三位一体なる天主の神秘
アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、今日2021年5月2日は復活後第四主日です。
「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「復活後第四主日の説教」の動画をご紹介いたします。
愛する兄弟姉妹の皆様、
今日は2021年5月2日、復活後第4主日です。今日の福音では、私たちの主が聖霊を私たちに送ることを話されました。「私が去るのはあなたたちにとってよいことである。私が去らないなら、あなたたちには弁護者(Paráclitus)が来ないからである。しかし去ればそれを送る」.
さらに主は、聖霊について、こうも言われました。「彼(つまり聖霊)は私に光栄を与える。なぜなら彼は私のものを受け、それをあなたたちに知らせるからである」。
Ille me clarificábit : quia de meo accípiet et annuntiábit vobis.
そこで、今日は聖霊について一緒に黙想しましょう。
1:聖霊は「聖父と聖子とから発出する」
まことの唯一の天主は、聖父と聖子と聖霊の三位一体です。
聖子が天主であることについて、聖ヨハネはこう書いています。「天主の聖子がすでにこられて、真の天主を知るための知恵を私たちにさずけられたことも、私たちは知っている。私たちはその聖子イエズス・キリストによって、真実のお方のうちにいるのである。これ(つまりイエズス・キリスト)は真の天主であって、永遠の命である」。
Et scimus quoniam Filius Dei venit, et dedit nobis sensum ut cognoscamus verum Deum, et simus in vero Filio ejus. Hic est verus Deus, et vita æterna.
聖霊が天主であることについても、聖パウロがこう言います。「あなたたちの体は、その内にある天主から受けた聖霊の聖所であって、自分のものではないと知らないのか」。An nescitis quoniam membra vestra, templum sunt Spiritus Sancti, qui in vobis est, quem habetis a Deo, et non estis vestri?
天主は唯一です。この一なる天主には、聖父と聖子と聖霊との三つのペルソナがあります。
聖父は天主、聖子も天主、聖霊も天主です。聖父は、聖子でも聖霊でもありません。聖子は、聖父でも聖霊でもありません。聖霊は、聖父でも聖子でもありません。この三つの天主のペルソナは、互いに現実に(頭の中の概念・想像だけではなく現実に)区別されます。
天主は唯一であり、天主には唯一の本質(essentia)しかありません。ですから、三位一体の天主の三つのペルソナは、ただ相互の関係性だけによって現実に区別されています。
どのような関係かというと、次の通りです。
聖子は聖父から発出します。聖書によればこのことを聖子は聖父から「生まれる」と言います。聖父は聖子を生みます。
ところで「生む」といっても、被造物のように天主の外に「生み出される」のではありません(これはアリウスの異端説です)。
また、原因が結果に至るように、たとえば聖父が肉体を取ると「聖子」になるというように、様態が変わるだけでもありません(これはサベリウスの異端説です)。
そうではなく、聖子は天主の御言葉として、天主の内部に留まりつつ・宿りつつ、「生まれ」るのです。知的認識のやりかたによる「生まれ」です。発言者に知的な言葉が「宿る」というような場合の「生まれる」です。
聖霊についても、物体的でもなく、外部的でもなく、内部に留まるやり方で、聖父と聖子とから愛するという意志のやり方で「発出」します。
聖子は、聖父だけから「生まれ」ます。しかし、聖霊については聖父と聖子とから「発出」します。
何故なら、もしも聖霊が聖父だけから発出したとすると、聖霊と聖子との区別がつかなくなるからです。
説明します。たとえば、聖父には、聖子と聖霊とに対する二つの関係性があります。この二つの関係性が全く同じだったとしたら、聖子と聖霊とは同じペルソナだということになってしまいます。ところで、聖子も聖父だけから出て、聖霊も聖父だけから出た、とするなら、聖子も聖霊も区別がつかなくなるからです。もしそうであったら、三位一体ではなくなってしまいます。
聖トマス・アクィナスは、こうも指摘します。
聖父という一位(ひとつ)の天主のペルソナから、聖子が発出し、また聖霊も発出するのなら、聖子と聖霊の二位(ふたつ)のペルソナの間には何らかの秩序がなければなりません。
聖子が聖霊でなく、聖霊が聖子でない、という現実の区別が存在するために秩序があるはずです。
この区別は、物体的な区別ではありえません。たとえば、ある職人からコケシ人形が作られたけれども、それは物体的に複数になっているというような違いです。
もしも、聖霊が、聖父と聖子とから発出する、というような秩序がなかったとしたならば、聖子と聖霊とのペルソナの区別は、物体的な区別になってしまいます。そんなことは天主にはありえません。
