サタンはローマを信じているのか?
山上のキリストの誘惑 — ドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャ、1308年頃~1311年頃
スペインのコラムニスト、ペドロ・ゴメス・カリソ氏は5月15日、Infovaticanaにて、「サタンはローマを信じている」と題した、特に注目を集めた論説を発表した。
この文章は、教義省長官であるヴィクトル・マヌエル・フェルナンデス枢機卿が、FSSPX(聖ピオ十世会)の今後の司教聖別について発表した最近の覚書を起点としている。著者は冒頭から、自身の考察の枠組みを次のように提示している。
「フェルナンデス枢機卿によるFSSPXに対する覚書は、選択的離教の問題よりもさらに深刻な問いを提起している。すなわち、サタンがキリストを誘惑し、ペトロを試練にかけることを求めたのであれば、なぜ彼は、信仰が守られている――あるいは歪められている――各省庁、神学校、事務所から遠ざかっているというのか?」
昨日、フェルナンデス枢機卿は再びその覚書を公表した。その中で彼は、「(いかなる形においても)」、FSSPXによる司教聖別は離教的な行為であり、離教は破門を招くものであることを「正式に」改めて指摘した。」
著者は、告発の重大さとフェルナンデス枢機卿の人柄との間に、彼にとって際立った対照があることを即座に指摘している。
「まず目を引くのは、これほど重々しい言葉が、これほど軽やかな筆から紡ぎ出されていることだ。『離教』!ローマの警告を思わせる金属的な響きを持つこの古めかしい言葉が、これほど若々しい枢機卿の口から発せられるとは。究極の、神聖な現実の古来の重みをすべて保持しているこの深刻な概念が、現代性とそのあらゆる新奇さを愛する、軽薄な枢機卿の精神の中に存在しているとは。」
なぜローマはエコンに対してのみ「離教」という言葉を使うのか?
著者は即座にこう問いかける。「なぜローマはエコンを見据える際にはこれほど厳粛に『離教』という言葉を発し、一方で、ここ数十年にわたり公式の教会に堂々と入り込んできた、教義的、典礼的、道徳的、秘跡的な破綻という、色とりどりで雑多な一連の現象を目の当たりにする際には、その言葉を慎重に口にしないのか、と疑問に思うかもしれない。」
本文の一節は、最近バチカンで「カンタベリー大主教」の職にあるサラ・マラリーが歓迎された件について触れている。ペドロ・ゴメス・カリソは次のように書いている。
「カンタベリー大主教は、教会職位にふさわしい礼遇をもってバチカンで迎えられ、使徒の屋根の下での共同の祈りに招かれた。レオ十三世が『アポストリチェ・クレ』において英国国教会の叙階の無効を宣言したこと、そしてその無効性に、ある種の演劇的な挑発として、彼女が女性であるという事実が今や加わっていることを、どの短い記事も指摘する価値があるとは考えなかった。カトリックの教義がいかなる点においても司教と見なすことのできない人物が、極めて当然のことのように、ローマによってあたかも司教であるかのように公に扱われている。そして、この場面の愛想の良い演出は、フェルナンデスの淡々とした声明が示す不承認と同じだけの承認を、ウルビ・エ・オルビ(全世界)に向けて伝えている。」
ペドロ・ゴメス・カリソは次のように表現している。
「これは『選択的な』離教である。パチャママに対しては『文化への適応』が、ルターに対しては『和解の記憶』が、 同性愛への曖昧な祝福に対しては『司牧的識別』が、中国共産党の影響下での司教任命に対しては『外交的現実主義』が、マリア論の冷え込みに対しては『エキュメニカルな感性』が、祭りのような典礼に対しては『共同体の創造性』が唱えらえている。それに対し、聖伝に対しては、奇跡的に『教会法』が再び現れている。」
著者はさらに、現代の教会における深い矛盾と彼が考えるものを次のように描写している。
「突然、シノドス的で流動的、対話的で、エキュメニカル、あらゆる異質なものに寛容であり、あらゆる逸脱に対して疲れ果てるほど理解を示す教会の微笑む顔から、非難の厳しいしかめっ面が現れる。言葉に尽くせぬ枢機卿が率いる教理省は、かつての検邪聖省の厳粛さを取り戻し、ローマ典礼、カトリックの道徳、そして何世代にもわたる信徒たちが学んできた教義を守り続ける者たちに対し、離教の危険を警告する。」
ペドロ・ゴメス・カリソは、問題の一部に過ぎないフェルナンデス枢機卿という人物そのものに立ち止まるつもりはない。
「しかし、ビクトル・マヌエル・フェルナンデスのことはさておこう。小説家であり、逸脱の検閲官として道を踏み外したこの枢機卿は、内なる病の膿に過ぎないからだ。彼が教理省の長として留任していることは、第二バチカン公会議後の最も痛ましい逆転の一つを物語っている。すなわち、刷新された聖省が今や、聖伝を迫害することに専念しているということだ。信仰における友と敵を見分けるための基本的な識別力を失った時、その守護者たちを誰が監視するのか?」
ローマはいつから、異端よりも聖伝を恐れるようになったのか?
