ローマは、殉教者たちの都、教皇たちの都、使徒たちの都、ミサ聖祭の都、希望の都、聖母の都
ローマ公式巡礼における聖ピオ十世会総長ダヴィデ・パリャラーニ神父の説教(2025年8月20日)
父と子と聖霊の御名によりて。アーメン。
司教様がた、親愛なる同僚の司祭の皆様、修道士、修道女の皆様、信徒の皆様、
本日ここに集うことができて、なんと恵まれたことでしょうか。そして、私たち皆にとって、なんと嬉しいことでしょうか。
まず、この巡礼の企画に何らかの形で協力してくださったすべての方々に、特に感謝申し上げます。お一人お一人にお礼を申し上げることはできませんが、信徒の方々も司祭の方々も、ミサの中で忘れられることは決してありません。
また、遠くから小さなお子様を連れてお越しくださったご家族の皆様の勇気に感謝申し上げます。天主様は決してそれを忘れません。この聖年に関連して、お子様方に永遠に刻まれる特別な恵みがあります。
ローマ、殉教者の都(フランス語での説教)
なぜ、今日、私たちがローマにいることが特に重要なのでしょうか?その理由は何でしょうか?
まず第一に、ローマは殉教者の都(みやこ)だからです。
天主の摂理により、私たちはコロッセオからわずか数メートルの場所で集まり、このミサを祝うことになりました。コロッセオでは、何千、何万もの殉教者たちが、私たちの主のために血を流しました。事実、誰もが自由に出入りでき、あらゆる神々がその居場所を見つけることができた、宗教無差別的なローマにおいて、初期のキリスト信者たちは、単に数粒の香を焚くだけが求められました。そうすれば、すべてが解決する…と。しかし、それはありえません!主を侮辱することは絶対にありえません!「あなたはその方だけを崇拝し、その方だけに仕えるべきである。」
そして2000年後の今、私たちは同じ信仰を証しするためにここにいます。この信仰は、この世を打ち負かしました。この信仰は、異教に打ち勝ちました。この信仰は、この世に順応しようとはせず、この世を改宗させようとしました。2000年経った今も、それは私たちの信仰です。私たちは、同じ意図を持ってここにいます。
信仰を守ることは、意見を擁護することではありません。信仰を守ることは、主を擁護すること、主の権利を擁護すること、主の神性を擁護することです。真理を守ることです。「わたしは道であり、真理であり、命である。」この真理は、この世に現れました… この世は主のものですが、この世はそれを受け入れず、認識もしませんでした。しかし、「真理を愛する者は、わたしの言うことを聞き、わたしに従う」、彼らはわたしのために命を捧げる用意がある。これが殉教者たちの教訓です。
そして、ここローマに来て、私たちの信仰を証しするにあたり、私たちは教会に何を求めているのでしょうか?教会の聖職位階に何を求めているのでしょうか?特権を求めているのでしょうか?特別な待遇を求めているのでしょうか?いいえ。私たちは信仰を求めています。洗礼を受けた日に求めた信仰を求めています。その理由はごく単純です。信仰は私たちに永遠の命を与えるからです。それは、私たちが赤ん坊だった頃、名付け親たちの口を通して最初に言ったことです。私たちは、永遠の命を与えてくれる信仰を求めています。
この信仰によってこそ、私たちは主を知り、主を愛することができるだけでなく、主を宣べ伝え、主を知らしめ、主を愛させることもできるのです。この信仰は、前述のように、この世を知ろうとはせず、この世を理解することを使命ともしません。なぜなら、主はすでにこの世をよく知っており、この世の支配者もよく知っているからです。それどころか、この信仰は、この世に変革と回心をもたらすために、主についてこの世に説教することを使命としています。なぜなら、私たちは、唯一の信仰、唯一の洗礼、唯一の主、唯一の教会、唯一の真理、人々に救いをもたらすために与えられた唯一の御名があるということをよく認識しているからです。それは、私たちの主イエズス・キリストの御名です。それが、私たちがこの巡礼で、ここローマで意味したいことです。
