聖霊降臨後第十五主日の説教―召命―(大宮と大阪)

ソース: FSSPX Japan

御聖体

聖霊降臨後第十五主日の説教―召命―(大宮と大阪)

2025年9月17日 ロンジーノ金神父

聖霊降臨後第十五主日の説教―召命―(大宮と大阪)

今日は、私の日本でのミッションの最後の主日ですので、難しい説教はすべてお休みにして、少し私の召命の話を聞いていただければと思います。

私が中学生の頃に時を戻します。
ある日、私のベッドのそばで、母が、ある聖なる修道士の話をしてくれました。
彼はベッドで死にかけており、別の修道士が看病していました。このもう一人の修道士、看護していたほうの修道士が、聖なる修道士にこう尋ねました。
「ブラザー、私はあなたの聖なる生涯は知っているので、知りたいことがあるのですが、一生のうちでどれほどの数の霊魂を救うことができたのか、お分かりになりますか」。
この時、死にかけている修道士は、ある数字を口にしました。私は正確には覚えていませんが、たしか何千、何万という数だったと思います。つまり、その聖なる修道士は、その生涯で多くの霊魂を救ったのです。
私は、母からこの話を聞いてとても驚き、激しい衝撃を受けました。
なぜなら、その時の私は、天主が正義を厳しく適用されるものと思っており、ある人の過ち、その人の罪は、その人のものであって、他の人は救ってあげることができないと思っていたからです。
ですから、もし天主が「あなたは罪を犯したよね。よく頑張ったけど」と言われてしまえば、どうしようもないわけです。
他の人がどんなにその人を助けようと思っていたとしても、それはできない、起こり得ないわけです。
しかし、他の人が、その罪深い霊魂を、祈りと犠牲によって救うことができるというのならば、救われる機会をお与えになっているわけですから、すでに天主の御慈悲であると私は考えます。
この話を聞いて、私は「一対一」の交換だけでなく、「一対多数」「一対無限」の交換も可能だと気づいたのです。
どういうことでしょうか。その時の私はこう考えました。ほとんどただのような代価ではないか。最高のお買い得です。大安売りをしているショッピングモールに買い物に行くとしましょう。あたかも、おいしいチョコレートバーを、1円や10円など、ほとんどただのような値段で買うようなことに、私には思えたのです。
この時、私は決心しました。生涯を捧げて、天主ができるだけ多くの霊魂、いや、すべての霊魂を救うことができるようにしようと。
これが、私が自分の召命についての最初の呼びかけでした。

しかし、その決心は最後まで続いたのでしょうか。
ご存じの通り、人生には常に、途中で邪魔が入るものです。
大学時代に、自分の召命について小さな危機が訪れました。
高校までは、常に進むべき方向を示され、守られていました。あるいは、校則や教師や親からの指導や指示に従わなければなりませんでした。
しかし大学に入ると、雰囲気は完全に変わります。
何でもやりたいことをやりなさい。つまり自由が与えられるのです。
誰も、今これをしてはいけないなどと言いませんから、しようと思うことをするだけです。
もちろん、責任は取らなければなりませんが、とにかく自由であったわけです。
私が大学に入った時は、この自由な雰囲気に苦しみました。
私は修道士になって、自分の生涯を天主に捧げると決めていたのですが、私は十分に自由なのでしょうか。

天主こそ最も自由なお方であることは知っています。そして同様に、私たちも自由であることを望まれているのですが、ではなぜ、私は自由でないように感じるのでしょうか。
いったん決めたならば、私はこの召命にとどまり続ければならないのでしょうか。
これが、私の心配事であり、悩みでした。そのことを、2カ月ほどの間に何度も考えました。

こうした疑問を抱えたままでいた時、ある日、偶然にも、私はインターネットで、ある記事を読みました。召命に関して同じ不安を抱えた人によるものです。彼は司祭への召命を考えていたのですが、彼もまた、天主の呼びかけについて不安を感じていました。「私はこのようなことはしたくない」。しかし、ある日、彼が聖堂で祈っている時、彼は悟りました。あるいは、内的に天主の声を聞いたのかもしれません。天主が本当に望んでおられるのは、彼は自分の生きる道を自由に選ぶことだ、と。あなたが自分の決断や決心について心配しているのは分かりますが、心配しないでください。あなたが望むどんな道でも選んで進んでよいのです。私はあなたを支えるために、ここにいます。たとえ結婚することを選んだとしても、私はその選択を喜び、最善を尽くして天主の御摂理のうちに幸せな結婚生活を支えますから。ですから、召命について、不安に思ったり苦しく感じたりしないでください。それが、彼の悟ったことだったのです。

この部分を読んだとき、天主が直接、私に語りかけておられるように感じました。私の良心の重荷がすべて取り除かれ、心が平安になりました。
やらなくてもいい。私は自由だ。私にはまだ、自分のやりたいことを何でもやる自由がある。
皆さまは、結婚することをどのように決めたのか、お聞きになりたいかもしれません。その場合、私はここに立っていることはできないのですが、この記事のおかげで、私に平安がもたらされました。
自分の召命の重荷を恐れる必要はありません。
しかし、ここで非常に興味深いのは、私は、ある種の自由の感覚を取り戻したにもかかわらず、その瞬間、私はむしろ感動したのです。天主が召命に関して、完全な自由を許してくださっているという、偉大な御慈悲に。
全能の天主が、ちっぽけな被造物である私の自由を尊重してくださるとは。
これが、主の司祭職における、とても重要なみわざなのかもしれないと、非常に感動しました。
天主の寛大で理解あるお考えに感動し、私はさらに決心を固めました。自分の生涯を捧げようと、私は自分自身に言いました。自分が苦しんでいることは分かっている。けれども、私には平安があり、自分の歩む道を完全に選ぶ自由がある。ついにその時が来たら、私は何が起ころうとも自分自身を、全生涯を天主に捧げよう、今、そして将来にも。

