聖伝の教導職に従う

ソース: FSSPX Japan

2025年11月23日 聖霊降臨後最終主日

トマス 小野田圭志神父説教  日本の聖なる殉教者聖堂(大宮)聖母の汚れなき御心聖堂(大阪)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日、私たちの主は、福音の中で次のように警告しておられます。

【1:"いとわしいもの"

「預言者ダニエルがいった "荒らすもののいとわしいものが聖所に立つのを、あなたたちが見たら、・・・読む人はさとれ・・・」(

「その時には、世のはじめから今までにもなく、のちにもないほどの大艱難が起るだろう。」

私たちはこの言葉に従い、現代社会でいったい何が起きているのかを判断し、私たちが、今どのような状況に置かれているかを悟ることができるよう、一緒に黙想いたしましょう。

では、キリストの真の教会であるカトリック教会が、現在置かれている霊的な状態について、カザフスタンの補佐司教であるシュナイダー司教様のお言葉を、皆さんにご紹介したいと思います。

先日の1113日、シュナイダー司教様は、教皇レオ十四世様が担う教皇職の現在と、今後を示す客観的なしるしとして、次の三つの事柄を挙げご説明されました。

1)『Nostra aetate』公布60周年の祝い

2)聖ペトロ大聖堂の内部にまで浸透した、いとわしいものに対する沈黙

3)枢機卿・司教任命のために設けられた基準

シュナイダー司教様は、これら三つが、私たちにとって非常に不安な要素であると指摘されます。「いとわしいものが聖なるところに立っているのではないか」という危惧が生じるような出来事です。

120251029日、一般謁見演説第二バチカン公会議『キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言』(Nostra aetate)の公布60周年を、諸宗教の方々を招き共に祝ったこと。

https://www.cbcj.catholic.jp/2025/10/31/35131/

シュナイダー司教様は「イエズス・キリストに救いがあり、イエズス・キリストだけが、私たちを救うことができる」という真理を、まるで忘れてしまったかのようなこの宣言を祝うことで、イエズス・キリストが持つ「救いの唯一性」を、相対化してしまっていると述べておられます。

したがって、カトリック教会をその他の諸宗教と同じレベルに置き、カトリックをその内の一つに過ぎないものにさせること、さらに、真の天主が人となって私たちに命じた、カトリック教会が果たすよう努めるべき「全世界に行って教え、洗礼を授けよ」という、私たちの主イエズス・キリストから受けた大切な使命を忘れてしまう危険性についても言及されています。

2202596日、カトリック教会の最も聖なる場所である、バチカンの聖ペトロ大聖堂内で、虹色のプロパガンダ(宣伝)が、つまり同性愛を認めようとさせる行事が行われたこと。しかしそれにもかかわらず、これに抗議するために立ち上がったのは、全世界で四人の司教様だけであり、世界中の司教様のほとんどは沈黙を守っていらしたこと。

この出来事が何を意味するのかというと、カトリック教会の信仰に反するイデオロギーの圧力に対し、カトリック教会が屈してしまっており、妥協の姿勢さえ見せていることを示していると、シュナイダー司教様は指摘しておられます。

3)最近の司教や枢機卿の任命に際し、その基準となるのは、カトリック信仰や天主の掟への明確な忠実さというよりも、むしろ世俗的なイデオロギーに従っているか否かという姿勢であり、そのような任命が見受けられること。

シュナイダー司教様によると、これは現代世界の精神にカトリック教会がなびき、へつらってしまっているという、非常に不安な要素であるとのことです。

シュナイダー司教様は、これらの中でも特に、聖なる天主への礼拝のために捧げられた最も聖なる場所、聖ペトロ大聖堂というカトリック教会の最も尊い場所が、天主とその掟に逆らう虹色のイデオロギー(同性愛の思想)の宣伝の場として使用され、またその思想がアピールされたことを、本当の意味で「聖なるものを冒す行為」(profanation)であるとおっしゃっています。

さらに、神学的により正確な表現をすると、"いとわしいもの"abomination) でさえあると。つまり、天主とその掟に逆らうイデオロギーが「進歩」であると見なされたことこそ、天主への冒涜であるということです。

私たちは以前、聖なるカトリック教会の、最も聖なる場所で、パチャママによる冒涜行為が行われたのを見たその直後、コロナの危機を体験しました。

それと同様に、虹色の同性愛の人々のパレードが、バチカンの内部に染み込んだ後、私たちはいったいどのような世界を目の当たりにするのでしょうか?

この出来事は、私たちに訪れる困難、大艱難の時代を予告しているのでしょうか?