そして、この信仰を、その全体として公に表明したいのです。それが私たちの望みであり、願いであり、求めるものです。まず第一に、天主と教会にこの信仰を求めます。そして、このローマ訪問の特別な恵み、すなわち、子供たちを含む私たち全員のために求めるべき恵み、それは、私たちの主イエズス・キリストに対する揺るぎない忠誠心です。それが私たちの願いです。
ローマ、教皇の都(英語での説教)
殉教者たちは、信仰の証人でした。彼らは、自分たちの信仰、信仰の告白を、自らの血で封印したのです… そして、二千年という長い歳月、教皇たちは、この同じ信仰の教師であり続けてきました。
20世紀にわたって教皇たちは何をしてきたのでしょうか?ローマは殉教者の街であると同時に、教皇たちの都、教皇制の本拠地でもあります。教皇たち、教皇制の歴史を、いくつかの言葉で要約することはできるでしょうか?教皇たちにはただひとつの考えしかありませんでした。彼らは、ひとつの目標、非常に単純な目標に向けて、あらゆる努力を注ぎ込んだのです。すべてをまとめること、すべてを私たちの主のもとにおいて回復すること。彼らは、私たちの主にその地位と権利を与え、すべての人々に私たちの主の権利を認めるよう促すことに全力を尽くしました。それが、何世紀にもわたる教皇権のすべての活動の目標、目的でした。すなわち、あらゆる事柄において、私たちの主に第一の地位を与えることです。
「Instaurare omnia in Christo すべてをキリストに回復させる」、これが聖ピオ十世のモットーでした。今日、私たちは聖ピオ十世のミサを捧げています。今日はまた聖ピオ十世の命日でもあります。私たちはすべての意向、この巡礼、そして聖ピオ十世会全体を聖ピオ十世に委ねます。
しかし、すべてを回復し、私たちの主においてすべてを総括するというこの考えは、絶え間ない闘い、すなわち罪と罪の結果との闘いへとつながります。そしてこの闘い、この努力は、世の終わりまで続き、歴史の終わりまで続けられなければなりません。それらは永遠にのみ終わるのです。
この努力は、歴史を通して、主ご自身の努力の反響、こだまなのです。聖パウロは、この考えで歴史の意味をいくつかの言葉で表現しました。歴史は、主がこの世のあらゆる支配と権力を破壊し、すべてを父なる天主に服従させたときに終わる、と。これが歴史の意味です。それは主イエズスの御業であり、教皇たちの御業でもあります。それは教会の御業であり、私たち一人ひとりの御業でもあります。
その目的はなんでしょうか?なぜすべてが天主に服従しなければならないのでしょうか?なぜ主イエズスは、完全に御自身に服従したこの世界を父に委ねるのでしょうか?なぜでしょうか?その目的、最終的な目標は何でしょうか?
「天主がすべてにおいてすべてとなるため」です。天主がすべてにおいてすべてとなる時、贖いの業は完了するでしょう。しかし、この目標に到達するためには、私たちはこの世界、この世の支配者との絶え間ない戦いを甘受しなければなりません。この戦いの中心的な考え方がいかに明確であるかは、お分かりいただけるでしょう。
人間にも、この世界にも、私たちの主の王権に属さない独立した領域は存在しません。そして、人間には私たちの主の権威と主の王権に従わない何かがある、というこの現代的、革命的な考え、この現代的な考え方は、まさに教皇たちが破壊し、戦おうとしてきたものです。主のこの戦いは、私たちの戦いでもあります。
さて、この戦いの最中において、私たちには確信があります。この戦いのあらゆる変遷にもかかわらず、主の勝利は確実である、と。いつの日か、主はすべてに打ち勝ち、敵を滅ぼし、あらゆる障害を克服されるでしょう。私たちは、必要な力を与えてくださるよう、使徒たちに求めるために、ここローマに集まっています。そして、私たちは、この特定の点、すなわち、主イエズスの最終的な勝利に対する信仰を公に表明するためにここにいます。
ローマ、使徒たちの都(ドイツ語での説教)
聖年の巡礼のためにローマを訪れることは、特別な意味も持っています。聖ピオ十世会は、この機会を逃すことはできませんでした。なぜなら、ローマは使徒たちの都だからです。
聖ペトロと聖パウロは、自分たちが目撃し、耳にし、認識したことを説教するためにこの地を訪れました。彼らは、主を説教するためにこの地を訪れたのです。ローマに到着したとき、彼らには明確な考えがありました。それは、この都市から始めて、全世界を改宗させるというものでした。
