聖パウロによる愛徳の賛歌
聖パウロ
2025年3月2日五旬節の主日 トマス小野田圭志神父説教 聖母の汚れなき御心聖堂(大阪)
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
今日は2025年3月2日、五旬節の主日です。
来たる3月5日水曜日は、灰の水曜です。
カトリック教会の掟によれば、満十八才から満五十九才までの全ての健康な男女の信者は、この日に大小斎を守らなければなりません。また成人に達していない人でも、14歳以上の健康な信者は小斎を守らなければなりません。
教会の掟によればさらに「少なくとも年に一度は御復活祭の頃に御聖体を拝領する」という復活祭の義務があります。御復活祭の頃とは、日本では「四旬節の第一主日から三位一体の主日まで」です。
明々後日の水曜日、ついに私たちは四旬節に入ります。
私たちは、この四旬節が来るのを待ちに待っていました。
この四旬節が、本当の意義のある四旬節にしたいと思っています。
ではそのためには、本物になるためには、いったい何が必要なのでしょうか?
今日は、一緒にそのことを黙想致しましょう。
四旬節を、意義深く本物の四旬節にするために、いったい何が必要でしょうか?
長い祈り、厳しい断食、大小斎、あるいは寛大な施し、あるいは頻繁な告解の秘蹟などなど、私たちが想像できることは色々あります。
はい。私たちはそれらのことを、この美しい習慣を四旬節の間に行いたいと思います。
でも、一つだけ危険があります。
それは、この四旬節の美しい教会の伝統の信心の業が、形だけに留まってしまうという危険です。
私たちの四旬節が、四旬節の素晴らしい信心の業が、形だけのものに留まらず、本当に意義のあるものにするために、いったい何が必要でしょうか?
またさらに言うと、四旬節のみならず、私たちの生活が、本当にキリスト教的なものとなるために、カトリックの信仰生活となるために、何が必要なのでしょうか?何が絶対的になければならないのでしょうか?
私たちのカトリックの信仰生活を、他のものと決定的に区別、峻別するものはいったいなんなのでしょうか?
それは、究極的には「超自然の愛徳」です。
ですから、私たちが、本当に私たちの生活をカトリックらしくするために、四旬節を四旬節とするために、必要な愛徳とは何かを知るために、教会は今日、四旬節に入るその直前の主日、今日、五旬節の主日に、聖パウロのコリント人への第一の手紙13章にある「愛の賛歌」と呼ばれる美しい箇所を、私たちに読み聞かせました。
良い四旬節を過ごすために、また、本当にキリスト教的な生活を送るために、私たちにとって愛徳が絶対に必要です。
この愛徳について、深く知る必要があります。
そこで、今日は一緒に二つの点を黙想しましょう。
私たちに絶対必要な愛徳とは、いったいなんなのでしょうか?
また、この愛徳を得るにはどうしたら良いのでしょうか?
【1:愛徳とは何か?】
では、まず第一の点、愛徳とはなんでしょうか?
