肉体的な憐れみの業である「埋葬」について

ソース: FSSPX Japan

2023年8月20日  聖霊降臨後第十二主日

トマス 小野田圭志神父  聖母の汚れなき御心聖堂(大阪)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。今日は2023820日、聖霊降臨後第十二主日です。

愛する兄弟姉妹の皆様、今日の福音では「あなたは、すべての心、すべての霊、すべての力、すべての知恵をあげて、主なる天主を愛せよ。また隣人を自分と同じように愛せよ」という愛の掟が再確認されました。

また、今日イエズス様がよきサマリア人の譬えをあげて、憐れみの業について語られました。傷ついて倒れる半死半生の男を善きサマリア人は介抱してそして彼を助けました。ですから今日は特に憐れみの業について黙想いたしましょう。

また最近アジア管区長から憐れみの業の一つである「埋葬」について皆さんにお知らせするようにという指示があったので、特に今日憐れみの業のなかの一つである「埋葬」について皆さんと一緒に黙想したいと思っています。

審判の時、私たちが憐れみの業を行ったか否かについて、私たちは必ず主に問われるだろうと主は語っておられます。あわれみの業とはなにかというと、霊的な必要あるいは肉体の必要において隣人を助けることです。

【肉体的な憐れみの業】

肉体的な憐れみの業というのは、聖伝の教えによれば次の七つが挙げられています。

飢えている人に食べ物を与える。

のどの乾いている人に飲み物を与える。

裸の人に服を与える。

旅人や巡礼者に宿を与える。

病の人を介抱して訪問する。

牢獄にいる人を訪問し、慰める。

また最後に、死者を埋葬する。

これです。

【霊的な憐れみの業】

これに対応するような霊的な憐れみの業というものもあります。参考までに申し上げますと、

疑う人に助言を与える。

無知な人を教える。

罪人をいさめる。

苦しむ人を慰める。

侮辱を赦す。

難しい人を忍耐強く耐え忍ぶ。

また最後に、生ける人と死せる人のために祈る。

などがあります。

今日は特に肉体的な憐れみの業について黙想します。

【憐みの業を行うのは厳格な掟】

憐れみの業を行うというのは、たんなる勧告(良き勧め)だけではありません。これは自然法また天主の実定法によって定められた厳格な掟でもあります。

自然法によって定められているというのは、これは私たちが自然の掟によって、隣人に対して「自分がそうしてもらいたいと思うことをする」という原理があるからです。

天主の実定法によるというのは、イエズスさまがはっきりとそう教えて、もしもそうしない場合には永遠の滅びという罰によって罰せられると教えてくださったからです。聖マテオの福音書によるとこう言われました。(マテオ2541)。

「また、左にいる人々に向かって、"のろわれた者よ、私をはなれて、悪魔とその使いたちのために準備された永遠の火にはいれ。あなたたちは、私が飢えていたのにたべさせず、渇いていたのに飲ませず、旅にあった時に宿らせず、裸だったのに服をくれず、病気の時や牢にいた時に見舞いにも来なかった"というだろう。("まことに私はいう。これらのもっとも小さな人々の一人にしてくれなかったことは、つまり私にしてくれなかったことだ"と答えた。そして、これらの人は永遠の罰をうけ、義人は永遠の生命にはいるであろう」。

【禁止の命令と肯定的な命令】

天主の十戒のなかには、汝殺すなかれ・汝盗むなかれなどと、禁止の命令があります。これは常にしてはいけないということです。

ところが隣人を愛するというのは憐れみの掟というのは肯定的な命令であって、禁止の命令ではありません。少し性格が違います。どのように違うかというと、常に命じられてはいるけれども、常に行動し続けていることは命じられていないということです。つまりわたしたちは、状況や機会や私たちの持っている能力あるいはその必要性の程度義務によって義務の程度が変わるということです。この義務については賢明に判断をしなければなりません。【神学用語で semper sed non pro semper と言います。】