イエズスに導かれて、使徒たちは不可能と思われたことを成し遂げました。彼らはローマを変えたのです。あらゆる誤りの支配者であったこの都市は、真理の弟子となったのです。そして、ここローマで、彼らは自らの血をもって説教を確固たるものとし、確認したのです。
さて、2000年前に彼らによって始まったこの説教は、私たちにとって最も大切なもの、すなわち聖伝です。彼らが教えたことは、何世紀にもわたって伝えられ、私たちに受け継がれています。2000年経った今でも、私たちが信仰を持ち、今日このミサを祝うことができるのは、彼らの教えと忍耐、そして彼らの血のおかげです。
ですから、私たちも使徒たちと同じ意向、すなわち全世界を改宗させるという意向を持って、家に帰らなければなりません。たとえそれが不可能に思えても。たとえそれが迫害を招くとしてもです。
ローマ、ミサの都 (スペイン語での説教)
ローマは使徒たちの都、殉教者たちの都、教皇たちの都、…そしてローマは、忘れてはならないことですが、私たちすべてのカトリック信者にとって、ミサ聖祭、ローマのミサの都でもあります。
ローマ教会は、2000年にわたり、私たちの主イエズスの遺言、すなわち、永遠のミサを、嫉妬深く守ってきたのです。私たちの主は、ご存じのように、その花嫁にすべての富、すべての宝石を授け…そして聖なるミサによって、ご自身をその花嫁に捧げられました。
キリスト教のローマは、千もの教会、大聖堂、祭壇とともに再建されました…それは、天主に汚れのない犠牲、すなわちミサ、聖なるミサを捧げるという、非常に明確な考えに基づいていました。そして、私たちにとって、教会が最も大切にしている聖なるミサほど大切なものはありません。なぜなら、この世でこれほど貴重なものは他にないからです。教会と教皇たちは、どれほど熱心にミサを守り、異端者たち、プロテスタントたちからミサを守ってきたことでしょうか。
使徒たちの信仰、殉教者たちの信仰、教皇たちの信仰は、ミサの中で表現され、そこで養われます。そして何よりも、主の王権は聖なるミサを通して行使され続けています。主は十字架によって統治しておられます。主はカルヴァリオで統治を始められ、祭壇、すなわち聖なる犠牲を通して統治を続けておられます。そして聖なる犠牲によってその愛を現すことで、主は霊魂を引き寄せ、聖化し、御自身に結びつけ続けておられます。一言で言えば、聖なるミサは、私たちが信じるすべてのものの総合であり、信仰を確認し、伝える源なのです。
そして、この使徒たちの都から、聖なるミサは世界の隅々へと伝えられ、私たちの主の契約・遺言を霊魂たちに伝え知らせるために、あらゆる場所、あらゆる霊魂において、主が君臨されるようになったのです。歴史を通じて、聖なるミサは、十字架の印の下で、最も多様な人々をひとつの礼拝に集めることができました。十字架だけが、最も異なった人々、互いに遠く離れた人々を結びつけることができるのです。
人類が、すべての人が共感できる、十字架とは異なる理想を求めようとしたときはいつも、それは惨事となりました。そして、人類が他の理想を求め続ける限り、戦争は絶えることがないでしょう。その理由は明らかです。この世には、主以外によっては、異なる民族を結びつけることができるものは何もないからです。
その理由は二つあります。一つには、唯一の天主には唯一の礼拝だけがあるからです。他方では、すべての人間に共通する要素は罪だからです。それは、すべての人間が、それぞれ大きく異なってはいるものの、唯一共通して持っているものです。もちろん、彼らが統一を見出せるのは罪の中ではなく、罪を赦し、罪から私たちを救う手段の中にあります。そこではじめて人間は確かに統一を見出せるのです。
この巡礼を機に、聖母マリアに、聖なるミサの神秘をますます深く理解する恵み、その神秘を深く掘り下げ、感謝し、愛し、聖母マリアが愛し、感謝し、守ったのと同じ信仰、感謝、愛をもって守っていく恵みを、私たちに与えてくださるよう願いましょう。
ローマ、希望の都(イタリア語で発音)
