聖霊降臨後第二十一主日の説教―なぜキリスト教生活に強さが必要なのか(大阪と札幌)
聖霊
聖霊降臨後第二十一主日の説教―なぜキリスト教生活に強さが必要なのか(大阪と札幌)
2025年11月2日 イヴォン・フィルベン神父
聖霊降臨後第二十一主日の説教―なぜキリスト教生活に強さが必要なのか(大阪と札幌)
親愛なる信者の皆さま、
昨日は諸聖人の祝日でした。この日の福音には、「柔和な人は幸いである」という一節がありました。そうです、私たちの主は柔和なお方でしたから、私たちにも柔和になるように求めておられます。しかし、私たちは、そこで立ち止まってはなりません。なぜなら、私たちの主は強いお方、非常に強いお方でもあったからです。
今日の書簡は、諸聖人の祝日の朗読にあった至福八端を補足するものであり、キリスト教生活に必要な強さのことを述べています。
今日私は、次の問いに答えたいと思います。それは、なぜキリスト教生活に強さが必要なのか、そして、その強さはどこに見いだせるのか、ということです。
1)抵抗する強さ
まず、この書簡の時代背景に立ち戻らなければなりません。西暦62年の当時、聖パウロは、ローマの獄中にいて、自分にどんな運命が待ち受けているのか分かっていませんでした。彼は獄中でこの書簡を書いて、エフェゾ地方のキリスト教共同体に送りました。
今日のミサの書簡は、その書簡の一番最後にあり、その中には、最後の助言、結論があります。それは、次の一文に要約できます。「抵抗し、堅く立て」。この短い一節の中で、「堅く立て」という言葉が3回繰り返されています。いったい何に抵抗するのでしょうか。聖パウロはまず、この書簡が何に関するものではないのかについて述べています。「私たちが戦うのは、血肉ではない」(エフェゾ6章12節)。この血肉とは、肉の誘惑とも、迫害といった外的な脅威とも解釈できます。聖パウロは、こういったものが、私たちのおもな敵ではないと述べているのです。もちろん、私たちは不正な迫害者に抵抗するとともに、肉の誘惑に対しても戦わなければなりません。しかし、もっと恐るべき敵がいます。それは、「この世の闇の支配者」である悪魔たちです。これはもっと狡猾な敵であり、何よりもまず信仰の敵です。サタンが自分を「光の天使」に見せかける術(すべ)を知っていることを、私たちは知っています。これは、霊的生活において「善を装う誘惑」と呼ばれています。邪欲に基づく単純な誘惑とは異なり、これは善になりすました誘惑です。サタンは狡猾です。サタンは、人間が善を求め、善のために、したがって天主のために造られたことを知っています。ですから、サタンは悪を偽りの善に偽装し、すべての人を騙そうとするのです。私たちには、サタンに抵抗する強さが必要です。
ミサの儀式を大幅に変更した、典礼改革で起こった事例を取り上げてみましょう。熱心に典礼改革を適用した司祭たちは、必ずしも悪意を持っていたわけではありませんでした。この改革は、ミサをもっと司牧的なものにし、もっと現地の文化に適用させたものにし、もっと宣教的なものにするといった、多くの偽りの理由によって正当化されました。そして、これは、私たちが知っているように、典礼とカトリック信仰の破壊につながりました。
私たちには、私たちの信仰を乱そうとするサタンに抵抗する強さが必要なのです。
2)天主から来る強さ、強さ(剛毅)の賜物
聖パウロが与える最初の助言は、おもに私たち自身ではなく、主に強さを見いだすことです。この箇所は、「主において力を受けよ」(エフェゾ6章10節)という言葉で始まります。
聖パウロはこのことを述べる際に、強さ(剛毅)の賜物について触れています。ご存じのように、洗礼の際、聖霊の七つの賜物によって成聖の恩寵が私たちに与えられますが、その中に強さ(剛毅)の賜物もあります。強さ(剛毅)の賜物とは、まさに主から来る強さのことです。「主において力を受けよ」とは、「強さ(剛毅)の賜物を豊かに受けよ」と言っているのと同じです。
この賜物は、おもに攻撃する強さではなく、安定している強さであり、これによって、私たちは、障害物があっても、自分の義務を果たし続けることができるのです。この賜物は、本質的に言えば、私たちが義務を全うすることを可能にする賜物です。なぜなら、義務とは時として苦痛や単調さがあるものであり、そのため、サタンは何か別の夢を抱かせて私たちの気を散らそうとするからです。私たちにとっては、さらに具体的に言えば、それは教会の聖伝に忠実であり続ける賜物です。私たちは天主にこの賜物を求め、それが増えるように祈らなければなりません。「主よ、われに強さを与え給え」という祈りが、私たちの祈りの一部でなければなりません。
3)信仰の盾から来る強さ
聖パウロは、超自然的な強さ(剛毅)の賜物に続いて、悪魔の誘惑に抵抗する強さを得るための、第二の手段を与えてくれています。それは、盾として用いられる信仰の徳です。「信仰の盾を取れ」(エフェゾ6章16節)。
信仰を盾として用いるとは、どういう意味でしょうか。まず第一に、信仰を前に出すことです。実際、盾はそのために存在します。私たちは、自分が傷を受けないように、自分の前に信仰を掲げます。同様に、信仰を掲げているだけでは十分ではありません。信仰を前に出さなければならないのです。盾を持っていたとしても、それを自分の前に掲げなければ役に立たないことは明らかです。同様に、信仰の徳を持っていても、それをこの世の出来事を理解するために用いなければ、それは役に立たないものです。もし信仰が、週に一度主日にミサに行くときに持ち出す、内なる徳でしかないならば、それは盾として用いられているとは言えません。その反対に、信仰は日々私たちと共にあるべきです。読書や議論などを通して信仰を強めなければならず、信仰を用いて周りの世界を見なければ、すなわち信仰の目を通して物事を見なければなりません。この意味は、出来事に対して人間的に反応するだけでは十分ではなく、例えば「この状況において、私たちの主は私に何をするように求めておられるのだろうか。主はどのように物事を見ておられるのだろうか」と自問する必要があるということです。
そうすれば、信仰は大きな強さの源泉となり、あらゆる状況において私たちを守る盾となるでしょう。
最後に、ローマの軍事技術という時代背景を考えてみましょう。当時の盾は、純粋に個人用の武器ではなく、激しい戦闘で隣人を守るために用いられた武器であり、各人が自分の盾を使って隣人を守りました。信仰の徳についても同様です。信仰の徳は個人的な徳であるだけでなく、教会の構成員と私たちとを結びつける徳なのです。信仰とは、私自身の信仰ではなく、教会の信仰です。だからこそ、私たちの信仰を最も強めるのは、ミサで信経を唱えるときなのです。へりくだって素直に、教会から信仰を受け入れることによって、私たちは強くなるのです。教理の中にある、あの点この点を受け入れられないからという理由で、自分の信仰を個人の意見に変えてしまうたびに、私は強さを失い、誘惑に翻弄されてしまうのです。
親愛なる信者の皆さま、
誘惑は数多くあり、特に善いものに見せかけた誘惑もあります。私たちがそれらに抵抗するには、強さが必要です。聖パウロは、私たちに二つの偉大な強さの源泉を与えてくれています。一つは、天主に増やしてくださるよう祈るべき超自然的な強さ(剛毅)の賜物であり、もう一つは、盾として用いられる徳です。この二つの強さの源泉に頼ることで、私たちは、悪魔のあらゆる誘惑に抵抗することができるでしょう。