聖霊降臨後第二十三主日の説教―善きキリスト教徒とは何か(大宮と大阪)
城壁外の聖パウロ大聖堂
聖霊降臨後第二十三主日の説教―善きキリスト教徒とは何か(大宮と大阪)
2025年11月16日 イヴォン・フィルベン神父
聖霊降臨後第二十三主日の説教―善きキリスト教徒とは何か
親愛なる信者の皆さま、
典礼暦年の終わりが近づいています。教会は私たちに、審判の見通しを示しています。私たち一人一人には、二つの審判があります。一つは、私たちの霊魂の審判である私審判です。もう一つは、世の終わりに起こる公審判であり、この地上に生きた全人類が、霊魂および肉体とともに復活して審判を受けます。
私たちは、この視点を忘れてはなりません。待降節前のいくつかの主日の典礼は、この視点を私たちに思い起こさせてくれます。この審判が、教会の構成員と、教会に反対した人々、つまり私たちの主イエズス・キリストの統治に抵抗した人々とを区別することになることを、私たちは知っています。しかし、この審判は、善きキリスト教徒、つまりキリストの体であるカトリック教会に属し、成聖の恩寵の状態にある人々と、キリストの体に属していながらも成聖の恩寵の状態にはない人々とを区別することにもなるのです。人が救われるためには、カトリックのキリスト教徒でなければなりません。それは当然のことですが、同時に善きキリスト教徒でもなければならないのです。聖パウロは、今日の書簡の中で、この点を強調しています。この説教では、人が救われるためには、キリスト教徒であるだけでなく、善きキリスト教徒でもなければならないことを説明したいと思います。善きキリスト教徒とは、いったい何なのでしょうか。
1)キリストの十字架の敵、この世的なキリスト教徒
この書簡の中で、聖パウロは、いつもとは違って、かなり感情的な言葉遣いをしています。フィリッピの信者たちは、「私の喜びと栄冠」(4章1節)と呼ばれています。聖パウロは、フィリッピのキリスト教徒たちと深い友情で結ばれていました。聖パウロは彼らを深く愛しており、個人的に知っていましたから、この状況を悲しんで、涙を流すのです。「私がしばしば話し、今また涙とともに訴える」(3章18節)。なぜ彼はこのように泣くのでしょうか。「多くの人はキリストの十字架に敵として歩んでいる。(…)彼らの行く先は滅びである」(同章18-19節)。ここで聖パウロが語っているのは、異教徒のことではなく、悪しきキリスト教徒のことです。
聖パウロは、愛するフィリッピの信者たちの中に多くの悪しきキリスト教徒がいることを、深い悲しみをもって指摘しています。ですから、この現象は新しいものではなく、初期のキリスト教徒の時代にすでに存在していたのです。私たちは次のことを、カテキズムの教えから知っています。つまり、人は洗礼を受けるだけで救われるのではなく、洗礼の際に受けた成聖の恩寵の状態を、生涯にわたって保たなければなりません。カトリック教会は救いの箱舟であり、救われるためには教会の一部であることが必要です。これは必要条件ですが、十分条件ではありません。なぜなら、教会は、良い魚でも悪い魚でも、あらゆる魚を捕らえる網にも例えられるからです。審判の時に私たちを選別するのは天主だけであり、天主は今そうしてはおられませんが、私たちの死と私審判を待っておられるのです。しかし、選別は必ず行われます。そのことを確信しておきましょう。
しかし、どうすれば善きキリスト教徒になれるのでしょうか。善きキリスト教徒の特徴を二つ挙げたいと思います。一つはこのミサの書簡から、もう一つは最近の出来事から取り上げたものです。
2)天国のことを忘れる
