聖霊降臨はたった一度のことではありません。私たちはどのようにすれば聖霊を受けることができるのでしょうか?

ソース: FSSPX Japan

2021年5月23日  聖霊降臨の大祝日

トマス小野田圭志神父  テレワーク式の説教

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日は2021523日、聖霊降臨の主日です。聖霊降臨の黙想をいたしましょう。

 

1:聖霊降臨の日に起こったこと

使徒たちは聖母と共に、聖霊降臨を準備して静かにしかし熱心に祈っていました。聖母の熱烈な祈りに支えられて、使徒たちも祈りました。天使たちは、これらの謙遜な祈りを天にまで運びます。

使徒たちは人間的に見れば全く無力でした。彼らをつぶしてしまおうと言う無数の敵に囲まれていました。しかし、三位一体は、使徒たちの祈りと懇願に、特に聖母と共になされた祈りに耳を傾けていました。使徒たちの祈りとは対照的に、彼らの家の外では、いろいろな言語を話す多くの人々がエルサレムに来ていて騒いでいました。

すると、週の最初の日、光が創られた創造の最初の日、同時にイエズス・キリストが死者の中から復活した日である主日(日曜日)に、「突然、天から、烈しい風が吹いてくるような音が聞えて」家がガタガタと揺り動かされたようになります。突然「火のような舌があらわれ、分れて、おのおのの上にとどまり」ます。

この瞬間、使徒たちは新しい人間となりました。無知や臆病がなくなり、恐れてしめ切っていた扉を開けて、イエズス・キリストを説教しだします。使徒たちの変わりようには、驚くものがあります。教会をたてて、信仰の光でこの世を照らすための道具として、使徒たちはまったく変わってしまいました。

旧約の過ぎ越しの小羊をささげた後、イスラエルの民は紅海を渡り、7週間を荒れ地で過ごします。50日目には、モーゼを通して十戒の石板が与えられました。

新約の過ぎ越しである十字架のいけにえが、全人類の贖いのためであったように、新約の50日目が、全人類のために起こりました。冷たい石板ではなく、愛の霊が私たちの心に与えられました。

第一の「50日目」は、アラビアの荒れ野で、雷と稲妻の中でのことでした。

第二の「50日目」は、エルサレムで、天主の愛の火とともに起こったことでした。主もこう言いました。「私は地上に火をもって来た。その火がもうすでにつけられているだろうと、私はどんなにかのぞみをかけている」。

聖霊降臨の主日には、聖霊を受けた使徒たちは、世間体や恐れをすっかり捨て去ってしまいました。彼らは、ひたすら天主の栄光を求め、真理をもとめ、霊魂の救いをひたすら求めていました。主の十字架を信頼し、聖霊に支えられ、大胆に信仰を宣言します。

使徒の代表である聖ペトロの言葉を聞きましょう。

「イスラエルの人々よ、ききなさい。あなたたちの知っているとおり、天主はイエズスによって、あなたたちの中で奇跡と不思議としるしをおこない、それによって、ナザレト人のイエズスを、あなたたちの前で証認されました。あなたたちは、かれを、悪人の手によって、はりつけにして、殺したのです。しかし、天主は、死の束縛を解いて、かれをよみがえらせになりました。私たちはみな、そのことの証明者です。したがって、イスラエルのすべての人は、あなたたちが十字架にかけたそのイエズスを、天主が主とし、キリストとされたことを、しかと知らねばなりません」(使徒行録222233236)。

人々は尋ねます「私たちはどうすればよいのですか?」と。

ペトロは答えます。「くいあらためなさい、おのおの罪のゆるしを受けるために、イエズス・キリストのみ名によって洗礼を受けなさい」。そのことばを聞きいれた人々の三千人くらいが洗礼をうけました。

 

2:聖霊

私たち人間にとって、存在の根底から揺り動かされるような大事件がいくつかあります。そのうちの二つは、とても有名です。私たちは何度も黙想してきました。ドン・ゲランジェによると人類の大事件はさらに二つ、合計四つあるといいます。

第一は、人間が無から有るへと創造されたことです。まったく何もない無であった私たちが、天主の永遠の幸せを受けるために、天主によって有らしめられ始めたことです。無から有へ、無いから有るへの大変化です。これは、いわば、私たち人間が天主から出てきたことです。

第二は、天主の御一人子が、御托身の玄義(神秘)によって、御自分のペルソナにおいて、天主の本性と人間の本性とを合体させたことです。人間の本性は、キリストにおいて、天主の本性に参与するまで高められました。これによって天主には一切の変化は起こりませんでした。しかし人間の本性には無限への変化が起こりました。前回「われらを御自分の神性にあずからせるために」というとてつもないことを黙想しましたが、まさにそれです。私たち惨めな人間を天主の本性と一致させる、何というとてつもない・偉大な・畏れ多い・想像を絶する大事業でしょうか!

