聖霊降臨後第二十四主日(御公現後第四主日)の説教―嵐の中での教皇の義務(2024年、大阪―札幌)

ソース: FSSPX Japan

ペトロの舟

聖霊降臨後第二十四主日(御公現後第四主日)の説教―嵐の中での教皇の義務(2024年、大阪―札幌)

2014年11月3日 ブノワ・ワリエ神父

聖霊降臨後第二十四主日(御公現後第四主日)の説教―嵐の中での教皇の義務

親愛なる兄弟の皆さま、
教会の教父たち、教皇たち、そして聖なる著述家たちは皆、「ペトロの舟」はカトリック教会の象徴だと解釈してきました。

キリストは、カトリック教会の初代教皇を、こう言って選ばれました。「私はこの岩の上に、私の教会を立てよう」(マテオ16章18節)。
教会はキリストのものですが、キリストはこの地上を去られるとき、教会をペトロとその後継者たちに委ねられました。

今日の福音にあるように、キリストは舟の中におられますが、その舟は船長であるペトロによって操られています。

今日は、(特に、信仰と道徳の危機にあるこの時代に)教会を導く教皇(と司教)の責任についてお話ししましょう。

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I.第二バチカン公会議(1962年―1965年)

第二バチカン公会議は「教会の春」であるはずでした。しかし、本当に「ティアラとカッパを身につけた革命」【フリーメーソンの文書にある言葉。教皇による革命のこと】になってしまったのです。

II.オッタヴィアーニ枢機卿の書簡(1966年7月24日付)

《公会議閉会からわずか8カ月後、教会の主要な信仰の守護者である教理省長官は、司教たちへの極秘調査で、警鐘を鳴らしました。以下は、その主な抜粋です》。

濫用が増加しているという悲しいニュース、非常に多くの数の理論が、信仰の土台だけでなく、教義そのものに影響を与えているようにみえます…。

●聖書の霊感と無誤性の範囲と力を減じる人々がいます。
●教義の定式文は歴史的な進化をし得るものであり、それらの客観的な意味自体が変更され得ると主張されています。
●教会の通常教導権、特にローマ教皇の通常教導権が、時に無視され、過小評価され、自由意見の領域に降格させられています。
●客観的かつ絶対的な、確固とした不動の真理が、あらゆるものを一種の相対主義の対象としている人々によって、認められなくなりつつあります。
●キリストが単なる人間の状態に矮小化され、キリストはご自分が天主の御子であることを徐々に意識するようになったと主張されています。キリストの奇跡的な受胎、奇跡、そして復活さえも、言葉の上では認めるものの実際には認めず、純粋な自然の秩序に矮小化されています。
●至聖なる聖体。彼らの話を聞くと、あたかもパンとぶどう酒が、全実体変化によって私たちの主イエズス・キリストの御体と御血に変わったのではなく、単に特定の意味を持つものへと移行しただけのように見えます。また、ミサの「アガペー」(食事)の概念を非合理にまで押し進めて、それをいけにえの概念よりも優先させる人々もいます。
●彼らは、悔悛の秘跡の執行には個人的な罪の告白は必要ないと主張しています。
●(…)性的な問題や夫婦間の問題における道徳と責任について、有害な見解が提案されています。
●エキュメニズム。彼らは危険な平和主義と宗教無関心主義を支持しています。

III.ルフェーブル大司教の回答(1966年12月20日付)

《オッタヴィアーニ枢機卿は、司教たちに対して、教区の状況を自分に回答して知らせるよう求めていました。以下は、ルフェーブル大司教の回答です》。

今日、大きな精神的混乱が支配しています…。
秘跡、特に悔悛の秘跡について、熱心さと規則正しさが減少しています。ご聖体に対する敬意が、特に司祭の間で、大きく減少しています。司祭の召命も低下しています…。定期刊行物や雑誌も最先端の理論を広めています。

現在の問題は、私たちの信仰の真理を否定したり疑ったりすることよりも、はるかに重大であるように私には思われます。それは今日、教会や修道団体、神学校、カトリック学校の崩壊、一言で言えば、教会の不変の支えであったものすべての崩壊によって、極端な思想の混乱として現れているのです。

(これらは、第二バチカン公会議が閉会した直後の、具体的で直接的な実りです。)

カトリックのグループが、自らこうした神話(誤謬)に引き込まれるのを許した時はいつも、《教皇たちは勇敢にも彼らを一致に引き戻し、彼らを照らし、必要であれば彼らを断罪してきました》。カトリック自由主義はピオ九世に断罪され、近代主義はレオ十三世に断罪され、「シヨン運動」は聖ピオ十世に断罪され、共産主義はピオ十一世に断罪され、新近代主義はピオ十二世によって断罪されました。この《称賛すべき警戒心》のおかげで、教会はさらに強くなり、発展したのです…。

この公会議が、前述の教皇たちによって断罪された誤謬や傾向を公言する者たちに、自分たちの教理が現在では認可されていると合法的に信じることを許した、と大胆に断言しなければ、事実を否定し、目を閉じることになってしまうでしょう。ほぼ普遍的な方法でこの公会議が革新を導入したとき、公会議は、聖伝の宝に決定的に属するものとしての教会の真正な教導権が教える真理への確信を揺るがしたのです…。信仰、道徳、教会規律、これらは、すべての教皇たちの予言どおり、その根底から揺らいでいます。教会の破壊は急速に進んでいます。
司教協議会に与えられた過大な権威によって、教皇は自らを無力にしてしまいました。ほんの一年で、どれほど多くの痛ましい事例があることでしょうか!