聖霊が発出する原理としての聖父と聖子については、互いに対立しあうものではなく、あたかも一つの原理として、聖霊は発出します。
ですからカトリック教会が信仰告白するように、「聖霊は聖父と聖子とから発し」Et in Spiritum Sanctum, Dominum et vivificantem, qui ex Patre Filioque procedit. と言わなければなりません。
2:「聖霊は聖子のものを受けた」
聖子と聖霊の発出の違いは、従って、聖子が天主の内部にとどまる「知的なやり方」で発出した(これを「生まれた」と言います)ように、聖霊は天主の内部にとどまる愛という「意志のやり方」で発出すると言わなければなりません。
聖トマス・アクィナスは、さらに、愛は言葉から発出しなければならないことも指摘しています。何故なら、私たちはまず心に宿された知的理解がなければ、愛することはないからです。ですからこの意味でも聖霊は、聖父だけではなく聖子からも発出しなければならないといえます。
聖霊が「聖子の」霊であり、「聖子を通して」聖父からのものである限り、私たちは聖霊は聖子からも発すると言わなければなりません。今日の福音にもある通り、イエズス・キリスト御自身も「聖霊は聖子のものを受けた」と言っています。
3:公会議の権威と教皇の権威
教会の歴代の公会議では、その当時に流行っていた誤謬を排斥するために、信仰宣言が作られました。(唯一の例外が、誤謬を排斥しなかった第二バチカン公会議でした。)
ところで、前になされた公会議の信仰宣言に暗黙のうちに含まれていたことが、時代を経るにしたがって誤解され、新しく異端が出てくることもありました。そのような時、新しく起こった異端に対処するために、公会議が開催され、より明確により詳細な信仰宣言を表明しました。それは「新しい教義を教えるためではなく、聖霊の援助によって、使徒たちが伝えた啓示、すなわち信仰の遺産を確実に保存し、忠実に説明するため」です。
ところで、公会議とは教皇の権威のもとで開催され、信仰宣言は教皇の権威のもとで確認されます。以前、二ケア公会議の時には、イエズス・キリストが天主聖父と同じ天主であることに力点が置かれ、聖霊が聖子から発出することを否定するような誤謬は主張されていませんでした。ですから、その点について明示的に言及する必要がありませんでした。
(たとえば主が「私は、世の終わりまで、常にあなたたちとともにいる」と言われた時、世の終わりになったらともにいるのではないという意味でもありません。当たり前のことなので、普通の時には言う必要はありません。ただ、これについて誤解が生じた時にその意味を説明すればよいわけです。)
しかし、後に聖霊に関する誤謬の説が出てきたとき、ローマ教皇の権威により、聖霊が聖子から発出する点が明確に明示的に確認されました。ジェラシアノ教令(Decretum Gelasianum)の少なくとも最初の三章は、教皇ダマソのもとで開催された382年のローマ教会会議(シノドス)の決議であると考えられていますが、そこにはこうあります。
「聖霊は、聖父の霊だけではなく、聖子だけの霊でもなく、聖父と聖子との霊である。何故なら次のように書かれているからである。「世を愛するなら、おん父の愛(聖霊)はその人のうちにはない」。またこうも書かれている。「キリストの霊(聖霊)をもたないから、その人はキリストのものではない。」」
ニケア信経では「聖父から発出する」というように聖父だけが言及されていますが、ここでいう「聖父」にそもそも「聖子」も含意されていると理解されています。何故なら、聖父について言われていることは(関係性についてを例外として)聖子にも適用されるからです。
たとえば、主が「聖子が何ものかを知っているのは、聖父以外にはありません」(マテオ11:27)と言われた時、聖父には聖子が含まれ、聖子が御自分を知っているということを否定しているのではありません。
ですから、たとえば、東方教会の一部がローマと帰一する(一致する)という場合、聖霊が聖父と聖子とから発出するということを理解してさえいれば、東方の伝統のまま、信経では「聖霊は父から発出し」とだけ唱えています。どのような理解をして信仰しているかが大切だからです。
形式の問題ではなく中身の問題としては、そもそも聖霊が、天主聖父と天主聖子とから発出するという真理を、はっきり表明することは異端を避けることになります。
また教皇は公会議の上に立つ権威ですから、真理をはっきり表明することは許されることです。ローマ・カトリック教会では、聖霊について、誤解をさけるためにはっきりと明示的に信仰告白することを常としてきました。
遷善の決心
聖母聖月が始まりました。最後に聖母に祈りましょう。「童貞マリアよ、喜べ。御身は一人でこの世の全ての異端を破壊し給えり」。
Gaude, María Virgo, cunctas haéreses sola interemísti.
聖母の御取次で、正統信仰の真理が全世界で凱旋しますように祈りましょう。
「彼(つまり聖霊)は私に光栄を与える。なぜなら彼は私のものを受け、それをあなたたちに知らせるからである」。