聖パウロが、今日、コリント人への書簡の中で語っているのは、「天主への超自然の愛」です。ただ自然なフィーリングではありません。
この愛は、天主が私たちに注入してくださる愛徳で、成聖の恩寵と分かち難く結びついています。この超自然の愛徳を得ることによって、私たちは天主御自身を愛し、天主を愛するがために、隣人をわが身のごとく愛することができるようになります。
この愛徳のことを、ラテン語ではcaritas(カリタス)と言います。
日本語では「愛徳」と訳されており、中国語でも「愛徳」と訳されていますが、キリシタンの時代には、これは「おたいせつ」と訳されていました。
私たちは、信仰によって確かに天主を知り、天主の真理を確実に知ることができますが、信仰によって知った天主を、超自然の愛によって、愛徳によって愛します。
ですからこの愛、愛徳とは、天主と私たちとの間に「超自然の友情関係」を生み出します。「え、友情関係?」 ——はい。
何故かというと、相互に善を望む愛だからです。
つまり、天主は私たちの善を欲され、そして、私たちがこの地上にいる時でも、また天上でも、特に天国において、私たちの善を御望みになり、そして私たちも、愛徳によって、天主が欲することを欲して、天主の御旨を行いたいと願い、望んで、そして天主をお喜ばせしたい、お喜ばせしたいと思います。
何故ならば、天主を愛しているからです。
これが、天主と私たちの友情の愛徳です。
この愛徳によって、私たちは天主を、父親として、親友として愛し、また愛され、天主は私たちを子供として、また友として愛されます。
天主への愛徳というのは、成聖の聖寵と緊密に結びついているので、もしも私たちが大罪を犯してしまうならば、つまり天主の愛を裏切ってしまうのならば、成聖の聖寵も失ってしまいます。
言い換えると、大罪を犯すことによって成聖の恩寵を失うとは、つまり、天主との友情を失い、天主の子供という地位を失い、永遠の報いという天国をも失ってしまうということです。
【愛徳の素晴らしさ】
聖パウロは、今日の書簡の中で、愛徳の素晴らしさを語ります。
日本語で「賜物」という言葉がありますが、賜物とは、王様やあるいは皇帝から、無償でたまわるプレゼントのことを言います。
聖パウロは、愛徳こそ、天主からの最高の賜物、最高のプレゼントであると断言します。
どういうことかというと、天主からたまわる愛徳というのは、預言とか奇跡とか、病気の治癒、言語などの霊の徳能(カリスマ)の賜物よりも、もっと優れた、もっと霊的な賜物であるということです。
どういうことかというと、もしも、誰かが天主から直接の啓示を受けて、隠された偉大な天主の真理を教えるために、預言の徳能(カリスマ)を受けたとしても、それがどれほど深いものであったとしても、天主への愛と比べれば何でもありません。
また、誰かがこの世の人々をアッと驚かせるような、ものすごい大奇跡を行なって、死人をホッとよみがえらせ、そしてもう医者がさじをなげた、どうしようもないという不治の難病の病をサッと、すごいと言うほど治したとしても、天主に対する愛徳と比べれば、天と地の差があります。
天主から、私たちが無償で頂くことのできる御恵みの中で、どうしても絶対に必要で、最も有益で、そして決して滅びることのない、朽ちることのないもの、それが愛徳だからです。
なぜ愛徳が必要であるかというと、何故かというと、愛徳がなければ、他の賜物は一切足りない、一切価値がないからです。
愛徳が有益であるというのは、愛徳があってからこそ、私たちは悪を避けて、悪を耐え忍び、そして善を行うことができるようになるからです。
また、この愛だけは、愛徳だけは、いつまでも永遠に絶えることなく、永続することができるからです。
ですから聖パウロは、この愛徳こそを、私たちは切に望まなければならないと言っています。
【愛徳の必要性】
では、聖パウロの言葉を少し見ると、非常に驚くべきことが書かれています。
聖パウロは、霊の徳能(カリスマ)をいくつか挙げて説明します。
一つは「言葉」に関する賜物です。次に「知識」に関する賜物です。さらに「事業」に関する賜物です。
「言葉」に関しては、たとい私が、すべての人間の言葉(様々な言語)と、さらに天使の言葉さえ話したとしても、もしも天主への愛がなければ、鳴る青銅と、響き渡る銅鑼に等しいと言います。
つまり、霊魂に愛徳がなく、成聖の聖寵によって生かされていなければ、霊的には死んだも同然だということです。
「私たちが死から命にうつったのは、兄弟を愛するからであって、愛さない人は死の中にとどまっている」(1ヨハネ3:14)。