【2:聖母信心】

私たちは、さらなるしるしを見ていきましょう。

今日の福音によると、大艱難の直後に「太陽はくらみ、月は光を失い、星は天から落ちる」とありますが、まさに、カトリック教会が光を失っているかのように思われる出来事がありました。それはつい最近、バチカンの信仰教理聖省という、カトリック信仰を守る最も大切な部署の長官から出された「マリア様の称号」に関する覚書です。

https://www.vaticannews.va/ja/pope/news/2025-11/mater-populi-fidelis-nota-dottrinale-sui-titoli-mariani.html

この覚書が、マリア様をどれほど冒涜し、侮辱するものであるか、マリア様の地位をどれほど低くするものであるかを認識し、聖ピオ十世会は、一丸となって警告の声をあげました。YouTubeなどを観ると、聖ピオ十世会の色々な司祭たちが、様々なところで、マリア様が、イエズス様と共に贖いの業を成した共贖者であること、また全ての聖寵(恵み)の仲介者であることを教え、マリア様の持つ称号が、どれほどカトリックの聖伝の教えに適っているかを訴えた多くの資料があります。

私たちも聖ピオ十世会の総長様の導きに従い、先週主日のミサ後には、聖母の連祷とスターバト・マーテルを罪の償いとしてお捧げしましたが、この件について警告を発したのは、聖ピオ十世会だけではありませんでした。シュナイダー司教様も、また、アメリカのスティックランド司教様なども、これについて警告を発しておられます。そこで今回はぜひ、シュナイダー司教様がおっしゃったことを、引き続き皆さんにご紹介したいと思います。

シュナイダー司教様は、この覚書について次のようにおっしゃいました。

マリア様に対して使われてきた称号、たとえば「共贖者・共同贖罪者・聖寵の御母・全ての聖寵の仲介者」などを、バチカンの覚書では、客観的に異端だとは宣言しませんでした。もちろん、そのようなことができるはずもありません。しかし、はっきり否定する代わりにそれを相対化し、現代世界の文脈の中に入れて再解釈しようと提案します。そうすることで、神学的な意味を骨抜きにしてしまうのです。つまり、マリア様に関するこのような表現は、過去には意味があったけれども、現代世界に生きる教会においては「適切でなく、不適当だ」とみなすことで、私たちの信仰をなし崩しにしようとする態度が見られると説明されます。

そして、これと全く同様の手法が、かつて公布された、重婚者が御聖体拝領できるか否かを話す「アモーリス・レティチア」や、同性愛の結婚の可否に関する「フィドゥチア・スプリカンス」についても行われていたと指摘なさいました。重婚や同性愛に対して直接の否定はせず、注釈で後ろからこっそりとそれを認めさせようとするやり方です。

また、シュナイダー司教様は、私たちに次のようにおっしゃいます。

カトリック教会の過去の教導職、諸聖人、教会博士たちが皆、常に教え、また使用され続けてきた「共贖者・共同贖罪者・聖寵の御母・全ての聖寵(恵み)の仲介者」というマリア様の称号が、適切でなく不適当であるならば、カトリックの教導職は、長きにわたって信徒に間違いを教え続けてきたということになります。

また「聖伝の教導職に常に従って」きた信徒たちも、キリストとマリア様に関する誤った信仰と信心を教え続けられてきたことになりますが、どちらとも絶対にあり得ないことです。

シュナイダー司教様は、近年、教皇様たちがマリア様についてどのように教えて来られたかについて、何人かの教皇様を引用して解説されます。

レオ十三世教皇は、回勅 『Adjutricem Populi et Jucunda semper』 の中で、マリア様を「贖いの協力者」「聖寵の分配者」と呼んでいます。

聖ピオ十世教皇は、回勅 『Ad Diem Illum』 で、キリストが厳格な正義によって (de condigno) 勝ち得た贖いの功徳を、マリア様が愛徳により、de congruo というやり方で(裁量的に・妥当的に・ふさわしく)勝ち得たこと。したがって「全ての聖寵の仲介者」であることを教えています。

ベネディクト十五世教皇も、回勅『Inter soladicia』で「マリア様が贖い主と共に人類を贖った」と述べ「共贖者」であることを教えています。

この他、ピオ十一世教皇、ピオ十二世教皇、ヨハネ・パウロ二世教皇も、マリア様が「共贖者」にして「全ての聖寵の仲介者」であると教えています。

また、最近、レオ十四世教皇様が、教会博士だと宣言されたニューマン枢機卿様も、聖公会の方に対して「天主の御母・第二のエワ・生ける者の全ての母・命の母・暁の星」といったマリア様の称号を述べられた後に、マリア様が「共贖者・共同贖罪者」であるとおっしゃいました。

そして、これは歴代の教皇様や教皇博士のみならず、四世紀の教会博士であるシリアの聖エフレムも「仲介者たるキリストの次に、御身は全世界の仲介者、全てのものの救い」と、マリア様に祈りを捧げています。

