沖に出して、私たちの主の望まれる場所に自分の網を打つことに同意しなくてはなりません。ペトロにとって、私たちの主が船に乗り込まれた時よりも、ずっと踏み込んだコミットメントが必要です。なぜなら、それは常識から外れたこと、つまり、漁に詳しくない人の言うことに従って、(通常通りの夜間の漁ではなく、)もう時期を逸した時間に漁に出ることだからです。

 私たちのキリスト教的生活においても、これと少し似た二つの段階があります。第一の段階は、私たちの生活の中に恩寵を迎え入れることです。ペトロが自分の船の中に私たちの主を迎え入れるように、私たちは天主の恩寵を迎え入れなければなりません。よいキリスト教的生活を習得するためには、それまでの習慣を変えたり、新しい習慣を身につけたりすることが必要です。成人が洗礼を受ける場合、洗礼を受ける前に、自分の生活を改める必要がある、求道の段階にあたります。幼児の洗礼の場合、洗礼後の家庭内でのキリスト教教育の段階全体にあたります。霊的生活においては、この段階は、浄化の道と呼ばれます。浄化の道、それは、大罪、邪悪な傾向に対する戦いです。しかし、それは外からの誘惑に対する戦いですから、非常に受動的なものです。

 この段階を軽視してはいけません。天主の掟に従って生きることによって自分の生活を整えることなしに、真の霊的生活を手に入れることはできません。時々、司祭のところに来て、自らの霊的生活について難しい質問をされる方々がいらっしゃいますが、すぐその後に、その方々が、例えば同棲のような、罪深い生活状況にあることに気づくことがあります...このような状況が変わっていない限り、果たしてどのような霊的生活を望むことができるでしょうか?私たちの主が、永遠の命を手に入れることを望む金持ちの青年に会われた時、主が最初に要求されるのは、掟を守ることです。これが、最も重要な第一の段階です。

II/ 堅振と賜物

 しかし、その次に来るのは、「照明の道」と呼ばれる、第二の段階です。堅振の秘蹟の段階です。それは完全なキリスト教的生活に移行することである、と言われることもあります。もちろん、これは、堅振を受けたキリスト教徒は完全であるという意味ではなく、満たされたキリスト教的生活を送るのに十分な備えがあることを意味します。私たちは、洗礼のときに全ての能力を与えられていますから、堅振は私たちになにか新しい能力を与えるものではありません。しかし、堅振は、私たちが洗礼で受けたものの、キリスト教的生活の第一の段階ではおおむね取り置いたままの状態になっている一定の能力を、私たちの中に固めるものです。

 これらの能力とはなんでしょうか?それは、聖霊の賜物です。これらの賜物は洗礼の時に与えられますが、一般的に、キリスト教的生活の第一の段階では使われることがないものです。堅振は、これらの賜物を、私たちのうちに固めるのです。行動を起こす資質である徳とは違って、賜物は、聖霊によって導かれる資質です。「実に天主の霊によってみちびかれているすべての人、それが天主の子らである」(ローマ8章14節)。祈りを例にとってみましょう。私が祈る時、祈るのは私であって、私の宗教の徳、信仰の徳、愛徳を行動に移します...しかし、私の行動は完全ではなく、私の気を散らしてしまうもののような障害物があるので、私の祈りは、いつも自分の気を逸らさないようにする戦いです。しかし、時々、私の気は散らなくなり、天主に魂を奪われますが、それは、聖霊が支配権を取り、孝愛の賜物を通して、障害や困難なしに私が天主を愛することができるようにしてくだっている印です。行動しているのはもはや私ではなく、天主が私の徳において行動してくださるのです。

 賜物は七つあり、聖霊は、それらの七つの手段を通して私たちの行動を導き、強めてくださいます。敬畏、孝愛、賢慮、剛毅、知識、聡明、上智の七つです。

III/ 第一の段階に留まる危険

 親愛なる信者の皆様、賜物を通して聖霊によって導かれることは、偉大な神秘家たちだけのものではなく、私たちの普通のキリスト教的生活の一部です。聖トマス・アクィナスは、賜物をいささかも使うことなしには人は救われ得ない、とさえ言うのです。

 そのためには、私たちは堅振の秘蹟を受けて、私たちが見過ごしてしまうような小罪や、大罪ではないから戦う必要がないという口実のもとに私たちが戦うことをしない小さな罪のような、私たちがこれらの賜物を育むことを妨げる罪に対して、戦わなければなりません。それは、私たちが最低限のキリスト教的生活を送るという、霊的な凡庸さとの戦いです。

 今日の主日の福音の中のペトロのように、私たちも沖に出ましょう。自分自身が聖霊に導かれるようにしましょう。そのために、もしまだ堅振を受けていないのであれば、堅振を受けましょう。そして、一つの賜物を選んで、私たちがその賜物を育むことを妨げる小罪や執着心がないかどうか、自問してみることにしましょう。