聖霊降臨後第十六主日の説教―高慢とは何か?(大宮)

ソース: FSSPX Japan

水腫にかかった男

聖霊降臨後第十六主日の説教(大宮)

2025年9月28日 イヴォン・フィルベン神父

聖霊降臨後第十六主日の説教―高慢とは何か?(大宮)

親愛なる信者の皆さま、

お分かりでしょうが、私は眼鏡をかけています。これは、私の視力が良くないため、矯正レンズが必要だということです。これは、すべての近視の人にとっての問題ですが、すべての人に影響を及ぼす似たような問題があります。それは高慢であり、私たちの主は、これについて、このミサの福音で警告しようとしておられます。高慢は実際、一種の近視ですが、体に関するものではなく、霊的、内的なものです。高慢は、現実を見る目を歪め、自分の立場を認識するのを妨げてしまうのです。

今日は、高慢についてお話しし、高慢から解放されるために私たちの主と教会が与えてくださる手段を説明したいと思います。

一)高慢

1)水腫にかかった男

高慢とは何かを理解するために、まずは、この福音の冒頭で起こったことに注目しましょう。「見よ、水腫にかかった男が御前にいた」(ルカ14章2節)。イエズスは、ファリザイ人たちの律法解釈を批判しながら、この男を治されました。「イエズスは、その人の手をとって治して帰された」(同章4節)。しかし重要なのは、治したことそのものではなく、病人が象徴しているものです。水腫とは何でしょうか。浮腫や腫瘍などによる体の腫れのことを言う古代の医学用語です。しかし、これこそがまさに、高慢の本質なのです。高慢は人を膨れ上がらせます。イエズスはファリザイ人たちに対して、彼ら自身がまさにこの病人と同じだと告げようとしておられるのです。彼らは皆、高慢で霊的に膨れ上がっているという意味で、水腫にかかっているのです。

2)高慢

高慢とは実際、霊魂が膨張していることです。聖トマスによれば、高慢とは、自分が優れていることへの行き過ぎた愛です。自分が優れていることへの愛は、それ自体は問題ではありませんが、この愛が行き過ぎてしまうと、それは高慢と呼ばれ、罪となるのです。

この定義は少し抽象的ですから、高慢の態度の例を、いくつか挙げてみましょう。きっと私たちは、自分がそのいずれかに当てはまると分かるでしょう。

高慢な人は、あらゆることを自分に関連づけるため、常に他人と自分を比較します。誰かに会ったり誰かが何かをしたりするたびに、こう比較するのです。「この人は私より優れているだろうか。私はどうすれば同等に、あるいは上回れるだろうか」。

また、高慢な人は、他人の意見に耳を傾けたがらないという事実からも、見分けがつきます。高慢な人は、大体において常に他人に助言を与え、何をすべきかを伝えますが、聞く術(すべ)を知りません。自分こそ他の誰よりも理解していると信じているのです。

最後に、高慢な人は、常に自分を中心に置き、あらゆることを自分がしたことに結びつけます。あらゆる出来事が彼らの豊富な経験から来ることを思い起こさせ、それを他人に話したがるのです。彼らは通常、会話を支配し、他人が話す余地を残しません。ですから、権威ある地位や、注目を浴びる中心にいるようなあらゆる状況を求め続けるのです。

要するに、高慢な人は自己愛にとらわれており、その自己愛は自己認識を膨張させるのです。この自己愛が、現実に関係する問題を引き起こします。彼らはこの世を自分との関係で見るのですが、この世は自分を中心に回っているわけではないため、この世で実際に起きていることに気づきません。自分に直接影響することを大げさにし、それ以外のすべてを軽視したり無視したりするのです。

二)人の前での謙遜

では、私たちはどうすべきでしょうか。皆さまも、その解決策をご存じでしょう。それは非常に単純で、私たちの主が福音の中でファリザイ人たちに示されたものです。「招待されたときには、むしろ末席につきなさい」(ルカ14章10節)。これは、人の前での謙遜と呼べるでしょう。

この説教の冒頭で述べたように、これは矯正の問題です。高慢のせいで、私たちは、現実を偏った視点で見ているのであり、すべてを自分との関係で捉えてしまうのです。その解決策は、近視の矯正法に似ています。私たちには矯正措置が必要なのです。私たちの矯正措置とは、謙遜の行いです。

日常生活の些細な不快感や、自分が当然受けるべきと思うものを受けられなかったり、自分が受けるに値する扱いをされなかったりする瞬間を、すべて謙遜の行いを実践する機会として利用することで、私たちはそうした行いを実践できるのです。

三)天主の御前での謙遜

しかし、そのような謙遜の状態に到達するには、人の前で謙遜であるだけでは十分ではありません。天主の御前でも謙遜でなければならないのです。

実際、人の前でできる謙遜の行いはすべて、大きな障害に直面します。それは偽りの謙遜です。主はこう言われます。「行って、末席につきなさい。そうすると、招いた人が来て、『友よ、どうぞもっと上(かみ)に進んでください』と言う。そうすれば、あなたは列席者の前で面目をほどこす」(ルカ14章10節)。これは、次のように誤解されかねません。「私は末席につくが、実際には私が一番の上席にふさわしいと思っており、そこに上げてもらうのを待っている。末席につくことが私の本意なのではない」と。これは、私たちによくある態度です。(不当な発言に対応しないなど)謙遜の行いを実践しながら、内心では仕返しの時、つまり、みんなの前で、自分に当然の面目をほどこす瞬間を待っているのです。他人の前で、完全かつ誠実に謙遜になることは困難です。なぜなら、すべての人には何らかの不完全なところがあり、何らかの点で、私たちは常に他人より優れているからです。

このため、真の謙遜とは、まず天主の御前で学ぶものです。完全なのは天主だけであり、天主の御前においてのみ、私たちには謙遜であるべき十分な理由があります。このミサの書簡にある聖パウロの祈りは、こうです。「私は、御父の御前にひざまずこう」(エフェゾ3章14節)―なぜなら、父なる天主は「私たちのすべての願いと考えをはるかに超えて、(御力によって)どんなことでもできる」(同章20節)からです。天主の偉大さの御前で、毎日少なくとも一つは謙遜の行いを実践しましょう。これが、私たちに、人の前で謙遜になることを教えてくれるでしょう。

高慢は、大変危険なものであり、あらゆる罪の根源であり、ひどい霊的な近視へと至らせるものです。人の前で、そして何よりもまず天主の御前で、謙遜の行いを通じて、高慢と戦いましょう。