しかし、ローマは私たちにとって、単に過去の都市、教会の偉大な過去を認識させるキリスト教の記念碑に満ちた都市であってはなりません。ローマはそれ以上の存在です。ローマは私たちにとって、希望の都市なのです。
私たちの希望は、聖ペトロと聖パウロの墓ここにあります。それは信仰の問題です。私たちが今日ここに来たのは、使徒たちの信仰の上に築かれた教会の不可崩壊性(l'indéfectibilité)を信じるこの信仰を公に表明するためです。
主は決して教会を見捨てないことを私たちはよく知っています。主はすべての約束を果たされます。「私は、世の終わりまで、いつもあなたたちとともにいる。そして、地獄の門も、ローマ教会に打ち勝つことはできない。」
天主は決して私たちを見捨てません。どんな試練が訪れようとも、教会がどんな大災害に見舞われようとも、それを乗り越えるための相応の恵みが常に与えられます。教会は聖であり、ローマ的です。
その長い歴史の中で、ローマの都は侵略され、占領され、略奪され、焼き払われました…しかし、常に立ち上がり、常に再建されてきました。だからこそ、ローマは永遠の都市と言われるのです。それはある意味で、教会の物質的なイメージでもあります。教会もまた、略奪され、焼き払われ、妨害され、戦われ、揺さぶられてきましたが…それでも常に立ち直ってきたのです。なぜなら、教会は永遠で神聖であり、そして主が教会を支えておられるからです。特に試練の時、危機の時にはなおさらです。
主はさらに表現力豊かなイメージ、すなわちぶどうの木を用いています。実を結ぶためには、剪定され、枝を刈り込まなければなりません。剪定されたぶどうの木は、乾いた、生命のない木のように見えます。それは試練と苦しみを経なければなりません。そして、ぶどうの木が乾燥した石の多い土地に置かれるほど、逆説的に、良質のワインを生産することができるのです。良質のワインは、湿った土壌からではなく、石の多い土壌から生まれます。
まさにこのイメージを、主は福音書の中で、教会とは何かを示すために用いています。このぶどうの木、すなわち、教会は主イエズスの神秘的な体であることから、主イエズスご自身であるこのぶどうの木に、私たちは、あらゆる試練や困難、落胆の中でも、常に忠実であり続け、愛着を持ち続けなければなりません。それが、私たちが今日ここにいる理由です。この忠実さという恵みを求めるためです。
ローマ、聖母マリアの都市(イタリア語での説教)
ローマは、最後に、最高度にマリアの都です。それは当然のことです。最初の数世紀、それが可能になったとたんに一般に開かれた最初の教会は――これは偶然ではありません――、ローマで最も古い聖母マリアに捧げられた教会、サンタ・マリア・イン・トランステヴェレでした。これが一般に開かれた最初の教会でした。
この出来事には、摂理的な意味があります。これは、聖母マリアが教会を保護し導く上で、また私たち一人一人を保護し導く上で、比類なき役割を果たしていることを示しています。
この巡礼は、聖母マリアに捧げられたものです。特に聖職への召命という特別な意向が込められています。
私たちは、聖母に感謝し、聖ピオ十世会に多くの聖職者を送ってくださったこと、そして聖ピオ十世会とそれに属するすべての修道会に、これからも多くの聖職者を送ってくださるよう祈るために、この聖年全体を「七つの悲しみの聖母」に捧げたいと思いました。
特別な形で聖母に感謝することを忘れてはなりません。すべての聖職者養成の背後には、必ず聖母の御手、聖母の介入があります。聖母は、霊魂の中に、主を模倣し、主を再現し、主の徳を再現し、可能な限り主に似ようという願望を芽生えさせるからです。
これは、極めてマリア的な恵みです。なぜなら、主を霊魂の中に誕生させることは、極めて母性的な恵みだからです。ですから、私たちは感謝の気持ちを込めて、この巡礼と、この記念の年に向けた私たちの祈り、努力、そして良い決意をすべて聖母に捧げます。私たちは、聖ピオ十世兄弟会の現在と未来を聖母に捧げます。
聖母がこれまで私たちを一度も見捨てたことがないのと同じように、聖母がこれからも決して私たちを見捨てないことを確信しており、それは私たちを喜びと信頼と希望で満たしてくれます。
父と子と聖霊の御名によりて。アーメン。