ペドロ・ゴメス・カリソは続いて、第二バチカン公会議とアジョルナメント(現代化)について、より広範な考察を展開する。
「バルガス・リョサはサバリータの口を通して、あの有名な問いを投げかけた。『ペルーはいつからダメになったのか?』 1現代のカトリック信者の中にも、同様の疑問が湧き始めている。ローマはいつから、異端よりも聖伝に対して不快感を抱くようになったのか?その答えに特定の日付はないが、ある時代を象徴する、その時代の合言葉であり、認識の印となる言葉がある。それは『アジョルナメント』である。」
ペドロ・ゴメス・カリソは第二バチカン公会議を、歴史上の主要な公会議と比較している。
「第二バチカン公会議は、めったに直視されない歴史的な異常事態を示している。主要な公会議は、信仰の完全性を脅かす誤りに対して信仰を定義するために生まれたのに対し――ニケア公会議はアリウス派に対して、トレント公会議はプロテスタント革命に対抗し、第一バチカン公会議は合理主義、自由主義、そして現代の新たな異議申し立ての形態による攻撃に対抗するために生まれたのに対し、第二バチカン公会議は、すでに異端に支配された世界に適応することになった。近代主義は、大学、神学校、聖書解釈、道徳神学、そして「世と和解した」教会を夢見る多くの聖職者の司牧方針において支配的であった。それ以来、それはバチカンにおいても支配的となっている。」
ペドロ・ゴメス・カリソは、教皇聖ピオ十世による近代主義への非難を想起させる。
「しかし、近代主義とは、その言葉の親しみやすさや肯定的な含意にもかかわらず、まさに聖ピオ十世教皇が『すべての異端の肥溜め』としたものである。言い換えれば、極めて深刻なものである。それほど深刻なため、教皇パウロ六世は、自らバチカンの扉と窓を近代主義に開放した後、聖なる教会に『サタンの煙』が侵入してしまったことに気づいたのである。」
サタンは比喩ではない
論説の核心部分において、ペドロ・ゴメス・カリソは悪魔に対するあらゆる象徴的な解釈を拒否する。
「ここで我々が語っているのは、比喩としてのサタンではない。我々が語っているのは、人格的であり、知性があり、活動的であり、天主と霊魂の敵であるサタンという現実そのものである。悪魔を単なる心理的な象徴や、迷信深かった時代の文学的遺物へと矮小化してしまうとき、カトリックの信仰はその生命力を失ってしまう。」
彼は聖書のいくつかのエピソードを想起させる。
「キリストは荒野でサタンに誘惑された。主の食卓に着いていたユダは、裏切りを遂げるまでその影響下にあった。ペトロは、主を十字架の道からそらそうとした際、キリストご自身の口からあの恐ろしい『サタン、ひきさがれ!』という言葉を聞いた。そして、その同じペトロは、「サタンはあなたたちを、麦のようにふるいにかけることができた」と警告された。聖書は、悪魔の働きを宗教の絵に描いたような周辺に置くのではなく、忠誠か裏切りかが決まる、救いのドラマのまさに核心に置いている。」
ペドロ・ゴメス・カリソは、よくある反論を先取りしてこう問う。
「敵が、キリストの花嫁である教会に、どうして入り込むことができるというのか?」
彼は即座にこう答える。
「熟考された答えは、天主が約束されたことと、決して約束されなかったことを区別することから始まる。キリストは、地獄の門が御自身の教会に打ち勝つことはないと約束された。この約束は、花嫁である教会の不滅、信仰の永続、秘跡の有効性、そして敵対する勢力に対するキリストの最終的な勝利を保証するものである。しかし、キリストは、非の打ち所のない司牧者、不変の教皇庁、腐敗知らずの神学校、霊感に満ちた典礼学者、従順な神学者、あるいは模範的な枢機卿を約束したことは一度もない。教会の揺るぎない聖性は、ユダ以来、目に見える教会の内側における裏切りの恐ろしい可能性と共存している。」
