聖家族の祝日の説教―歴史と意味(2025年、大宮と大阪)

ソース: FSSPX Japan

聖家族

聖家族の祝日の説教―歴史と意味(2025年、大宮と大阪)

2025年1月12日 ブノワ・ワリエ神父

聖家族 その歴史と意味

親愛なる兄弟の皆さま、
今日、私たちは聖家族の祝日をお祝いしています。この祝日が制定されたのは、かなり最近のことですが、その信心は中世にまでさかのぼります。

この信心の歴史

神学者ジャン・ジェルソン(1363-1429年)は、聖ヨゼフへの信心を広めました。天主に任命されたイエズスとマリアの守護者は、預言者エレミアや洗者聖ヨハネのように、母親の胎内で聖化されたため、若くて元気で、小罪さえもなかったと、ジェルソンは教えました。

その結果として、ジェルソンは、聖家族への信心も広めました。この努力には、シエナの聖ベルナルディーノ(1380-1444年)が協力しました。彼はおそらく、イエズスの地上での家族を指す言葉として、「聖家族」を用いた最初の人物でしょう。

対抗宗教改革の時期には、ロヨラのイグナチオ、アヴィラのテレジア、フランソワ・ド・サールといった聖人たちが、この信心を奨励するのに貢献しました。

17世紀には、いわゆるフランス霊性学派が、現在知られている信心の特徴のほとんどを形成するのに貢献しました。たとえば、内的生活への入り口として聖家族の隠された生活に焦点を当てること、想像力を通して聖家族の細部にまで「入り込む」こと、聖家族が忠実に守っていたユダヤの伝統を尊重すること、聖家族の各人を特定の徳の教師として崇敬することです。

典礼において

1665年に、フランス領カナダで、聖家族をたたえるミサが作られて導入されました。

19世紀には、教皇レオ十三世が、聖家族の崇拝を、工業化された世界で家族を患わせている問題の解毒剤と考えました。レオ十三世は、一方で資本家の雇用主が労働者の霊魂の善を念頭に置かず、家庭や家族のことをないがしろにするのを助長するのではないかと懸念しました。他方で、社会主義者が親を国家に置き換えれば、「自然的正義に反し、家庭の構造を破壊する」と見ていました。

こうした破壊的な傾向に対抗するため、教皇は1893年、希望する教区のために、聖家族の祝日を制定して、御公現後第三主日に定めました。教皇は、ミサと聖務日課の一部を自ら作成し、その中には、聖家族において、父親、母親、子供、労働者、貧しい人々、そして王族に至るまで、すべての人のための教えがあることを示す賛歌もありました。

教皇ベネディクト十五世は、聖家族への信心が家族と社会の刷新につながるというレオ十三世の確信を共有しました。第一次世界大戦後の1921年、教皇は聖家族の祝日を普遍的な暦に組み入れ、御公現の八日間内の主日に割り当てました。言い換えれば、普遍教会のレベルでは、この祝日はちょうど1世紀前から行われているのです。

この祝日の意味

聖家族の祝日は、その内容においても配置においても、前に述べた信心の意味と目的をすべて取り入れています。

内容においては、ミサは、聖家族の生活をさまざまに垣間見せてくれ、その中には、「詩篇、賛歌、霊の歌によって互いに教え、戒めよ」(書簡)、神殿でのイエズスの発見(福音)、イエズスの奉献(奉献誦)といった聖家族の隠された生活もあります。一方、ミサの固有文の祈りは、聖務日課の賛歌や朗読とともに、家庭生活の模範であり、すべての家族のための力強い取り次ぎ者としての聖家族を描いています。

配置においては、この祝日は、御公現後の主日に当たるため、御降誕の祝日からちょうどよい程度に離れています。この祝日は、信者が聖家族の初期の生活、つまりキリストの御降誕(12月25日)、エジプトへの逃避(12月28日)、神殿での奉献(御降誕後の主日)、御割礼(1月1日)、聖なる御名の命名(1月2日)、そして東の国の三博士の訪問(1月6日)を見ることができるのに十分離れています。聖家族に関するこれらの基本的な出来事により、ナザレトで共に過ごした静かな歳月についての舞台が整えられ、私たちはその歳月の中に想像力を豊かにして入っていくことができるようになるのです。

一方、この祝日は、御降誕の祝日から離れすぎてはいません。聖ヨゼフの死後に起こる聖書の出来事、つまり私たちの主の洗礼の記念(1月13日)と、典礼上のカナの婚礼(御公現後第二主日)の前にあります。

結論

親愛なる兄弟の皆さま、
私は、家族という制度が今日、大きな試練に直面していると言っていますが、新しいことを教えているわけではありません。

聖伝のカトリック信者も、利己主義や個人主義という災いを免れることはできません。家族よりも仕事の方が大事だったり、誰もが家庭での親しい相手よりもスマートフォンや「フォロワー」を好むせいで、親子の間で分かち合いや、対話、くつろぎがほとんどなかったりするのであれば、それは家族が深刻な危険にさらされているのです。子どもたちの教育や信仰も危険にさらされています。また、道徳的に言えば、個人の不潔な罪が「一人で犯す罪」と呼ばれるのには、きちんとした理由があります。真の友情の絆がなければ、どこか他のところに慰めを求めるものです。

この歪んだ社会で生き延びて、聖化されるためには、カトリック的な良き家庭生活が不可欠です。親には果たすべき大きな責任があります。奇跡によっては、あるいは主日のミサにあずかるだけでは、皆さまの家族は本物のカトリック的なものにはなりません。それだけでは足りません。

ナザレトの聖家族が、私たちが大切にしてまねるべき、この完全な模範でありますように。アーメン。