聖霊降臨後第十二主日の説教―傷ついた人にとって隣人は誰だと思うか(大宮)

ソース: FSSPX Japan

善きサマリア人

聖霊降臨後第十二主日の説教(大宮)

2025年8月31日 ロンジーノ金神父

傷ついた人にとって隣人は誰だと思うか

1.はじめに

今日の福音で、私たちの主は、善きサマリア人のたとえ話について語っておられます。
このたとえ話で、主は永遠の命を得るための最大の掟についての教訓を与えておられます。この掟とは何でしょうか。隣人愛の掟とは何でしょうか。
私たちはすでに、このたとえ話をよく知っていますが、このたとえ話には見過ごしてはならない重要な点があります。それは、私たちの隣人とは誰なのかを本当に知ることです。

2.本論

―福音の解説

今日の福音には、旧約の律法について熟知しているユダヤの律法学士が登場します。律法学士は、私たちの主との会話を始め、永遠の命を得る方法を尋ねます。
最後に、このユダヤ人は再び主にこう尋ねます。「私の隣人とは誰ですか」。

私たちの主は、罪人たちのところによく行かれましたが、ユダヤ人たちは罪人たちを軽蔑していました。ユダヤ人たちは、罪人たちを隣人とはみなしていませんでした。
この律法学士は、この隣人という概念について、私たちの主を試みたかったのです。
この問いを発する際に、律法学士には、自分を正当化するとともに私たちの主を非難するという悪意がありました。

そこで、私たちの主は、人類の救いの歴史全体を象徴するたとえ話を語られます。

1)このたとえ話において、エルザレムからエリコへ下って行く人は、エデンの園から追放の地へと堕ちていった、私たちの最初の父祖アダムとエワを象徴しています。
二人は、超自然の命(天主の命)の状態から、傷ついた本性を持つ単なる自然の命へと堕ちていったのです。

2)次に、その強盗です。このたとえ話の強盗は、私たちの最初の父祖を誘惑したサタンです。

3)次に、通り過ぎたのは司祭とレビ人です。
これらの人々は旧約のユダヤ人を表しています。
彼らも堕落した人類に属していましたが、全人類の救いのために天主の律法と司祭職を受けていました。なぜか。それは全人類の救いを助けるためです。
しかし、彼らは傷ついた人を顧みず、人類の救いに関心を持ちませんでした。堕落した人類を隣人とはみなしませんでした。
彼らには、自分たち以外には隣人はいませんでした。
彼ら自身こそが、自分たちの「隣人」だったのです。

4)サマリア人は、私たちの主イエズス・キリストです。
背景情報として、サマリア人とは、捕囚時代にアッシリア人と通婚したユダヤ人のことです。この異教徒と混じり合うことにより、サマリア人は真の信仰から堕落しました。この押し付けられた宗教における妥協と真実の宗教における退廃のゆえに、このサマリア人は他のユダヤ人から軽蔑されていました。
ですから基本的にユダヤ人は、このようなサマリア人を、自分たちの国の一部とは考えていませんでした。「あの人たちはユダヤ人ではない。したがっておまえたちは外国人だ」。このようなことが起こっていたのです。
このたとえ話の中では、私たちの主は、このサマリア人のイメージを御自らに用いられました。
天主が罪深い何かでけがされているからではなく、ご自分の内にある二つの本性を示すためです。
天主としての神聖な本性と人間の本性が、主の中で一つになっているのです。

旧約の司祭やレビ人とは異なり、このサマリア人は、堕落した人類を見て、あわれに思い、人間性をもって来られます。
恩寵と御力によって私たちの傷を癒やすために、私たち人間の本性をお取りになり、私たちの罪の重荷を御受難によって御自ら背負い、その死によって、私たちを天主の命へと再び生まれさせられたのです。

5)たとえ話の宿屋は、主が創立された教会、すなわちカトリック教会を指しています。
救われるためには、全人類がカトリック教会に属すべきなのです。

私たちの主は、教会に対して人類の救いという使命を、傷ついた人の世話をするという使命を与えられ、再び来られる際に永遠の命と栄光という報いを与えると約束しておられます。

―福音の教訓

ここで私たちは、隣人愛の掟は、永遠の命を得る上で鍵となるものであるのを思い出すかもしれません。
同時に、これは天主に対する私たちの真の愛を証明する試金石でもあります。
私たちの主の問いは、「傷ついた人の隣人とは誰だと思うか」です。この問いは重要です。
私たちの主は、私たちにも同じように問いかけておられます。この場合に、この問いに、私たちはどう答えるべきでしょうか。
今日の福音から、いくつかヒントを得ましょう。

