聖家族の祝日の説教―福音について(2026年、大宮)

ソース: FSSPX Japan

聖家族

聖家族の祝日の説教―福音について(2026年、大宮)

2026年1月11日 ブノワ・ワリエ神父

聖家族の祝日の説教―福音について(2026年、大宮)

親愛なる兄弟の皆さま、

さきほど私たちが聞いた福音は、ナザレトの聖家族の心そのものを明らかにしています。それは、喜び、心配、誤解を抱えながらも、従順、謙遜、そして天主を第一とする愛によって聖化された真の家族です。教父たちや偉大な霊的作家たちが私たちに伝えている観想による照らしを受けて、この福音を黙想しましょう。

1.捜し求めるという心配:苦しみながら天主を求める家族

マリアとヨゼフは「大変心配して」三日の間、イエズスを捜し求めました。この悲しみは偶然のものではありません。聖家族が理想化された肖像ではなく、私たちと同じような現実の家族であることを示しているのです。

聖アルフォンソ・リグオリは、マリアの心配の中に、マリアが御子の将来の御受難にあずかるという予感を見ています。マリアはすでに、ご自分の心にシメオンが預言した剣を担っておられます。聖ヨハネ・クリゾストモスと聖アンブロシウスは、苦しみの中で捜し求めることこそが、すべてのキリスト教徒の家族の道であることを私たちに思い起こさせてくれます。罪や気が散ったり、試練に遭ったりしてイエズスを見失ったとき、私たちは、天主の家、神殿、すなわち教会と祈りから始めて、同じ忍耐をもってイエズスを捜し求めなければなりません。

聖家族が私たちに教えてくれるのは、真の愛とは捜し求めるという心配を通り抜けるものだということです。この熱心に捜し求めることがなければ、喜びに満ちた発見はあり得ないのです。

2.イエズスのお答え:父のことを第一とする

イエズスは、こう答えられます。「私が父のことに従事すべきだと知らなかったのですか」。

聖アウグスティヌスは、明白なことを指摘しています。つまり、この言葉は、十二歳のイエズスが天主としての意識をもっておられたことを明らかにしているのです。聖アンブロシウスとオリゲネスは、この言葉において、あらゆる人間の絆、たとえそれが最も神聖なものであっても、天の御父の御旨の方を優先するという、穏やかながらも確固とした宣言を見ています。尊者聖ベーダは、イエズスはここで、私たちに対してあらゆる召命の模範を示しておられると付け加えています。つまり、天主がお呼びになれば、私たちは、たとえ私たちを愛してくれる人々を犠牲にしても、それにお応えしなければならない、ということです。

しかし、またこれは不思議なことですが、イエズスは神殿に留まられません。ナザレトに戻り、「彼らに従っておられた」。聖アンブロシウスは、こう述べています。「天主の御子はヨゼフとマリアに服従される。だから、われらも両親に服従することを学ぼう」。フルトン・シーン司教は、ナザレトのことを「従順の学校」と呼びました。御托身になった天主であるイエズスが三十年の間、そこで沈黙と日々の労働を通して服従することで、アダムの不従順を償われたからです。

聖家族は私たちに、見事なバランスを教えてくれます。天主を絶対的に優先しつつ、謙虚な従順さをもって、人間の現実と家族の現実を生きていくということです。

3.ナザレトの隠された生活:謙遜と恵みにおける成長の模範

福音は、簡潔にこう締めくくります。「そしてイエズスは、天主と人の前に、その知恵も背丈と恵みもますます増していかれるのだった」。

アレクサンドリアの聖キュリロスと聖ヨハネ・クリゾストモスは、この成長はイエズスの人性に関するものだと説明しています。イエズスは、本質は天主でありながら、貧しく勤勉な家族の子供として本当に成長されるのです。リジューの聖テレジアは、その詩「マリアよ、なぜわれ御身を愛し奉るか」の中で、聖母の隠された徳を、驚きをもって観想しています。
「われ知れり、聖寵充ち満てるマリア、ナザレトにて、
御身は極度の貧困のうちに生き、それ以上何も望み給わず。
歓喜も奇跡も、まばゆいばかりの恍惚も
御身の人生を飾ることなし、選ばれし者の元后よ!
マリアよ、小さき者や弱き者の数は実に多し、
彼ら、恐れずして御身を模範とするを得たり。
御身の喜ばれし聖なる謙遜において。」

聖ルイ=マリー・グリニョン・ド・モンフォールは、自分のロザリオの祈りの、神殿での発見の玄義で、「ナザレトの家における(イエズスの)隠された、労苦に満ちた、従順な生活」をたたえるよう、私たちを招いています。彼にとっては、この三十年にわたるマリアとヨゼフへの服従こそが、キリスト教的奉献の核心なのです。

真の聖性とは、外面的な素晴らしさではなく、日々謙遜であること、忠実に労働すること、小さなことに愛を込めて従順であることで測られるものだということを、聖家族は明らかにしています。


親愛なる兄弟の皆さま、
聖家族は、到達不可能な理想ではありません。それは、私たちそれぞれの家族に提案されている具体的な道なのです。
―イエズスを見失っても、忍耐をもって捜し求めること。
―たとえ私たちが犠牲を払うとしても、イエズスを第一とすること。
―キリストの公生活の歳月を優先することを理由に、ナザレトでの隠された歳月を拒んだりしないこと。言い換えれば、隠された謙遜、聖化された労働、そして喜びに満ちた従順こそが、あらゆる活動的なキリスト教徒の生活に不可欠な土台だということです。

今日、イエズス、マリア、ヨゼフに祈り求めましょう。私たちの家族を、天主が知恵も背丈も恵みも成長させてくださる真のナザレトとしてくださいますように。アーメン。