「せめておまえだけでも、おまえの力に応じて少しでも私を慰め、私の心に報いてほしい。」
2021年6月13日 聖霊降臨後第三主日・聖心の荘厳祭
トマス 小野田圭志神父説教
今日は2021年6月13日、聖霊降臨後第3主日です。先日の金曜日はイエズスの至聖なる聖心の祝日でした。ですから一緒に聖心の神秘について黙想いたしましょう。
1:イエズスの聖心への信心とは何か?
イエズスの聖心とは何でしょうか?イエズスの聖心とは、まことの人となったまことの天主の、人間としての心臓(こころ)のことです。私たち人間に対する憐れみ深い・ご自分のことを忘れてしまったような・無限の愛のシンボルとしての心です。私たち人間の冷たい忘恩の心をもう一度温めるために示されるイエズス・キリストの熱烈な愛の聖心(みこころ)です。
聖心の信心には、二つの対象があります。一つは直接的な物理的・肉体的な対象で、それはイエズス・キリストの御体に脈打つ肉の心臓です。鼓動する生ける愛する主の聖心です。御托身のあと聖母のきよらかな胎内で形成されるや否や動き出した聖心です。地上での御生活の間33年の間脈打っていた聖心です。カルワリオで最後の一滴まで血を流し出し、最後には十字架の上で兵士の槍によって開かれた聖心です。今は天国で天主御父の右に、人間として座し給うて栄光のうちに鼓動する聖心です。また同時に、地上では世の終わりまで御聖体においてましまし給う聖心です。天主のみ言葉と一つに合体して、最高の礼拝と賛美とを受けるべき聖心です。
この直接的な物理的・肉体的な対象の他に、もう一つの対象があります。それは霊的な・目に見えない・しかし現実の対象です。それはイエズス・キリストの無限の愛です。この限りを知らない愛のシンボルが主の聖心です。イエズスの至聖なる聖心への信心は、究極的には、主の聖心の目に見えるシンボルのもとで、私たちに対する主の情熱的な愛を崇敬して愛し返すこと、そして第二の段階として、できることならば愛の欠如にたいして償いをすることにあります。
先週の主日は、イエズスの聖心が私たちに対して持つ愛があまりにも熱烈で、全てをお忘れになってしまったかのように、主が御聖体を制定なさったことを黙想しました。カトリック教会におけるイエズスの聖心の信心の歴史において、最初から聖心と御聖体とは結びついています。
教皇クレメンテ十三世は、1765年に、聖心の祝日を祝うのを訪問童貞会に許可した時、イエズスの愛から私たちがうけた主要な三つの利益を挙げて、天主が人となった御托身(ベトレヘムの馬小屋)、御受難による贖いの業(カルワリオの十字架)、御聖体の制定(世界中の御聖櫃)だと指摘しています。
聖心の信心は、愛の秘跡である御聖体に対して礼拝と愛をささげ、さらには、御聖体の制定にいたるまで私たちを愛されたイエズス・キリストの愛を、聖心の御影(ごえい)・イメージのもとで崇敬しようとします。
聖心への信心は主を愛し崇敬するだけではありません。償いも行います。
主の燃えるような熱い愛の目に見える印である御聖体に対して、人類の大部分はほとんど無関心です。御聖体において、イエズス・キリストはほとんど知られておらず、御聖体を知っている人々からも、ほんの少ししか愛されていないばかりか、忘恩によって返礼されています。イエズスの聖心への信心は、主の聖心が特に御聖体においてお受けになる全ての屈辱を、私たちの償いと愛と礼拝で償おうとします。
2:御聖体を制定したイエズスの聖心の愛
御聖体を制定したのは、私たちを極みまで愛したもうたからですが、私たちを愛するがゆえに、いつまでも世の終わりまでも私たちと共にいたい、私たちのそばにいたいと欲したもうたからです。主の持つすべての善や福利を私たちとも分かち合いたいと欲し給うからです。私たちと一つになりたいと思われるからです。
自分が愛する相手といつも一緒にいたいという愛のために主は約束されました。「私は、世の終わりまで、常にあなたたちとともにいる!Ecce ego vobiscum sum usque ad consumationem saeculi.」
御復活と御昇天をもって十字架による贖いの事業が完成した暁には、天主の御子が肉を取って人間として地上に残るべき理由も無くなってしまったように思われます。しかし私たちを愛する主にとって、この地上での33年の生活は、あまりにも短く思われました。主は、最大の奇跡を行い御自分がパンとなってさえ私たちと共にいることを望みました。
一体、偉大なる御稜威の天主が私たちの小さな食べ物となることなど、誰が考えつくことさえできたでしょうか?イエズスの愛の炎はあまりにも強烈で情熱的で熱狂的で、昇天後、天国での最高の栄光を楽しみながらも、天国にそのままおられることでは満足できなかったかのようです。毎日、世界中のどこでも、ミサ聖祭によって、イエズスはつつましい見栄えのしない私たちの祭壇に来られ、世の終わりまで御聖体において私たちと共にお留まりになります。旧約聖書で聖霊はこう言います。「私の喜びは、人の子らとともにいることである Deliciæ meæ, esse cum filiis hominum.(Proverbs 8:31)」
3:私たちの現実の姿をご覧になるイエズスの聖心
しかし、これほど愛されている私たちが、主をほとんど愛していないことをご覧になって、聖心は何をお思いになるでしょうか?