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1)一般的な召命
ここまでが、私の召命の内的なお話でした。
実は、私たち一人一人には、それぞれの召命の話があります。なぜなら、私たちには皆、天主からの呼びかけがあるからです。
天主の子となり、この世でもう一人の天主となり、そして天国で永遠に天主と共に生きるという呼びかけです。これが私たちの召命です。
天主の息子や娘になるというこの偉大な召命において、最も重要で不可欠な要素は、すなわち、人間の自由意志で、天主への愛から天主に応答することです。

2)司祭の召命
しかし、自分の召命を成し遂げて天国に行くためには、不可欠にしてこの世に絶対に必要なものが他にあります。それは司祭職です。
司祭職こそが、まさに中心点であり、計画の核心なのです。
大司祭である私たちの主イエズス・キリストがおられなければ、贖いは不可能であり、誰も天主の子となることはできず、誰も天国に行くことはできません。
そして、司祭は「もう一人のキリスト」(Alter Christus)です。
私たちの主は、司祭たちを通して、ご自身の贖いのみわざを継続され、永続させておられます。
司祭がいなければ、贖いのみわざは継続できません。
ですから、司祭の召命は、天主の御心が最も関心のあること、最も気にかけておられることなのです。

3)天主が皆さまをお呼びになる方法
この最も重要な務め、すなわち司祭職への召命において、(興味深いことに)天主は、ご自分がお呼びになる人たちに、最も深い配慮と繊細な思いやりをもって、最大の自由を与えられます。
天主は彼らに決して強制なさらず、彼らへの配慮は極めて繊細なものです。
天主は全能でありながら、すべての被造物に対して要求する権利をお持ちでありながら、私たちの自由意志を非常に尊重されるのです。
なぜなら、それが天主のご計画を成し遂げる唯一の方法、唯一の手段であるからです。

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親愛なる信者の皆さま、そして、召命をお持ちの方々、また召命について考えたことがおありの方々、この説教をよく聞いていただき、心にとどめておいてくださるよう、お願いしたいと思います。
この世には多くの心配事や誘惑があり、天主の声を聞き分けることを難しくしているのは事実ですが、私たちは天主の羊なのですから、天主の声がどのようなものであるかを知っています。
「私は私の羊を知り、私の羊も私を知っている」【ヨハネ10章14節】。

この説教壇で語りかけている人物が、天主の御声を気にかけなかったら、その御声を一時の感情的な思いとしか考えなかったなら、彼は今、こうしてここに立って皆さまに語りかけることはできなかったでしょう。
また、彼が、自分の召命を単なる束縛や人生の重荷と捉えていたなら、それを自分に強制して引きずり込もうとしていたなら、神学校での司祭養成の年月を耐え抜くことができなかったのは確実です。毎日不機嫌な顔をしていたことでしょう。
悪魔の声に用心してください。この世の安楽や快楽に向かわせる声に、あるいは召命を重荷だという考えに向かわせる声に。

この説教を終える前に、最後に一点だけ述べさせてください。
御聖体を見てください。何が見えますか。
明らかに、私たちの目にはパンに見えますが、私たちは、信仰によって、それが私たちの主イエズス・キリストであることを知っています。
このパンが、いかにして天主となることができたのでしょうか。
もちろん、天主の御力と、天主がこの小さい被造物を奉献するという御意志により、この小さなパンが、もう一人の天主となります。
しかし、天主の一部ではなく、パンそのものの一部について考えてみましょう。このパンが、いかにして天主となることができたのでしょうか。
なぜなら、このパンの中には、もう一人のご自分にならせようとする、天主にならせようとするご意志に逆らうものが何もないからです。
天主の行いに反対し、拒否するものは全く何もないのです。
このことにより、このパンは、もう一人のご自身、すなわち天主となることができるのです。
そして、もちろんこのパンには、生命がないので、天主の行いを妨げるものは何もないのです。
ですから、自由意志もないのは事実です。

このパンが天主の行いに何も抵抗しないという事実が、この単純な事実が、パンを天主とすることができるのならば、皆さまはそれ以上に、もう一人の天主に、もう一人のイエズス・キリストに、天主の司祭になることができるのではないでしょうか。
皆さまそれぞれが、天主から非常に愛されています。皆さまには、ご自身の自由意志を含め、多くの賜物が与えられています。
皆さまが召命に応える声を、天主はどれほど聞きたがっておられることでしょうか、天主への愛から行われる皆さまの選択を、天主はどれほど切望しておられることでしょうか。
私たちの主イエズス・キリストによる聖変化のとき、天主は、パンとぶどう酒に対してみわざを送られるだけでなく、皆さま一人一人に対しても、個人的に、こう言っておられるのです。
「これは私の体である。これは私の血である」。

すべての皆さま、召命を考えておられる方々、またご詩人の召命に関して不安があり、苦闘しておられる方々、聖ピオ十世会会員一同の祈りと犠牲が、皆さまに向けられていることを、どうか確信してください。
この旅路において、皆さまは一人ではなく、私たちが共にいるのです。

「天主は、これらの石からでもアブラハムの子らを創ることがおできになる」【マテオ3章9節】。
「羊たちも私の声を聞き、一つの群れ、一人の牧者となるであろう」【ヨハネ10章16節】。

アーメン。