この論説の結論は、間違いなく最も力強い一節である。
「実のところ、キリストの約束は攻撃を前提としている。もし地獄の門が勝つことができないとすれば、それはまさに、それらが勝とうと試みるからに他ならない。もし教会がガラス張りのドームの下に置かれ、あらゆる侵入や内部の腐敗から守られているのであれば、この比喩には何の意味も持たないだろう。聖パウロは『 mysterium iniquitatis(罪悪の奥義:テサロニケ後2:7)』について語り、偽りの使徒たちに対して警告し、エフェゾの司祭たちに、自分が去った後には略奪する狼たちが侵入し、彼らの中から自ら立ち上がって弟子たちを従わせる者たちが現れると予告した。「あなたたちの中から」と、使徒は言った。」
著者は次のように続けている。
「教会の歴史はこの教えを裏付けている。アリウスは司祭であり、ネストリウスはコンスタンティノープル総主教となり、ホノリウスは教皇となった。ルネサンス期の高位聖職者たちは教皇庁を世俗的な宮廷へと変貌させ、現代の教会指導者たちは、殉教者や信仰の証人たちが自らの血を流して守り抜いたものを、説教壇から破壊してきた。こうしたことは何も教会を破壊するものではないが、すべてが真の戦いの場を明らかにしている。花嫁である教会は、その頭であるキリスト――その代理者ではなく――によって、聖霊の助けによって、そして、しばしば卑しい立場にいながらも、教会が受け継いできたことを信じ続ける人々の忠実さによって、聖なるままである。その目に見える構成員たちは、人々の目には教会を汚し、一時的にその姿を判然とさせず、その構造を混乱の道具へと変え、最も尊ばれるべき言葉を、実質的な背教の言い訳にしてしまうかもしれない。」
そして、この論説のタイトルに真の意味を与える、次のような最終的な考察が続く。
「そう、教会への悪魔的な浸透は単に可能であるだけでなく、教会を真に信じる者なら誰にとっても予見可能なことなのである。サタンは、決定的なことが何も起こらない場所では時間を無駄にしない。彼の自然な関心は、祭壇、告解室、神学校、司教職、典礼、教義、子供たちの教育、司祭の任命、さらには罪と恵みを指し示す言葉そのものに向けられている。」
ペドロ・ゴメス・カリソは、【サタンが誰を欺くかの対象について】特に印象的な比喩をもって次のように締めくくっている。
「もし小物屋が間違えば、粗悪なボタンを売ることになる。もしローマが間違えば、人々の霊魂を迷わせることになる。敵はその違いを知っている。」
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バルガス・リョサ (Vargas Llosa 1936 - 2025)は、ペルー人で、ラテンアメリカの代表的な作家、ジャーナリスト。2010年にノーベル文学賞を受賞した。サバリータ(Zavalita)は彼が書いた「ラ・カテドラルでの対話 (Conversación en La Catedral)」の主人公で、「ラ・カテドラル」という名前の安酒場において「ペルーはいつからダメになったのか?」"¿En qué momento se había jodido el Perú?"と問うことから話が始まる。