【埋葬】

ではあわれみの業の一つ埋葬について少し黙想いたしましょう。私たちは、人間の体を尊重しなければなりません。生きているあいだはもちろんそれを大切に聖なるものとして取り扱いますが、死後も死体であっても同じです。天主は人間をご自分の似姿と、そしてその肖像にしたがって作られました。また特に洗礼を受けると私たちの肉体は天主の神殿 (1 Cor 3:16,17) となり、また幕屋 (2 Cor 5:1-9) となります。これは聖パウロが言っている表現です。つまり天主が私たちの肉体に霊魂に留まり、お住まいになる(inhabitatio)特別な聖なる場所に変わるのです。人間の肉体は聖なるものとなるのです。

皆さん、歌ミサのときに、奉献の時に、司祭は、お気づきのように、十字架像やホスチア・カリスの前にも香を捧げます。それと同時に皆様にも香を捧げます。なぜかというと、これは私たちの体には天主三位一体が住まわれているからです。私たちの体はどれほど聖なるものでしょうか。教会はそれほど私たちの体に敬意を払っているのです。ですから死後、たとえ肉体と霊魂が分離して、天主の特別な現存、天主がお住みになるのが終わってしまったとしても、生涯のあいだ、三位一体が私たちの体を聖なるものとしたということは、尊重されなければなりません。ですから死体も大切に取り扱わなければなりません。

実際イエズス・キリストの御体も、十字架上で亡くなったあと埋葬されました。アリマタヤのヨゼフによる憐れみの業でした。彼は、ピラトの許し請いに行ってその許しを得て、主イエズスのおん体を十字架から降ろし、そしてきれいに洗って、ユダヤ人の葬りの習慣のとおり、香料とともに、そのおん体を布で巻いて、墓に葬りました。ニコデモは、没薬と沈香とを混ぜたものを百斤ばかり持って来ました。掟にしたがって安息日を休んだのちに、婦人たちは、準備した香料と香油をもって墓に行きました。

聖福音によると、洗者聖ヨハネが首を切られて殉教したのちに「ヨハネの弟子たちは、死骸を受け取りに行って、葬った」(マテオ1412)とあります。ラザロも、墓に葬られました。マルタとマリアが葬りました。助祭の聖ステファノも殉教すると使徒行録によると「信心深い人々は、ステファノをほうむって、盛大にとむらった」(使徒82)とあります。

死者をそのように葬る、埋葬する、土葬するということは、ユダヤ教とキリスト教の数千年にわたる聖なる伝統です。なぜでしょうか。なぜかというと、わたしたちは肉体が復活するという希望を持っているからです。信仰を持っているからです。これは肉体の復活を望み奉る、待望する、待っている、とわたしたちは使徒信経で唱える通りです。ですから、カトリック教会ではその最初から常に死者の体をそのまま土に埋めて埋葬することを実行してきました。ローマのカタコンベに行くと、異教徒たちとそしてキリスト教信者の埋葬の違いが大きくわかります。異教徒は火葬されました。しかし、キリスト教信者は、そのまま土葬されました。それがカタコンベではっきりとわかります。しかし、キリスト教の影響によってヨーロッパでは火葬の習慣はなくなりそして普通に土葬するようになりました。わたしたちの亡くなった祖先の遺体が尊重されて大切に扱われたということです。

【火葬】

ところがそのヨーロッパでも、キリスト教を攻撃するフリーメーソンという団体が、19世紀の終わりごろから火葬を推進し始めました。死体を火で焼くということです。この目的は私たちをして死を忘れさせ、また死者について忘れさせて、肉体の復活の希望を否定することを目的としていました。

教皇レオ十二世は、死体を火で燃やすことを「嫌悪すべき」と非難して、検邪聖省は、自分の葬儀に火葬を行うことを望むものは教会の葬儀を受けることができない、と教令(1886年)を出しました。これは1917年の教会法(1240条)にも繰り返されました。検邪聖省はそののち(1926年)にも、火葬をきびしく排斥しており、そのようなことをする者は教会の葬儀を受けることができないとしています。

“this barbaric custom, which is repugnant not only to Christian piety, but also to natural piety towards the bodies of the deceased, and which the Church, from the very beginning, has constantly forbidden. In fact, the enemies of the Christian name boast and propagate the cremation of corpses only with the aim of gradually diverting minds from the meditation of death, to take away their hope of the resurrection of the dead and thus to prepare the way for materialism.”