しかしそれでも、《ペトロ》の後継者、《彼だけが》、教会を救うことができるのです。
教皇に、《自らの周りを》力強い信仰の擁護者たちで《囲み》、彼らを重要な教区に任命していただきましょう。教皇に、《真理を重要な文書で宣言して》いただき、反対を恐れず、離教を恐れず、公会議の司牧的心構えに疑いを投げかけるのを恐れず、《誤謬を追及して》いただきましょう。
教皇が、司教たちを、善き牧者にふさわしく、信仰と道徳を個々に正すよう《励まし》てくださいますように。勇気ある司教たちを《励まして》、神学校を改革して聖トマスに基づく勉強を再興するようにさせてくださいますように。総長たちを、その修練院や共同体で、すべてのキリスト教的禁欲主義の基本原則、特に従順を維持するよう励ましてくださいますように。また、カトリック学校、教義的に健全な出版物、キリスト教的家庭連合の発展を励ましてくださいますように。最後にまた、《誤謬を扇動する者たちを抑圧し》、沈黙させてくださいますように。
水曜日の講話は、回勅、命令、司教宛ての書簡などの代わりにはなり得ません。

IV.ロンバルド神学校でのパウロ六世の演説(1968年12月7日)

《それから2年後、状況はますます悪化していました。ここに、悲しい現実を強く認識していた教皇パウロ六世の興味深い演説があります。彼はまた、この危機的状況において、自分が何をするつもりなのかを述べています》。

教会は今日、落ち着かない時期を過ごしています。ある者たちは自己批判を行なっており、それは、自己破壊とさえ言えるでしょう。それは、誰も公会議後に予想しなかったような、突然の複雑な内的混乱のようなものです。公会議のすばらしい立法過程において成熟した概念が開花し、穏やかに拡大すると思われていたことでしょう。
教会に影響を与え、当然特に教皇に影響を与えるこの混乱を前にして、皆さんに、私の霊魂の底を読み取っていただき、私の心の中にある二つの感情を垣間見ていただきたいと思います。イエズスの御名のために苦しみを受けるにふさわしい者とされた喜びの感情…。そして、大きな確信と信頼の感情です。
《大変多くの人が、教皇からの鳴り響くような態度、活力ある断固とした介入を期待しています》。教皇は、教会が誰よりも大切に思っているイエズス・キリストへの信頼以外に、自分が従うべき道はないと感じています。イエズス・キリストが、嵐を鎮めるその人です。主は、いったい何回、「天主を信頼せよ。天主を信じ、私を信じよ!」と繰り返されたことでしょうか。教皇は、率先してこの主の命令を実行し、あいまいさや不適切な不安を抱くことなく、教会に対するイエズスの目に見えない、しかし最も確実な援助という神秘的な働きに、自らの身を委ねるのです。

V.教会権威者のあきらめ

教会の船長(当時の教皇パウロ六世)の対応はどのようなものだったでしょうか。
1)教会のために苦しむことと、2)天主を信頼することでした。
しかし、家族が中にいる自分の家を燃えるがままにさせ、天主の摂理だけを頼りにして、真剣に火を止めようとせず、家族を救出しようとしない父親を、皆さまはどう思われますか。
重大な怠慢です! 犯罪とも言える不注意です!
教皇と司教たちは、船(ペトロの舟、教会)を見捨ててしまったのです…。
でも、キリストはペトロにこう言われました。「私の小羊を牧せよ! 私の羊を牧せよ!」(ヨハネ21章)。
そして、ペトロの否認と臆病さを予見して、キリストはペトロに、こうも言われました。「私はあなたのために、信仰がなくならぬようにと祈った。あなたは心を取り戻し、兄弟たちの心を固めよ」(ルカ22章31-32節)。

結論

教会の舟に大きな嵐が来ています。
「位階階級上層部による深刻な司牧上の怠慢」(ファチマの専門家、アロンソ神父)。

聖アンブロジウスはこう言いました。「教会は月のようなもので、欠けることはあっても、決して滅びることはない。闇に覆われることはあっても、決して消えることはあり得ない」。
聖アンセルムスは、教会の舟は波にさらわれるかもしれないが、キリストがそこにおられるのだから沈むことはあり得ない、と言いました。

非常に自由主義的かつ近代主義的な次期枢機卿たちは、憂慮すべき人々です。間違いなく、私たちの主イエズス・キリストは、教会の権威者らを厳しく裁かれるでしょう。
しかし、私たちもまた裁かれるのです。ですから私たちは、キリストとキリストの教会に揺るぎなく忠実であり続け、家庭や職場で自分の身分に応じた義務を果たし、大いなる寛大さをもって、自らを聖化する必要があります。
キリスト信者の助けなる聖母、われらのために祈り給え!