最初に、たとえ話の前に、ユダヤ人は「私の」隣人とは誰かと聞きました。「彼の」隣人とは誰ですか。私たちの主は、この問いに答えられました。「傷ついた人の隣人とは誰か」。
このユダヤ人と傷ついた人は同等だとみなされているということです。

私たちが、「私たちの隣人とは誰か」という問いに答えるには、強盗に遭って倒れたこの傷ついた人の立場に身を置けば、私たちの隣人とは、善きサマリア人である私たちの主イエズス・キリスト以外の何者でもないと結論づけられます。
みじめな状態にある私たちを見つけてくださった主は、あわれみに満たされて、ご自分の命を捧げるために、最初に私たちに近づかれました。
主は、私たちにとって、天主の国に一人も隣人はいなかった私たちにとって、天主の敵だった私たちにとって、最初の隣人となってくださったのです。

ですから、あらゆる隣人の中でも、私たちの主イエズス・キリストこそが、私たちの最初の隣人にして最も感謝すべき隣人なのです。
さらに、主は私たちの最大の恩人でもあります。
主が与えてくださったのは単なる物ではなく、天主の命そのものなのですから。

この事実を心から理解すれば、私たちは常に天主に感謝し、あたかも自分には隣人がいないかのように、自分だけで十分に満足だとは考えなくなるでしょう。
かえって常に謙遜になり、いつも天主に頼り天主に従順になるでしょう。

隣人に対する私たちの義務はここで終わるのではなく、ここから始まるのです。
このたとえ話の結末にある主の言葉を思い起こしましょう。
「あなたも行って、同じくせよ」。
主からあらゆる愛とあわれみと恩寵を受けた私たちは、主に倣い、自分の周囲の人々の真の隣人となるべきです。
私たちは、人々のみじめさを、特に罪人たちの霊的な罪のみじめさを見抜く目を持たなければなりません。
そして、霊魂への真のあわれみをもって、霊魂への愛徳によって、それらの霊魂を救うための私たちの主の道具となるべきなのです。

実際、この隣人への愛徳は、私たちの主への愛徳でもあります。
キリストは、洗礼を受けた霊魂の中に現存しておられます。
重大な罪によって恩寵を失った罪人の中であっても、恩寵によって現存しておられるのではありませんが、キリストは現存しておられます。キリストは鎖で縛られ十字架につけられて、一条(ひとすじ)の光のように、それらの霊魂たちの中におられます。
それらの霊魂たちの中のキリストは、霊魂たちを天主の命へと導くために、私たちに助けを求めて叫んでおられます。
それは、キリストがそれらの霊魂の中で解放され、養われ、慰められるためです。
最後の審判の際の私たちの主の言葉を思い起こしてください。
「まことに私は言う。あなたたちが私の兄弟であるこれらの小さな人々の一人にしたことは、つまり私にしてくれたことである」(マテオ25章40節)
ここで、私たちは、隣人とは善きサマリア人であることを知るのです。

3.結論

親愛なる信者の皆さま、このミサでご聖体を受ける際には、この善きサマリア人を心に受けることを忘れないでください。
隣人への愛徳において彼に倣うために助けを願うことを、決して忘れないでください。
隣人への愛徳は重い負担ではありません。また任意のものでもありません。
それは、私たちの主に対する私たちにふさわしい義務であり、私たちが隣人を通して果たす主への愛という義務なのです。
私たちの隣人とは霊魂たちの中におられるイエズス・キリストです。隣人愛はキリストから始まり、キリストに終わるのです。

隣人に対するこの新たな視点をもって、すべて霊魂の中におられるキリストに会いましょう。
隣人の霊魂の中にキリストを見いだすこの霊的な目を持つ私たちは、まことに幸いです。
そして今日の福音の初めの部分を思い出しましょう。
「あなたたちが見たことを見る目は幸いである。私は言う。数多くの預言者や王が、あなたたちの見ていること見たいと望んだが見られなかった」(ルカ10章23-24節)

私たちの主の次の言葉が、永遠の命への旅路において、常に希望と励ましを私たちに与えてくださいますように。
「父に祝せられた者よ、来て、世の初めからあなたたちに備えられていた国を受けよ。あなたたちは、私が困窮し、みじめだったとき、私の隣人となってくれたからである」。
アーメン。