主はこう言われました。「天主はおん独り子をお与えになるほど、この世を愛された。それは、かれを信じる人々がみな亡びることなく、永遠の命をうけるためである」。これは、いわば、私たち人間が天主へと戻り、天主と一致する唯一の道・真理が与えられ、示されたことです。

第三は、聖霊降臨です。天主聖霊が私たちに与えられたことです。聖霊が与えられたこと、これは、いわば、私たち人間が天主を愛することによって天主へと戻ることです。

第四は、イエズス・キリストが生ける人と死せる人とを裁くために再び来られ、この世の終わりと公審判が行われ、私たちの永遠が絶対的に決定する時です。これは、いわば、天主から生まれた私たちが天主のもとに決定的に戻ってそれを永遠に楽しむことです。

さて、聖霊は、今日の続唱でもある通り、altissimi donum Dei と言われ、いと高き天主の賜物(贈り物)です。高貴な方から賜る「贈り物」を、特に「賜物」と言います。聖霊はモノではありませんが、私たちは天主から「賜(たまわ)って受けるなにか」なので「賜物」「贈り物」という言葉を使っています。

さて、与え主は、贈り物を所有している限り与えることができます。つまり自分のものだけを与えることができます。与えるとは、所有者が変化することです。与え主から受領者の所有になるとき「与える」と言います。自分のものとして自由に使い楽しむことができることを「所有する」と言います。「贈り物」とは、返却を意図せずに、無償で、与えられるものです。何故、無償で与えるかというと、その理由は愛です。相手の善と幸福を願って、何かを与えるからです。私たちが相手に良かれと思って与える最初のものは、愛だからです。この最初の贈り物である無償の愛によって、私たちはいろいろなモノを贈るのです。

この意味で、聖霊は、愛として発出し、人間に「賜物」として「贈り物」として、与えられました。何故なら、聖霊は、御父と御子とを起源とするので御父と御子に属しているから、御父と御子とは与えることができるからです。愛である聖霊は、理性をもつ人間に賜物として与えられました。聖トマス・アクィナスは、ペルソナに関して言えば、「賜物」「贈り物」とは、聖霊の固有名詞だと言っています。私がトマス小野田という固有名詞を持っているように、聖霊の固有名詞が「賜物」「贈り物」だ、と。

聖霊については、御父が聖霊を「御子の名によって」おつかわしになるとも言われ、御子が聖霊を御父からおくる、とも言われます。(聖ヨハネの福音にはこうあります。「弁護者、すなわち父が私の名によっておつかわしになる聖霊が、すべてを教え、あなたたちの心に私の話したことをみな思い出させてくださるだろう」。「私が父からあなたたちにおくる弁護者、父から出る真理の霊が来るとき、それが私について証明するであろう」。)

聖霊は、御父の霊であり、同時に御子の霊でもあります。御父がおつかわしになり、御子もおつかわしになります。何故なら、御父と御子とから、これを唯一の原理として、聖霊が発出するからです。御父は、永遠にみ言葉を宿し、御子として生みます。時が満ちると、御父は御子を私たち人間に与えました。御父と御子とは、永遠に聖霊を発出し、時が満ちると、御父と御父の右に座し給う御子とは聖霊を私たちに愛の原理として与えます。

人間は単なる機械ではありません。単なる動物でもありません。理性的な動物であって、真理なる天主を知的に知り、善なる天主を意志で愛し、天主の御旨を行う存在です。賜物である聖霊を受けて、愛に生きる存在です。ドン・ゲランジェは、「天主はおん独り子をお与えになるほど、この世を愛された。それは、かれを信じる人々がみな亡びることなく、永遠の命をうけるためである」と言われたイエズス・キリストの言葉をまねて、私たちはこう言うこともできると言います。「天主御父と御子とは、聖霊をお与えになるほどこの世を愛された」と。

 

3:聖霊を受ける

聖霊が与えられたのは、約2000年前のことだけではありません。私たち一人ひとりは、この愛の賜物を受けるように招かれています。

では、私たちはどのようにすれば聖霊を受けることができるのでしょうか?イエズス・キリストはたった一つをお求めになりました。主を愛して、み言葉を守ることです。それが今日の福音です。

「私を愛する人は私の言葉を守る。また父もその人を愛される。そして私たちはその人のところに行って、そこに住む」

天主三位一体は、私たちの霊魂に住まわれ、私たちの霊魂は天国のようになります。御父と御子と聖霊とは、私たちを愛したまい、私たちも三位一体を愛します。主はさらにこう言われます。「心配することはない、おそれることはない」。

 

4:遷善の決心

愛する兄弟姉妹の皆様、現代世界はイエズス・キリストへの信仰の無い世界を作ろうとしています。テレビもマスコミも、イエズス・キリストの十字架を無くしてしまおうと、今はやりの言葉でいえばキャンセルしようとしています。しかし、天主の愛は人間の憎しみよりも、遥かに強いものです。

2000年前の聖霊降臨がそうであったように、カトリック教会が2000年間そうであったように、イエズス・キリストの十字架と聖霊の愛の力をだれも消し去ることはできません。廃墟の中から、主の十字架は発見され、教会は再び生き生きと活動し始めます。

イエズス・キリストを愛し、そのみ言葉を守りましょう。主を愛し、聖霊をますます受けることができるように、聖母に祈りましょう。ファチマの聖母に祈りましょう。秋田の聖母に祈りましょう。

聖霊来り給え、信者の心に満ち給え!

「さて、五旬祭の日が来て、かれらがみないっしょに集まっていると、突然、天から、烈しい風が吹いてくるような音が聞えて、かれらが座っていた家にみち、火のような舌があらわれ、分れて、おのおのの上にとどまった。すると、かれらはみな、聖霊にみたされた」。