この書簡の中で、聖パウロは、私たちが善きキリスト教徒としてどのように生きるべきかを理解するのに役立つ、一つの例えを用いています。この例えは、市民権という、当時の政治的背景に属するものです。この観点から見ると、ギリシャにあったフィリッピという町は、非常に特別な地位を持つ町でした。そこはローマの植民都市、つまりローマ軍の退役軍人に土地が割り当てられた町だったのです。ローマ軍に25年間従軍すれば、ローマは生き残った軍人たちに土地を与えるとともに、ローマ市民権を所有していなければそれを与えました。ですから、その元軍人たちは、「植民市」(colonia)と呼ばれる町で、家族と共に一種の引退生活を送ることができました。フィリッピは、これらの町の一つであり、これらの元軍人たちとその子孫は、この町のエリート層を形成していました。彼らはそこに住んではいたものの、彼らが一度も訪れたことのない町、彼らが一度も見たことのない皇帝が住む町である、ローマの市民だったのです。市民権によって、彼らは自分が住んでいる町とは別の町に属していました。フィリッピの住民である彼らは、実際にはローマの市民であり、彼らの本当の町はローマだったのです。
聖パウロは、善きキリスト教徒の生き方について、こう教えています。「私たちの国籍は天にある」(3章20節)。これは、住んでいる国を愛さないとか、国を守ったり国に奉仕したりしてはいけないという意味ではなく、人生の目標はこの世にはないという意味です。フィリッピの住民が、一度もローマの町に行ったことがないにもかかわらず、ローマの町に属していたように、キリスト教徒は何よりもまず天の町、つまり天国に属しています。キリスト教徒は一度もそこに行ったことはありませんが、キリスト教徒が属しているのはこの天の町であり、キリスト教徒にアイデンティティと人生の意味を与えてくれるのはこの天の町なのです。
キリスト教徒の中には、この天の町に属していることを忘れているせいで、自らに滅びを宣告している人々がいます。聖パウロは、悪しきキリスト教徒は「この世のことだけにしか興味を持たない」(3章19節)と述べています。聖パウロは、私たちにこの世への関心をなくすように求めているのではなく、私たち皆が直面する危険、すなわち天国のことを忘れるという危険のことを警告しているのです。もし私たちが天国のことを忘れるなら、大罪に陥って、成聖の恩寵の状態を失い、ひいては自らに滅びの宣告をするという、極めて深刻な危険にさらされることになります。
3)童貞聖マリア
善きキリスト教徒になる第二の不可欠な要素は、童貞聖マリアへの愛です。明確にしておきましょう。童貞聖マリアに頼らずしてキリスト教徒になることはできません。私たちの主は、私たちのために獲得してくださった贖いのすべての恩寵を、御母マリアを通して与えようと望まれました。童貞聖マリアへの信心は、選択肢になるものではなく、キリスト教信仰に欠かせない部分なのです。プロテスタントの人々のように、童貞聖マリアのこの地位を否定する人々がいますが、これは非常に深刻な問題です。しかし、教会の内部でさえも、童貞聖マリアの「共贖者」という称号を否定することで、この地位を相対化する人々がいるのです。教理省がこの称号の使用を制限し、さらには禁止さえしようとする、つまずきを与える文書を発表したことを、皆さまもお聞きになったことでしょう。この文書は、カトリック信仰と童貞聖マリアの偉大さに対する攻撃です。このため、聖ピオ十世会の管区長たちは、今日の主日の各ミサの後に、童貞聖マリアに対してなされた侮辱の償いとして、聖母の連祷とスターバト・マーテルを祈るよう私たちに求めています。
親愛なる信者の皆さま、フィリッピには悪しきキリスト教徒たちがいました。そして、少なくともバチカンには、今日でもなおいるようです。彼らのために祈りましょう。しかし、私たちも自分が悪しきキリスト教徒かどうかを調べ、自分自身のためにも祈りましょう。私たちは、この世に従って生きるのではなく、天国という目的地に従って生きるために、天国について考えているでしょうか。私たちは童貞聖マリアをお愛ししているでしょうか、贖いのみわざにおける聖母の欠かせない役割を認識しているでしょうか。審判者である天主の御前に出る日のために、これらのことを自問しておきましょう。