さらに2世紀には、すでに教父が「マリア様は、救い主を私たちに与えてくださったので、救いの原因でもある」とさえ表明していると、シュナイダー司教様は指摘されています。

これこそ、カトリック教会の信仰です。歴代の教皇様、諸聖人、教会博士、古代の教父たちによって、脈々と言い続けられてきたことです。そして、殉教者たちがいつも持っていた信仰であり、また、西方教会も東方教会も、全ての神学の学派が統一的に持っていた信仰です。

私たちの贖いのため、マリア様が特別で唯一の役割を果たされたという信仰を、カトリック教会は常に持っていました。マリア様は、決してキリストの競争相手ではなく、キリストの伴侶にして協力者です。何故ならば、マリア様は、天主の御母であり、第二のエワの役割をも果たされたからです。

ですから、信仰の遺産を教え続けてきた過去の教皇様たちや聖人たち、教会博士たちが正しいとするならば、つい最近出た覚書は間違っていると言えるのです。たとえそれが、現在の教理聖省の長官が出したものであったとしても、です。

何故なら、もしもこの覚書が正しいとするならば、カトリック教会が、過去、何世紀にもわたり間違いを教え続けてきたと主張することになります。

それに、正当に受け継がれてきたカトリックの教え(聖伝)と、今回出された覚書の両方が同時に正しいということはあり得ません。真理に中間はなく、正しいのはどちらかであり、片方は間違っているのです。

もしも、カトリック教会の聖伝の教えの正しさや、マリア様の称号の数々(共贖者・共同贖罪者・聖寵の御母・全ての聖寵の仲介者)を真理であると認めるならば、もし仮に、それがプロテスタントの方を傷つけないためといった、諸宗教の方々との軋轢を避ける目的であったとしても、真理を交渉で変えるべきではありません。真理とは、ネゴシエーション(交渉・駆け引き)で変えて良いものではなく、また、人間的な事情で変えられるものではないからです。

私たちは、どうしてカトリック教会を信頼することができるのでしょうか?

カトリック教会は、信仰と道徳について教えるのみならず、それらについて教える時、天主から世の終わりまで守られていると教えています。何故ならば、私たちの主イエズス・キリストご自身が、そのように約束されたからです。

もしも万が一、カトリック教会の聖伝の教えが間違っていたとするなら、私たちの主イエズス・キリストが間違っていたと否定することになります。そうなれば、カトリック教会自体が崩壊し、教会の教えと権威も失墜してしまうでしょう。

この度の、マリア様の称号に関する覚書は、マリア様に限った話ではなく、カトリック教会の信仰全体の問題と言えます。カトリック教会が教え続けてきた御聖体、ミサ聖祭、司祭職、キリストの御復活の神秘を始め、カトリック教会の信仰箇条全てを崩壊させかねないような、カトリック教会の信憑性と権威がかかっている、大きな問題なのです。

イエズス様がおっしゃった通り、イエズス様の御言葉は、たとえ天と地が過ぎ去っても永遠に残ります。突然「適切ではなく不適当」になることなどあり得ません。

これらの出来事を見ていると、この時代にあって、カトリック教会が、ますますその光を輝き出さなくなっているのではないかという印象を受けます。

【3:遷善の決心】

では、最後に遷善の決心を立てましょう。

今を生きる私たちは、いったいどのようにすれば良いでしょうか?

イエズス様の警告が、私たちの目の前に実現したと見るべきなのでしょうか?

この出来事を始め、また教会内全ての様々な出来事を見て、聖ピオ十世会の総長パリャラーニ神父様は、私たちに「償いをする」ことを提案しています。何故かというと、今日の福音の中で、主がこう言われるからです。

「その時には、世のはじめから今までにもなく、のちにもないほどの大艱難が起るだろう。」

恐ろしいことではないでしょうか? しかし、安心してください。

「・・・その日は、選ばれた人々のおかげで、ちぢめられるだろう。」

大艱難の日々は訪れるかもしれません。しかし、だからと言って何もせずに指をくわえて「きっとバチカンがどうにかしてくれるだろう」「教皇様が新しくなったし、何かしてくれるだろう」「ああ、きっと」と傍観しているのではなく、私たちは、私たちのお母様であるマリア様に対する信心を育み、倍増させましょう。

自らすすんで、マリア様に対して犯される侮辱や冒涜を償いましょう。特に、初土の信心や、聖母の汚れなき御心に対する信心を行うことを提案します。

初土の信心としては、五回の初土曜日(月の始めの土曜日)を、マリア様の汚れなき御心に対して犯される罪を償うため、捧げるように要求されています。なぜ五回なのかというと、マリア様に対して犯される五つの大きな罪のためと言われており、そのうちの一つが「マリア様に対する信心を失くそうとする人々の罪」なのです。これは、今まさに私たちの現前にあり、直面している問題とも言えます。