イエズス・キリストは、至福の天主です。本当のことを言うと人間など必要ではありません。しかし、主は、世の終わりまで小さなホスチアに閉じこもられる程、私たち人間を愛されます。
ところで、その反対に、私たち人間は、天主がいらっしゃらなければ、イエズス・キリストがおられなければ、何もできません。私たちは全く無力で、イエズスを絶対的に必要としています。それにもかかわらず、人は主をほとんど無視しています。御聖体という愛の大奇跡のことを考えもせずに、主と会話できるという幸せについても、何とも思っていません。
これほど主から愛された民が、極みなく恵みを受けた民が、主を捨てています。そんな私たちをご覧になって、主は一体何を思われるでしょうか?御聖体におられるイエズスの聖心は、御聖体が軽んじられ、蔑視され、隅に追いやられているのをご覧になって、何を感じられるでしょうか?
娯楽施設や映画館、スポーツ競技場などは人でいっぱいです。コンサートに行くためなら高いお金を払っても、どんなに遠くても、どんなに長い行列でも、喜んで行く人は多くいます。
しかしほんの数分でも、教会にまします御聖体の主を訪問しようとする人は、残念ながらほとんどいません。
【「私はたった一人で残された。Ego autem relictus sum solus. (Daniel 10:8)」「私は屋根にいるたった一羽の雀のようになった。Factus sum sicut passer solitarius in tecto. (Ps 101:8)」】
主は、毎日、祭壇の犠牲であるミサ聖祭で、私たちのために御自分を捧げておられます。しかし、ある人々は、一週間に一度、一時間になるかならないかのミサを長すぎると思っているかのようです。
たとえミサにあずかっても、ミサの最中に別のことを考えているのなら、主は私たちのことをどう思いになるでしょうか?
私たちは、イエズス・キリストのことを知らないかのようです。イエズスが私たちを愛する永遠の天主であることを知らないかのようです。かつて洗者聖ヨハネはユダヤ人にこう言ったことがあります。「あなたたちの中に見知らぬ人が一人立っている。Medius vestrum stetit, quem vos nescitis. …私はそのはきものの、ひもをとく値打ちもない」(ヨハネ1:26)と。
世界でもっとも優しい力ある方と一緒に会話するのを楽しみたいのなら、イエズス・キリストにまさる人はいません。聖人たちは、主の甘美な現存に身を置き、昼夜、主の御前で時を過ごしました。しかし、イエズスのことを知っているはずの私たちは、残念ながら、往々にして、御聖体におけるイエズス・キリストと関係ないような生活をしています。
秋田のシスター笹川のビジョン(1973年6月28日)によると、「聖堂でまばゆい光が御聖体から放射され、祭壇を囲んで無数の天使たちが一斉に御聖体の方に向かって礼拝しているのを見ました」(「聖母マリア像の涙」 p31)。世界中の祭壇で、無数の天使たちが御聖体におけるイエズスを礼拝し愛しています。ところでイエズスが御聖体においてましますのは天使たちのためではありません。人間のためです。しかし私たちは、しばしば、御聖体におけるイエズスのことについてはすっかり忘れ去っているような態度を示しています。
イエズス・キリストは御聖体において私たちを熱烈に愛していますが、そんなイエズスに対して私たちが見せるような愛情や尊敬を、万が一、友人が私たちに見せたら、特に私たちが心から愛する友人が見せたら、私たちは嬉しいと思うでしょうか?イエズスの聖心は、私についてどうお思いになるでしょうか?私の今までの冷淡、忘恩、怠慢、不敬虔、無関心についてを。
4:遷善の決心
イエズスは、17世紀にフランスのパレ・ル・モニアルという修道院で、聖女マルガリタ・マリア・アラコックに御自分の聖心をお見せになってこう言われました。
「この聖心を見よ。この心は、人々を愛して何ものをも惜しまず、愛を証しするためには、いさぎよく万事を犠牲にして燃えつくした。それなのにこの返礼として、私は、多数の人がこの愛の秘跡に対して見せる彼らの不敬と冒瀆、冷淡と軽蔑によって、忘恩しか受けていない。しかも、私がもっとも敏感に感じるのは、私に捧げられた聖職者たちの心が私をそのように取り扱うことだ」。
「だから、私は、御聖体の祝日の8日目の金曜日が、私の聖心を崇敬するための特別の祝日とされることをおまえに求める。その日には、聖体拝領をして、荘厳な行為によって御聖体に対して償いをしてほしい、それは御聖体が祭壇に顕示される間に受ける冒辱(ぼうじょく)をつぐなうためである。私は、このように聖心を崇敬し、また聖心を崇敬させる人々に、私の聖心の恵みが広く与えられることを約束する」。
