聖霊降臨後第十七主日の説教―信仰と愛徳(大阪)
イエズスの聖心
聖霊降臨後第十七主日の説教―信仰と愛徳(大阪)
2025年10月5日 イヴォン・フィルベン神父
聖霊降臨後第十七主日の説教―信仰と愛徳(大阪)
親愛なる信者の皆さま、
私は今、一年以上行っているオンラインのカテキズム講座を終えようとしているところです。カテキズムには、説明すべきことが非常にたくさんあります。これは、教会の教えが豊かであるということです。しかし、時には、要約したもの、明確な考えを示す短い概要が必要です。今日の主日の福音の短い一節は、非常に重要です。なぜなら、カトリックという宗教を要約する二つの偉大な原則、つまり信仰と愛徳を示しているからです。
一)状況
しかしまずは、この福音の場所と時代について少し説明しておくのが有益でしょう。福音は終盤を迎えており、イエズスは、ご受難の前に神殿で教えておられます。神殿では、私たちの主とファリザイ人たちの間で多くの論争がありますが、これがまさに最後の論争です。私たちの主がファリザイ人たちに語りかけられる、最後の機会なのです。これ以降、もう対話はなくなり、ファリザイ人たちに対する災いの言葉だけになります。対立は決定的です。この対立の本質は何でしょうか。それは信仰と愛徳に関するものなのです。
二)愛徳
1)愛徳
ファリザイ人たちが、私たちの主に質問をします。その質問は、正確に言えば、福音の原文のギリシャ語ではこうです。「掟を重要なものにするのは何ですか」。実際、律法には多くの掟があり、ファリザイ人たちは掟の重要度を比較する議論には慣れていました。しかし、イエズスはお答えの中で、問われた質問をはるかに超えて、こう答えられました。「『心を尽くし、霊魂を尽くし、精神を尽くして、主なるなんじの天主を愛せよ』、これが最大の掟である」。これは、ファリザイ人たちの議論と比べ、イエズスがもたらされた新しいものであり、私たちのキリスト教信仰の根幹をなすものです。つまり、愛徳の掟が第一に来るのです。私たちは、このことをよく知っています。愛だけが、私たちを、天国に行けるようにしてくれるのであり、愛がなければ、私たちは救われません。愛徳の掟は旧約にも存在していました。実際、私たちの主は、第二法の書(申命記)の一節を引用しておられるのですが、それは最大の掟とはみなされていませんでした。カトリックという宗教の独自性は、この掟がすべての掟のうちで第一のものになる、私たちの存在全体の目的になる、というものです。私たちが生きているのは、天主の恩寵を通して愛を獲得し、その愛を死に至るまで守って成長させるためです。これこそが、私たちの地上における人生の目的なのです。
もちろん、私たちの主は、隣人に対する愛のことも付け加えておられます。「なんじの隣人を自分と同じく愛せよ」。そして、この掟は、天主への愛という掟の論理的な延長線上にあるものなのですが、隣人を愛するという掟は天主への愛という掟に依存しています。隣人を愛するという掟は最大の掟ではなく、最大の掟に似たものなのです。私たちは、天主への愛のゆえに隣人を愛するのです。
2)単なる慈悲にあらず
このことは、私たちには当然のことのように思えます…、しかし、この愛徳の掟を生活の中で本当に実践しているかどうか、自問してみましょう。実際、誤解を避けなければならず、この天主への愛は、仏教のような単なる慈悲ではありません。そうではなく、それは天主が統治してくださることを、心を尽くして願うことです。「御名の尊まれんことを、御国の来らんことを…」。私たちは、自分の内に愛の火をつけなければなりません。「私は地上に火をつけに来た」と、私たちの主は言っておられます。こう自問してみましょう。これが本当に私たちの心の状態なのだろうか、それとも少し無関心になっているのだろうか。すべての人に対する単なる慈悲で満足しているのだろうか。
愛は対神徳の一つであり、人間的な徳ではないことを忘れないようにしましょう。人間的な徳は、理性の要求に従って中庸を基準とするのですが、天主から来るものにはそのような尺度はありません。私たちの愛には限界がなく、「心を尽くし、霊魂を尽くし、精神を尽くして」、常に増えることのできるものでなければなりません。天主は、私たちの存在のすべてを求めておられます。しかし、私たちはしばしば、天主にほんの一部しかお捧げしていません。これは十分お捧げするが、それ以上のものはお捧げしない、ということです。
三)私たちの主の恩寵
このように天主を愛することができるのは、いったい誰でしょうか。そんな力を持っている人は誰もいません。旧約でイスラエルに与えられた掟は、実際には適用が不可能なものでした。旧約の中で、心を尽くし、霊魂を尽くし、精神を尽くして天主を愛することに成功した人は、誰もいませんでした。愛徳の掟を果たした唯一の人は、私たちの主ご自身です。十字架上で、主は天主への完全な愛を示されました。これは、原罪以来、私たち人間が完全には成し遂げられなかったものです。私たちの主が会話を続けて、ファリザイ人たちに、メシア、つまりご自身について質問され、メシアは、ダヴィドの子という単なる人間なのではなく、主なる天主の御子であることを彼らに理解させようとされたのは、このためです。
愛徳の掟を果たす唯一の人は、私たちの主イエズス・キリストです。なぜなら、主は天主であり、また、私たちが心を尽くし、霊魂を尽くし、精神を尽くして天主と隣人を愛することができるのは、主によってのみ、信仰と秘跡を通して主と一致することによってのみであるからです。私たちの主への信仰がなければ愛徳が存在するのは不可能であり、したがって、私たちの主への信仰がなければ救いはないのです。
愛の行い【愛徳のわざ】を実行することが難しいと感じるとき、私たちは主イエズス・キリストへの信仰の行いを実行しているのでしょうか。ご聖体や秘跡を受けるとき、それが、より良い愛の行い【愛徳のわざ】を実行するために与えられる力であることを、私たちは認識しているのでしょうか。
親愛なる信者の皆さま、カトリックの信仰は豊かで深遠ですが、複雑なものではありません。それは、今日の主日の福音が繰り返す二つの言葉、信仰と愛徳に要約できるのです。私たちは、主が単なる人間ではなく、真の天主であることを信じなければなりません。そうすれば、私たちは主の恩寵を受け、二つの愛の掟、すなわち他の何よりも天主を愛し、天主への愛のゆえに隣人を愛するという掟を果たすことができるのです。