聖霊降臨後第二十一の主日の説教―救いに必要な赦し(2024年、大宮と大阪)

ソース: FSSPX Japan

赦されざる家来

聖霊降臨後第二十一の主日の説教―救いに必要な赦し(2024年、大宮と大阪)

2024年10月13日 ブノワ・ワリエ神父

親愛なる兄弟の皆さま、
今日のたとえ話の重要な教えを理解するには、少し説明が必要です。

I.たとえ話の簡単な要約

・家来(「家来A」と呼びます)は、王に莫大な負債(一万タレント)を抱えていました。

一タレントは六千デナリオに相当します。
一デナリオは労働者一人の一日分の賃金に相当します。

一万タレント(すなわち六千万デナリオ)の負債とは、全く返済不能であることを意味します。

・別の家来(「家来B」と呼びます)は、「家来A」に百デナリオの負債を負っていました。
それは小さな負債で、数カ月で返済できるものです。

・「家来B」に対する「家来A」の冷酷さのため、王は、「家来A」に対する負債の免除を取り消し、彼を牢に入れました。

II.たとえ話の意味

・このたとえ話は「天の国のたとえ」であり、私たちの救いについてのものです。
・王とは、(私たちの主が、たとえ話の最後に示しておられるように)父なる天主のことであり、家来とは、私たち全員のことです。私たちは天主にお仕えしているのです。
・「家来たちと貸し借りを清算する」とは、審判のことであり、「家来は王のもとに連れ出された」のです。好むと好まざるとにかかわらず、私たちは、天主から逃れることはできません。それは、アダムとエワ、ヨナなどの人生に見られるようにです。
・王に対する負債とは、罪(原罪と個人の罪)のことを言っています。この莫大な負債は、無限のものです。私たちは、天主に対して根本的に返済不能の状態なのです。
・仲間の家来に対する負債が非常に小さなものだというのは、仲間の人間が引き起こした侮辱や意見対立のことを言っています。
・最初の負債は帳消しにされます。それは、私たちが、私たちの主イエズス・キリストによって贖われたことを意味します。
・しかし、救われるためには、私たちには(特にあわれみの)善業も必要です。

たとえ話の文脈。ペトロは私たちの主に尋ねた。「主よ、兄弟が私に対して罪を犯したら、何度赦さねばなりませんか。七度までですか」。イエズスはペトロに言われた。「…七度までとは言わぬ。七度の七十倍までと言う」(マテオ18章21-22節)。

「天にまします」の祈りの中で、私たちの主は、私たちに、天主に向かってはっきりとこう唱えさせられました。「われらが人に赦すごとく、われらの罪を赦し給え」。
(実際のところ、私たちが天主に負っているものに比べれば、他人が私たちに負っているものは些細なものです。たとえ話によれば、それは、およそ六千億円に対して百万円です)。

・負債の免除は取り消されました。プロテスタントの教えとは逆に、義化(救いの恩寵)は失われることがあり得るのです。
・「刑吏」とは、この拷問と罪の償いの場所が、煉獄あるいは地獄であることを象徴しています。

結論

救いは、私たちが当たり前に受けられるものではありません。
・私たちは天主の家来です。(「人が造られたのは、天主をたたえ、天主を敬い、天主にお仕えするためです」)。
・私たちの罪によって、私たちは、負債が返済不能の家来となりました。
・イエズス・キリストは、私たちの負債を支払ってくださいましたが、私たちが他人の負債も(心からの赦しによって)帳消しにすることを期待しておられます。他人の罪を、何度も何度も思い返すのをやめることが不可欠です。そうでなければ、天主は赦しを取り消され、私たちに負債をことごとく返させられることでしょう。煉獄あるいは地獄でです。
・天主は、正義のお方であると同時に、あわれみ深いお方です。私たちがどのように扱われるかは、基本的には私たち次第です。「悪い家来」は「怒った主人」の目の前に出ます。しかし、あわれみ深く行動する人々は、天主なる主からあわれみを得るのです。
キリエ、エレイソン! 主よ、われらをあわれみ給え! アーメン。