聖霊降臨後第七主日の説教―天主の掟を守る(大宮と大阪)

ソース: FSSPX Japan

ザカリアとエリザベト

聖霊降臨後第七主日の説教―天主の掟を守る(大宮と大阪)

2025年7月27日 パトリック・サマーズ神父

聖霊降臨後第七主日の説教―天主の掟を守る

「私に向かって、『主よ、主よ』と言う人がみな、天の国に入るのではない。天にまします父の御旨を果たした人が入る」(マテオ7章21節)。ここでキリストは、救われるためには、天主の御旨を果たさなければならない、つまり掟を守らなければならない、という真理を宣言しておられます。

ですから、次の二つのポイントを見てみましょう。

1.私たちは天主の掟を守らなければならない
2.私たちは天主の掟を守ることができる


第一部 私たちは天主の掟を守らなければならない

私たちの主キリストは、私たちは掟を守らなければならない、と教えておられます。ある日、一人の若者が、イエズスのところに来て言いました。「よき師よ、永遠の命を受けるために、私はどんなよいことをすればよいのでしょうか」(マテオ19章16節)。イエズスは答えられました。「命を受けたいのなら掟を守れ」(マテオ19章17節)。ここで、そして多くの箇所で、主は、〈救われるためには〉、掟を守らなければならないと言っておられます。

使徒たちも、同じことを教えています。ですから、聖ヤコボはこう言います。「兄弟たちよ、信仰があると自称しても行いがなかったら、何の役に立とうか。信仰が彼を救えるだろうか。…霊のない体が死んでいるように、善業のない信仰も死んでいる」(ヤコボ2章14、26節)。そうです、使徒聖ヤコボは、掟を守ることが救いに必要であると認めています。そして、使徒聖パウロが、彼のすべての書簡で、聖なる生活を守る決意を強く主張しており、また、淫行する者、偶像崇拝者、姦通する者、男娼、男色する者、泥棒、貪欲な者、酒飲み、ののしる者、恐喝する者のいずれも、天主の国を継ぐことはないと断言していることからも、それは明らかです。

私たちの主イエズス・キリストはまた、私たちに対して、次の言葉で、すべての掟を守る義務を課しておられます。イエズスがこのように言われたのは、御昇天の直前でした。「行け、諸国の民に教え、洗礼を授け、私があなたたちに命じたことをすべて守るように教えよ」(マテオ28章19-20節)。なぜなら、すべての戒律は、全体として一つの完全な法とみなすべきもの、いわば戒律の連鎖であり、その連鎖の一つが断ち切られれば、連鎖の全体、すなわち一群の戒律から成る法の完全性が断ち切られるからです。ですから、罪人は、一つの戒律に対する重大な罪によって、永遠の罰を受けるのです。

すべての掟を破っているわけではなく、一つか二つの掟を破っているだけだから、天主は大目に見てくださるだろう、と考えるキリスト信者は、自らをひどく欺いています。霊的に地獄の中を見下ろして、そこで焼かれているのはどのような人かを教えてください。もしかして、すべての掟に違反した人たちでしょうか。そのような人はほとんどいません。大部分は、たった一つの掟に背いただけで、滅びているのです。なぜカインは滅びているのでしょうか。第五戒に違反したからです。なぜソドムとゴモラの住民は滅びているのでしょうか。第六戒のみに背いたからです。ですから、各自が自分を調べて、こう自問しましょう。私はどうだろうか、私はすべての掟を守っているだろうか、と。

多くのカトリック信者は、律法学士やファリザイ人と同じように、天主の掟を完全に守っているわけではなく、一部しか守っていません。多くの人は、それぞれの掟がどのようなものかを知らず、そのため無知から多くの罪を犯しています。彼らは説教を聞き、宗教に関する本、特にカテキズムを読まなければなりません。そうしなければ、無知から掟に違反するたびに罪を犯すことになります。なぜなら、彼らは無知のせいで罪に陥りやすくなっており、そのため罪があるからです。いくつかの掟をまったく守らない人たちもいますが、これは無知からというよりも悪意からです。彼らは、掟のうちで自分に都合のよいものだけを義務として受け入れますが、自分が夢中なことを阻害するものや、自分の感覚にそぐわないものは拒絶するか、あるいは困難なものは自分たちに義務付けられてはいないと解釈するのです。