私たちが、困難な時代に生きていることについて、何も驚かないでください。すでに聖ルイ・グリニョン・ド・モンフォールは、私たちの時代のことを予見しておられました。聖ルイ・グリニョン・ド・モンフォールは、その著書『聖母マリアに対するまことの信心』の中で、私たちに「マリア様へのまことの信心」について解き明かしながら、私たちが、マリア様の奴隷(しもべ)として、マリア様の子供として自分自身を奉献するように教えています。

何故かというと、天主は、ルチフェルとマリア様との間に敵対を置かれたからです。聖ルイ・グリニョン・ド・モンフォールは、ルチフェルとマリア様との間には、世の終わりまで続く、絶対的な対立と敵対があることを教えています。

そのため、ルチフェルと彼に従うしもべたち、そしてマリア様とそのしもべたちとの間には、世の終わりまで続く戦いがあるのです。

「天主はマリアの真の子供としもべ、そして悪魔の子供と奴隷、この両者の間に、数々の敵対、反感、秘密の憎しみを置かれた。この両者は相互に愛し合うことがない。両者は、互いに内的なつながりがない。ベリアルの子ら、悪魔の奴隷、この世の友、彼らは、今日まで常に聖母に属する人々を迫害したが、今後も今まで以上に迫害するだろう。

ルチフェルとそのしもべたちは、マリア様とその忠実なしもべたちを攻撃し、この対立は、この世の終わりには最高潮に達するだろうと言われています。

しかし、聖ルイ・グリニョン・ド・モンフォールは、私たちに教えます。

「謙遜なマリアは、この高慢な悪魔に対して、いつも勝利を得るだろう。しかも、高慢の宿る頭部を踏み砕くまで行く大きな勝利を。聖母は御自分の忠実なしもべたちを、世の終わりまで悪魔の残酷な手から守ることを保証するだろう。しかし、マリアが全ての悪魔どもに対して持つ力は、とりわけ最後の時に輝くだろう。」

マリア様は、ご自分のしもべたち(子供たち)を絶対に守り、それだけでなく彼らに特別な力さえもお与えになります。

マリア様のしもべたちの働きにより、マリア様が人々に知られれば知られるほど、私たちの主イエズス・キリストがますます明らかにされます。

また、マリア様が人々に愛されるようになればなるほど、私たちの主もまた、人々からますます愛されるようになるのです。

マリア様の子どもたちは、マリア様といつも一致しつつ、悪魔とその手先たちの業を退け、最後には、マリア様が必ず勝利を収めて蛇(悪魔)の頭を踏み砕き、イエズス・キリストを凱旋させるだろうと、すでに予告されています。

「その時、サタンは聖母の踵(かかと)に襲いかかる。つまり、聖母が悪魔と決戦するために起こす、聖母の謙遜な奴隷たち、聖母の貧しい子らに対して、である。彼らは天主の恩寵に富むだろう。マリアが彼らに豊富に分配するだろうからだ。彼らは、天主の御前で、聖徳において偉大で高められ、その熱心においては全被造物に勝り、天主の助けに強く支えられ、自分の踵の謙遜をもって、マリアと一致しつつ、悪魔の頭を踏み砕き、イエズス・キリストを凱旋させるだろう。」

つまり、マリア様の側についている限り、カトリック教会とその聖伝の信仰は、必ず大勝利をするということです。

ですから、愛する兄弟姉妹の皆さん、何も恐れないでください!

私たちは、マリア様を心から信じ、カトリックの聖伝の教えを愛しています。

もしも私たちが、私たちのお母様であるマリア様により頼み、その保護に全てを委ねるならば、私たちが間違いを犯すことなど決してあり得ません。

天主様は、世の終わりまでカトリック教会と共にいらっしゃると、私たちに約束してくださいました。そして、御子イエズス様と御母マリア様は、いつも共にいらっしゃるのです。

そのため、私たちは、ますます良きマリア様の子供として、マリア様に対する信仰と愛を増大させることができますように。そして、マリア様に対して日々犯される多くの罪を、少しでも償わせて頂く決心を立てて、ミサを続けていくことにいたしましょう。

「ルチフェル(悪魔)が高慢によって失ったものを、マリアは謙遜によって得た。エワが不従順によって亡ぼし失ったものを、マリアは従順によって救った。

エワは蛇に従順になり、自分の子ら(全人類)を自分と共に失い、子らを悪魔に渡した。マリアは、完全に天主に忠実になり、御自分と共に全ての子ども、全てのしもべを救い、天主の御稜威に彼らを奉献した。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。