Behold this Heart, Which has loved men so much, that It has spared nothing, even to exhausting and consuming Itself in order to testify to them Its love; and in return I receive from the greater number nothing but ingratitude by reason of their irreverence and sacrileges, and by the coldness and contempt which they show Me in this Sacrament of Love. But what I feel the most keenly is it is hearts which are consecrated to Me, that treat Me thus. Therefore, I ask of thee that the Friday after Octave of Corpus Christi be set apart for a special Feast to honour My Heart, by communicating on that day and making reparation to It by a solemn act, in order to make amends for the indignities which It has received during the time It has been exposed on the altars. I promise thee that My Heart shall expand Itself to shed upon those who shall thus honour It, and cause It to be honoured."
別の機会には、人類に対する主のあまりにも大きな愛という御聖体に対して、人々から忘恩と軽蔑だけを受けていることについて、イエズス・キリストはこうも言われました。
「私は受難の時に苦しんだ全てよりも、さらにこれ(苦しみ)を感じる。もしも人々が私の愛に対して何らかの返礼をしたならば、私が彼らのために苦しんだ全てを何でもないと思うだろう、もしもできるならば、さらに苦しみたいとさえ思うだろう。しかし、私が彼らのために善をしたいと望む熱烈な思いに対して、彼らが私にする唯一の返礼は、私を拒絶し、私を冷淡に取り扱うことである。それゆえ、せめておまえだけでも、おまえの力に応じて少しでも私を慰め、私の心に報いてほしい」。
He made known to me in the affable marvels of His pure love and showed me to what an excess He had loved men, from whom He received only ingratitude and contempt: "I feel this more, He said: than all the I suffered during My Passion. If only they would make Me some return for My love, I should think but little of all I have done for them and would wish, were it possible, to suffer still more. But the sole return they make for all My eagerness to do them good is to reject Me and treat Me with coldness. Do thou at least console Me by supplying for their ingratitude, as far as thou art able."
私たちは主の愛を知れば知るほど聖心に愛の返答をする望みにかられます。どうやったら主を愛し返すことができるでしょうか?
イエズスの聖心を愛するなら、愛の秘跡である御聖体の御前で跪いて祈り礼拝を捧げましょう。
イエズスの聖心を愛するなら、十字架の犠牲の再現であるミサ聖祭に頻繁に与りましょう。
イエズスの聖心を愛するなら、聖伝のミサに与ってください。
イエズスの聖心を愛するなら、初金の信心をするように努めましょう。暁の星の聖母修道院では午前7時15分から、大阪の聖母の汚れなき聖心聖堂では夕方の6時から、初金曜日には、聖心の聖伝のミサが捧げられます。
イエズスの聖心を愛するなら、イエズスの聖心を罪によって悲しませることを避けるように努めましょう。
イエズスの聖心を愛するなら、私たちの日々の身分上の務めを十字架として、聖母の手を通して聖心にお捧げいたしましょう。
最後に、聖母の汚れなき御心が、イエズスの聖心の神秘を深く理解することができるように私たちのために取り次いでくださることを祈りましょう。
「そのとき、一人の兵士が槍でおん脇を開くと、すぐに血と水とが流れ出た。これを見た者が証明する」。