つまり、もしも私たちが成聖の状態になければ、死んだ物体の音に等しく、たとえ美しい音を奏でたとしても死んでいます。
鳴る青銅(鉦:カネ)もシンバル(銅鑼:ドラ)も、どれほど澄んだきれいな音色を響かせても、死んだものです。
どれほど、何十という言語を完璧に使いこなして、どれほど説得力のある素晴らしいお説教(演説)をしたとしても、もしも成聖の状態になければ、永遠の命を受けるための功徳にはなんの役に立たず、意味もないということです。死んだも同然であると言っています。
聖パウロは、言葉のみならず「知識」についても言います。
知識に関しては、聖パウロよれば四つの徳能があります。預言と上智と知識と信仰です。
まず「預言」です。たとい私が、預言の賜物をもち、聖霊に動かされて天主が啓示された、ものすごい深い神秘を深く知っていたとしても、そして、その将来のことについて、他人に教えることができるように預言をすることができたとしても、
また、預言のみならず、「上智」として天主の神秘を深く味わって、永遠の昔から隠されていた、天主に関する神秘を隈なく知り尽くして、聖パウロのように第三の天にまで挙げられ「天主の知恵、神秘な、かくれた知恵」(コリント前2:7)に通じていたとしても、
また、天主のことのみならず、この地上の被造物について、被造の世界に関するすべての「知識」に通じていたとしても、地球と大宇宙の神秘を、その構造やすべての植物と鳥と魚と動物の生態の秘密をことごとく知り尽くす知識を持っていたとしても、愛徳がなければ、なんの意味もない。愛徳がなければ、聖寵も秩序において無にひとしい、と。聖パウロはこう言います。
「知識は人をおごらせ、愛は徳を建てる。」(コリント前8:1)
また「信仰」についても言っています。イエズス様は言いました。
天主の全能を固く信じ、山を動かすほどの満ちた・完全な・ゆるぎない信仰を持っていても【「あなたたちにからし種一粒ほどの信仰があったら、この桑の木に"根ごとぬけ出して海に植われ"といっても、そのとおりになるだろう。」(ルカ17:)】、
しかし愛徳がなければなんの益もない、無に等しい。
知識だけではありません、「行い」についてもそうです。
「善行」の事業に関しては、様々ある中で、敬虔の行いが言及されます。
何故なら「敬虔はすべてに役だつ」(ティモテオ前4:8)からです。
そのなかでも特に施しです。
どのような良い行いをしたとしても、たとえば、特に施しについて、イエズス様はこんなことを言ったことがあります。
「宴会をする時には、貧しい人など…を招け。」(ルカ14:13)
「あなたが、もし完全になりたいなら、もちものを売りにいき、貧しい人々に施しをせよ。」(マテオ19:21)
ですから、「持っているすべてのものをすべて売り払って、貧しい人を養うために、施しのためにそれを使う」としたら、それはどれほど素晴らしい行いでしょうか。まさに素晴らしい敬虔の事業です。
しかし、どれほど寛大に自分の持ち物を犠牲にしても、全世界で飢える人たちを養ったとしても、もしも成聖の恩寵がなければ、つまり天主の愛に生きていなければ、天主の愛のためでなければ、私たちにとって、永遠の生命のために益するところはありません。
善業の中には、施しのみならず「忍耐強く悪を耐え忍ぶこと(堅忍)」もあります。悪を忍耐する状況は多くありますが、その中で最も素晴らしく、最大のものは「殉教の行い」です。
「正義のために迫害される者はしあわせである。天の国はかれらのものだからである。」(マテオ5:10)と、おっしゃっています。
でも、たとえ最も苦しい殉教をしたとしても、殉教のために、私のこの肉体を火の激しい痛みのうちに焼かれるために与えても、天主への愛がなければ、永遠の命のためには、なんの益するところもありません。
何故なら、天主への愛がないということは、罪を犯すという意志がある、あるいは、虚栄のためになされているかもしれないからです。
何故なら、永遠の命は、天主を愛する者に約束されているからです。
聖パウロは、ここで「益するところがない」と言います。
何故なら、言葉や知識は、愛徳がなければ、単なる音、あるいは、無と同じようなものですが、それにひきかえ、何らかの目的を持ってなされた善行は、愛徳がなければ益するところがない、実りがない、役に立たないからです。
【今年の四旬節】
では今日、四旬節のために、聖パウロのこの言葉は、いったい私たちにとってどんな意味があるのでしょうか?