しかしこの厳しい規律は第二バチカン公会議以後、変化しました。検邪聖省の指導(1964年)によれば、もしもキリスト教に反対するのではないということがはっきりわかるのならば、火葬であっても、教会の葬儀を禁止しないとして、このような内容が新しい1983年の教会法(1176条)に反映されました。

Canon 1176: the Church “does not prohibit cremation, unless it has been chosen for reasons contrary to Christian doctrine.”

日本の場合を見てみると、特に古墳などを調査すると、古来から日本各地で土葬されていたということがわかります。しかし仏教により火葬が導入されました。なぜかというと仏陀が火葬されたとされているからです。続日本紀という歴史書によると道昭(どうしょう)というお坊さんが8世紀の初頭に火葬されて、記録によると「天下の火葬これにして始まる」との記載がのっています。しかし費用が高価であったりすることから、たとえ仏教徒であったとしても、一部の貴族や上流の人々しか火葬は行われていませんでした。一般的にはつい近年になるまで土葬を行っていました。また儒教の思想によっても、親から受けた体を傷つけることは大きな罪だと考えられていたので、儒教の人々も普通の土葬をしていました。日本で火葬が始まるようになったのは大正時代だといわれています。そして、たとえば私の田舎の静岡では戦後になったとしても仏教のお寺でも普通土葬されていました。私の父の話によるとそうだと言っています。ですから日本では土地がないから火葬しなければならないというのは全くの嘘で、そのようなことは日本ではありませんでした。日本で火葬が広まったのは、つい最近の五十年とか六十年の話です。

【遷善の決心:聖ピオ十世会】

では最後に私たちは、遷善の決心をたてましょう。私たちは主の命令によって愛徳の業、特に憐れみの業を行いたいと思っています。特にカトリック教会の聖なる伝統に従って、埋葬を行いたいと思います。教会の聖伝をできるだけ守り、もしもできるならばこれを復興させたいと欲しています。もしもたとえば私たちがそれを実際におこなうことができなかったとしても、しかし少なくとも、キリスト教は、その創立の時から埋葬つまり土葬を行ってきて、常に土葬を望んでいるということをお知りおきください。

ですから教会の原則は次の通りです。火葬は禁止されているということです。もしも自ら望んで自分の火葬を欲するという人は、教会の葬儀を受けることができません。しかし、火葬(死体を火でもやす)ということそれ自体はカトリック教会のドグマに反対するわけでもなく、天主の法に直接に反対するわけでもないので、もしも、衛生上の理由とかあるいは経済的な理由、社会的な理由、法令などによって避けることができない状況やあるいは共通善があるのであるならば、またカトリック教会に反対しないのであるならば、また唯物論によるもの――つまり人間は肉体だけで霊魂などは無いなどと主張するものでないのであるならば、また躓きの危険がないのであるならば、といういろいろな条件のもとで火葬することになったとしても、教会の葬儀を行うことはゆるされています。

もしもたとえそうであったとしても、伝染病などで法令による制限がない限り、教会での葬儀を行ってから、火葬をするように手配をいたしましょう。また火葬された骨などの残りも、わたしたちは大切にしなければなりません。海や山に撒いたりなさらず、祝福された墓に安置なさってください。

最後に、聖母にお祈りいたしましょう。わたしたちはいま、私の知る限り日本では土葬をするというのにはいろいろな困難がつきまとっているように思われます。しかし、将来的には、ヨーロッパでおこったように教会の教えにしたがって、聖伝に従って、日本でも普通に埋葬をすることができる日が必ず来るようにお祈りいたしましょう。そしてそのためにマリア様の御助けによって私たちが力を合わせて働くことができるお恵みも請い求めましょう。

「あなたは、すべての心、すべての霊、すべての力、すべての知恵をあげて、主なる天主を愛せよ。また隣人を自分と同じように愛せよ」

 

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。