聖霊降臨後第十九主日の説教―典礼における香の意味(大宮と大阪)
献香
聖霊降臨後第十九主日の説教―典礼における香の意味(大宮と大阪)
2025年10月19日 イヴォン・フィルベン神父
聖霊降臨後第十九主日の説教―典礼における香の意味
親愛なる信者の皆さま、
毎週、主日のミサにあずかっておられる皆さまは、毎回のミサで行われる特別な儀式、つまり香を使っていることにお気づきでしょう。私たちは慣れてしまっていますから、もうそのことをあまり意識していません。しかし、今日の主日の典礼では、この儀式に私たちの注意が向けられます。書簡に続く聖歌である昇階誦の際、聖歌隊はこう歌いました(司祭はこう唱えました)。「主よ、願わくは、わが祈りが、香のように御前に立ち上らんことを。わが両手が、夕べのいけにえのように、主に向かって伸びんことを」。この詩篇の一節は、最も重要な献香である奉献誦の献香の際に、司祭が低い声で唱えるものです。今日は、この一節について解説し、典礼における香の意味を説明したいと思います。
一)司祭だけに許された行為
1)他の宗教では
香を焚くことは、ほとんどすべての宗教に見られる行為であるのは確かです。日本の状況がどうなのかは承知していませんが、台湾の寺院では、それが主要な儀式として行われており、中国語では異教の寺院に参拝することを「香を焚く」(焼香)と呼ぶほどです。しかし、教会ではそうではありません。香を焚くことには、他の宗教で行われているものとは違う意味があります。実際、教会では、信者が誰でも行う行為ではなく、司祭だけに許された行為なのです。
2)典礼上の行為
教会では、香の使用は典礼に限定されています。信者全員が使うものではなく、典礼の役務者だけが使うものです。したがって、香を使うのは司祭か侍者になります。教会では、香は典礼で使うものであり、個人的な信心の行為ではありません。例えば、自宅でろうそくに火を灯すことはあっても、自分で香を使うことはありません。
香を焚くことで、教会は、旧約聖書の歩みに従っています。皆さまご存じのように、香は神殿での礼拝で重要な役割を果たし、神殿では毎日朝晩、専用の祭壇の上で捧げられました。出エジプト記30章の最後には、この香の作り方が記されており、その説明の締めくくりでは、その香を冒涜的に使うために作ることを、死刑をもって公的に禁止しています。聖書では、香は日常生活では決して使われないもので、礼拝においてのみ、非常に厳格な規則に従って使われていました。さらに、香を捧げることができたのは司祭だけでした。旧約聖書には、天主をお喜ばせする方法で香を捧げなかったために、天主から直接死刑に処せられた人々の例が二つあります。ダタンの話は民数記16章にあります。他の宗教では香を焚くのはまったく普通のことですが、聖書が香をこれほど特別なものとしているのはなぜでしょうか。その理由は、香というものが、旧約聖書でも教会の礼拝でも、私たちの主イエズス・キリストのいけにえを象徴しているからなのです。
二)キリストのいけにえ
このことを正しく理解するためには、香の使用を、今日昇階誦で示されている詩篇との関連で見る必要があります。「主よ、願わくは、わが祈りが、香のように御前に立ち上らんことを。わが両手は、夕べのいけにえのように、主に向かって伸びんことを」。この詩篇は、香を捧げることを、夕べのいけにえと、両手を上げて捧げる祈りとに関連付けていることが分かります。聖アウグスティヌスは、そのことを「これは十字架のいけにえを指している」と明確に述べています。実際、私たちの主は、金曜日の夕方の、神殿で夕べのいけにえが捧げられていた時に、十字架上で命をお捧げになったのであり、それは、主が十字架上で両手を伸ばしてお捧げになったいけにえだったのです。
こういう訳で、香を捧げることは、聖書の中で誰でも行った冒涜の行為ではありません。香を捧げることは、キリストのいけにえを象徴しているのですから、キリストを象徴する司祭が行う行為なのです。神殿で香を捧げることはすべて、十字架のいけにえを前もって表すものでした。このことは、奉献誦の献香とともに行われる司祭の行為と言葉を調べれば、非常に明確になります。実際、奉献誦の献香の際、司祭はまず、供え物の上に十字架のしるしを三回行い、「御身の祝し給うたこの香が、御身の方へと立ち上らんことを」と祈ります。十字架は実際、天主が受け入れてくださる唯一のいけにえであり、天主に立ち上る唯一のいけにえです。次に司祭は、供え物の周りに二つの円を描き、天主の御あわれみが私たちの上に下るようにと祈ります。祈りが立ち上り、祝福が下るという行為です。十字架のいけにえは天と地をつなぐものであることが、明確に分かります。
三)聖人たちの祈り
しかし、香の使用はそこで終わるわけではありません。供え物が香を受けた後、司祭が香を受け、続いて信者が香を受けます。これはなぜでしょうか。香は、私たちの主のいけにえだけを象徴しているのではないでしょうか。
その通りです。しかし、私たちが香を受けるのは、私たちが主とつながっているからなのです。司祭が香を受けるのは、私たちの主イエズス・キリストの役務者、祭壇でいけにえを捧げる役務者だからであり、信者が香を受けるのは、洗礼を通して私たちの主と一致しているからです。そのようにすることの根拠を、教会は、黙示録5章8節に置いており、そこでは、香を、地上から天主へと立ち上る聖人たちの祈りに例えています。「四つの動物と二十四人の長老は、小羊の前にひれ伏した。彼らはおのおの、竪琴と香に満ちた金の杯を持っていた。香は聖人たちの祈りである」。洗礼によって、私たちはキリストに接ぎ木され、キリストのいけにえと一致します。したがって、私たちの祈りはキリストという捧げ物によって運ばれます。成聖の恩寵の状態にあるキリスト信者の祈りは、特に天主がお聞きくださるものです。ですから香は、十字架上の私たちの主という捧げ物とともに天主へと立ち上っていく、私たち自身の祈りをも象徴しているのです。
歌ミサか読誦ミサか、香があるかないかに関わらず、私たちがどのミサにあずかるとしても、これこそが、ミサにおける祈りの意味なのです。
信心をもってミサにあずかるとき、私たちの祈りは天主に届きます。私たちはこのことを認識しているでしょうか。この世のために執り成しをしなければならないことを自覚し、自分の意向を準備してミサにあずかっているでしょうか。
親愛なる信者の皆さま、香は非常に頻繁に使われますが、私たちはその意味を忘れがちです。この行為の意味を示すこの昇階誦の一節を黙想しましょう。それはキリストのいけにえと、このいけにえとともにある私たちの祈りに関するものです。私たちが明確な意向を持ち、私たちの主のいけにえを通して、その意向が天主の御前にまでもたらされると確信しながら、ミサにあずかれるかどうかは、私たち次第なのです。