これが、私たちに何を意味するかというと、私たちが四旬節の間にする大小斎も、苦行も、祈りも、施しも、「天主への愛という動機によってなされなければ、永遠の命のために益するところがない」ということです。
これを別の言葉で言うと、「四旬節、ああ…これ掟だから」とか「え、やることになってるから、しなきゃならないから」とか「みんながやってるから」「自分のダイエットのため」というのでは、益するところがないということです。
あるいは「人類愛のため」「環境保全のため」という動機では、私たちの四旬節は本物にならないということです。
「人間を信じ、人間に希望し、人間を愛する」では、私たちの信仰生活も本物になりません。
私たちが、この四旬節を、イエズス・キリストへの愛のために、ますますイエズス・キリストをお愛しするために成す、という動機がなければなりません。
【愛徳の増加】
では最後に、どうしたら愛徳で行動し、愛徳をますます増やすことができるでしょうか? 二つ提案します。
一つは、私たちが何をするにも、朝起きた時も、夜寝る時も、イエズス様の愛を思い出し、主を愛するためにすべてを行おうと決心することです。
ですから、頻繁に「イエズス、御身を愛し奉る」という射祷を唱えるのは、とても良いことです。天主を愛するという動機を強めることができます。
あるいは、ファチマの聖母が教えてくださったように、何かをするために「イエズスよ、これは御身をお愛しするため、罪人たちの回心のため、そしてマリア様の汚れ無き御心に対して犯される罪を償うためです」と、唱えるのはどうでしょうか?
天国の報いがどれほど大きいか、あるいは小さいかというのは、私たちが死の瞬間に持っていた愛徳の大きさに、その程度に応じます、従っています。
ですから、もしも私たちが生きている間に、私たちが愛徳を実践すればするほど、愛のために行えば行うほど、ますます功徳が大きくなります。
そして、功徳が大きくなればなるほど、ますます多くの愛徳を得ることができます。
愛徳というのは、大きく成長すればするほど、私たちの霊魂の中に、ますます深く根差します。
すると、ちょうど大きな木が、成長するにしたがって深く根を張るのと同じように、どんなことがあっても、倒れないように、罪を犯しにくくなるようになります。
愛徳の増加のもう一つの方法は、イエズス様を良く知ることです。
イエズス様が、どれほど私たちを愛しておられるかを知り、罪とは、どれほど主が忌み憎まれることかを考えることです。
よく知ることができればできるほど、ますますイエズス様をお愛ししたくなるからです。
ですから、四旬節は私たちにとって、イエズス様が、どれほど私たちをお愛ししてくださっているのか、ということを知る良い機会なのです。
そのためには、どうしたら良いでしょうか?
「主の御受難を黙想すること」が、最高の手段です。
黙想するというのは、黙って思いめぐらし、考えることです。
ですから、今日の福音でも、主は御受難について語ります。
「イエズスは、十二人の弟子をそばに呼んで彼らに仰せられた。「見よ、私たちはイエルザレムに上る。人の子について、預言者たちを通して書かれたことは、みな成就するだろう。人の子は異邦人にわたされ、あざけられ、むち打たれ、つばをかけられるだろう。そしてむち打ったあと、彼を殺すだろう。それから三日目に彼はよみがえるだろう」と。」
旧約で予告されていた通り、預言通り、イエズス様は残酷な苦しみを受けます。
なぜ、苦しみ、死を受けられたのでしょうか?
それは、私たちに、永遠の幸せと永遠の命を与えるためでした。
どのような苦しみでも喜んで受けるほど、それほど私たちを愛しておられるからです。
そして同時に、主の御受難は、私たちが受けるべき罪の結果とは、どれほど恐ろしいものであるかということを教えています。
ですから教会は、特に四旬節の間「十字架の道行き」という信心業を行うことを勧めています。
ですから、私たちも四旬節の金曜日には、十字架の道行きを行いましょう。
【遷善の決心】
最後に遷善の決心を立てましょう。
私たちが「超自然の愛」という動機によって、本当の、本物の四旬節を送ることができるように、お祈り致しましょう。
「射禱」を頻繁に唱えてください。
また、祈り、「主の御受難」をよく黙想なさってください。
最後に、マリア様に、私たちが良き四旬節を過ごすことができるように御助けを請い願いましょう。