第二部 私たちは掟を守ることができる

私たちは、天主の恩寵の助けがなければ、自分自身の力では、救いのために何もできない、というのが信仰箇条です。聖パウロが言うように、「自分自身から出たもののように、何事かを自分に帰する資格を私たちは持っていない。いや、私たちに資格を与えたのは天主である」(コリント後書3章5節)。

私たちの主イエズス・キリストはこう言われます。「私がいないと(私の恩寵がないと)、あなたたちには何一つできぬ」(ヨハネ15章5節)。 私たちは、自分の力だけに頼っていては、掟を守ることができません。しかし、天主が誰にも拒まれない恩寵に助けられれば、私たちは掟を守ることができます。ですからキリストはこう言われます。「私のくびきは快く、私の荷は軽い」(マテオ11章30節)。 もし天主の掟を守ることが不可能であるならば、キリストと彼の最愛の弟子のこれらの言葉は意味をなさないものになってしまいます。

聖人たちの生涯を見てください。聖書には、法を守った多くの聖人が記されています。ですから、聖書はノアについて、正しく申し分のない人であり、天主とともに歩んでいたと証言しています。ヨブについては、天主を畏れ、悪を避けていたとあります。ザカリアとエリザベトについては、二人とも天主の前に正しい人で、主の掟と規定をすべて守って歩んでいたとあります。また、カトリック教会には、天主の掟をすべて忠実に守り、人間ではなく天使のようだと思われるほど道徳的に清い生活を送っていた聖人が、いったいどれほど多くいることでしょうか! 新約の数多くの聖人の中から、何百と挙げることができます。聖ベルナルド、聖アロイジオ、聖テレジア、その他多くの聖人です。彼らには、私たちより優れた性質があったわけではなく、同じような試みがあり、おそらくは私たちよりもはるかに大きな試みがあったことでしょうし、彼らの多くは、私たちと同じような恩寵を受けていました。彼らが天主に仕え、天主の法を守ることができたのならば、なぜ私たちにできないでしょうか。

最後に、掟を守る能力における理性的論理の使用について触れましょう。私たちが知っているように、罪とは、自発的に天主の法に背くことです。もし天主の法を守ることが不可能であれば、私たちは罪を犯すこともできません。なぜなら、法に背くのは、自発的にではなく、必要に迫られてのことだからです。あるいは、天主は罪の創造者であると言うこともできます。なぜなら、天主は、いくら誠意を尽くしても守ることのできない掟をお与えになったからです。いったい誰にそんな冒涜を言う勇気があるというのでしょうか。もし天主の法を守ることが不可能であれば、天主には誰をも罰する権利はないことになります。仮に、ある王が、臣民に対して、死刑をもって空を飛ぶように法を定めたとしましょう。もし王が、臣民が空を飛ばなかったという理由で死をもって罰するとすれば、その王は最悪の暴君ではないでしょうか。確かに、臣民は、空を飛ぶことに従えないのと同様に、その法に従うことはできません。

守ることが不可能な掟に背いたという理由で、天主が永遠の滅びをもって罰せられるとすれば、私たちは天主について何と言うべきでしょうか! それを前提にすれば、天主の善意と正義はどこにあるのでしょうか。聖人たちは夜中祈り続け、何年もの間、パンと水で生活し、その他多くの禁欲的な苦行を実践し、貧しい人々に全財産を施し、病人の世話をし、霊魂の回心のために絶え間ない熱意をもって働き、キリスト教的徳において、世の称賛を浴びるほどの完徳に達しました。

私たちは、天主の法を熱心に守ろうとしさえすれば、それができますし、天主が命じておられるのですから、また、私たちの救いがそれにかかっているのですから、守らなければなりません。天主は、私たちに重すぎる荷を負わせられることはありません。天主の恩寵の援助によって、私たちは、天主が要求されることを、それほど苦労せずに行うことができます。ならば、忍耐強い熱意をもって掟の道を歩もうと決心してください。このように、厳しい戦いを強いられ、多くの困難に打ち勝たなければならなくなっても、落胆しないでください。人間の生涯は戦いです。「天主は忠実であるから、あなたたちの力以上の試みには遭わせ給わない。あなたたちが試みに耐え、それに打ち勝つ方法をも、ともに備え給うであろう」(コリント前書10章13節)。ですから、天主なる主が命じておられることを行ってください。そうすれば、慰められ、強められ、そのあとで、永遠の幸福という終わりなき喜びに入ることができるでしょう。アーメン。