らい病人と有名な百夫長のしもべの奇跡|このふたつの奇跡は、現代の私たちへの重大なメッセージなのです。
2021年1月24日 御公現後第3主日
トマス小野田神父 説教
愛する兄弟姉妹の皆様、
今日は2021年1月24日、御公現後第3主日です。一緒に今日のマテオによる聖福音を黙想しましょう。今日の福音には二つの奇跡があります。
1:ライ病人の治癒
主イエズスは、山の上で教えます。山上の垂訓とよばれ、そのなかでも至福八端が最も有名です。また主は山に登って御父に祈られます。
イエズス・キリストは、私たち人間の罪を赦すために天から降りて人となった天主の御言葉です。罪という霊魂を侵す霊的ならい病を癒すために人間となった天主です。そこで、イエズスは山をおくだりになり、肉体的にらい病人を癒します。
らい病人は、まずイエズスを礼拝します。そして祈ります。「主よ、あなたがおのぞみなら、私をお治しくださることができます」と。つまり、イエズス・キリストよ、御身は望むだけでよいのです、全宇宙は御身の聖なる御旨、聖なる意志の通りになります。私は「お治しください」とは言いません。御身こそが主です、御身のお望みのままになりますように。私は御身のしもべです、被造物です、御身に従います。御身は全てをご存知です。もしも体の健康が私の霊魂にとって善になると考えるのなら、そうなりますように。御身がそう欲するのなら、それは私にとって善であります。しかし私の欲することが、本当に私の善であるとは、私にはわかりません。御身に委ねます。
イエズスはただ一言で、ただ欲するだけで、治すことができました。しかし主は手をのばしてらい病人にふれます。何故なら、イエズス・キリストは律法に縛られず、いかなるものも不浄にすることなく、かえって主の触れるものは全て浄められるからです。らい病よりも罪こそが避けるべき恐るべき悪であるからです。
手で触れただけで癒すこともできました。しかし、周りにいる人々が理解することができるように、主は意思表示をします。「私はのぞむ。治れ!」と。自然は創造主の意志に従います。そこですぐにらい病はなおりました。
イエズスは虚栄を求めず「だれにもいわないようにつつしめ」と命じます。天主だけに栄光を帰すように、と。しかし司祭職への敬意として、司祭への真理の証拠として、自分に起こった奇跡を見せよ、モイゼが命じたささげ物をせよ、と。
聖ベーダによると、全身らいでおおわれていたこのらい病人は人類のかたどりでした。イエズスが手で触れたのは、御托身つまり天主が人間となったことのかたどりです。いままで人類は罪により醜く変形して、天主の国から遠く隔離されていたけれど、イエズス・キリストによって癒されて、これからは神殿と司祭に近づくことができ、天主に捧げものをすることが許されるようになったことの象徴です。
2:百夫長のしもべの治癒
私たちの主は山の上で弟子たちに教え、山のふもとでらい病人を治癒し、カファルナウムに行きます。これは神秘で、主がユダヤ人を癒した後に異邦人たち(ユダヤ人以外の民)を癒すのです。カファルナウムとは、油の脂肪の町、慰めの畑、という意味で、異邦人たちも住んでいました。イエズスは百夫長と出会いますが、彼はローマ軍人で異邦人です。
この百夫長は異邦人の信仰の初穂です。彼の信仰を見ると、ユダヤの民のは不信仰にすぎなくなります。彼は、ユダヤ人たちのように預言者の教えを学んだわけでもなく、らい病人が浄められたのを見たわけでもなかったのですが、キリストの業のことを聞き信じました。
百夫長の優しさを見てください。彼は憐れみ深く、自分のしもべの病のためにはるばる願いに来ました。
百夫長の信仰を見てください。彼は、主がわざわざ来てしもべを見なくても、どんなところにも力を及ぼす全能をもち、事態をよく理解する知恵があり、他人の弱さに心を動かされる憐れみを持っていると信じていました。
そこで「主よ、来て、治癒してください」ではなく、単に「主よ、私のしもべが家でねています。中風で大へん苦しんでいます」と言うだけでした。主よ、憐みください、主の憐れみ深き愛に委ねます、主にはお望みに事が何でもできます、主が良いと思うことをなさってください。
百夫長のしもべは、罪という中風で苦しむ異邦の民の象徴です。天主を知らず、信仰もなく、立つことも歩くこともできず、大変苦しむ異邦の民のかたどりです。
百夫長の謙遜をも見てください。彼はこう宣言します。「主よ、私はあなたを、私の屋根の下におむかえする値打のない人間です」。この謙遜な宣言によって、百夫長は霊魂のうちにキリストを迎え入れる値打ちがある者となりました。さらに彼は信仰の言葉を続けます。「あなたがただ一言おっしゃってくだされば、私のしもべはなおります」。つまり、彼はイエズス・キリストは天主であると宣言しているのです。私たちの主は、この信仰告白を聞いて感心し、彼を賞賛します。つまり彼の信じていることは真理であるということです。
ヤイロの会堂司は、娘の治癒のために、主に「すぐに来てください」と頼みました。ニコデモは、洗礼の秘跡について「どうしてそんなことができるのですか?」と尋ねました。マルタは「主よ、もしあなたがここにおられたら、私の兄弟は死ななかったでしょう」と言いました。彼らは、主がどこででも全能の力を行使できることを信頼していないかのような発言をしています。しかし、百夫長は違いました。主は、どこにいても、一言命令すれば、全被造物はそれに従う、と信じていました。
イエズス・キリストが感心するものは何でしょうか?天主の御言葉が素晴らしいと思うものは、この地上の富でも黄金でも権力でもありません。それらはしおれて枯れる花、過ぎ去る影のようです。主が素晴らしいと感嘆することは、信仰だけです。主は、信仰の深さについては、賞賛し褒めます。「まことに、私はいう。イスラエルのだれにも、私は、これほどの信仰を見たことがない」と。
主が感心するといっても、主が知らなかったことを知ってびっくりしたので感心したのではなく、私たちに何を感心すべきかを教えるために感心したのです。聖アウグスチヌスは、百夫長の信仰について主はお褒めになりますが、軍人という職業を止めろとは言っていないことを指摘しています。
私たちの主は、こうも言います。「私はいう。多くの人が、東、西から来て、アブラハム、イザアク、ヤコブとともに天国の宴席にはいるが、国の子らは外の闇に投げ出され、そこで泣いてはがみすることだろう」と。イエズス・キリストはここで地獄について言及しています。
次に主はこう命じます。「行きなさい。あなたが信じたとおりになるように」と。あたかも信仰の度合いに従って、恵みも与えられる、主人の信仰の功徳と恵みは、しもべにも伝えられる、と教えているかのようです。主がそう言ったその時、しもべは病気がなおりました。
聖アウグスチヌスはこう指摘しています。イエズス・キリストは御自分の肉体では行かず、しもべを癒した。主は、肉体をもってユダヤ人たちのうちに生活したが、異邦の民のうちには、童貞からも生まれず、肉体の苦しみを受けず、直接に奇跡を行わなかった。ユダヤ人は見ても、信じなかった。しかし異邦の民は聞くだけだったが、信じた、と。
3:遷善の決心
現代の私たちにとって、この二つの奇跡は重大なメッセージを送っています。人間は罪という病に苦しんでいるが、主は、罪を赦しに来られた。罪の癒しのために、私たちはキリストに信頼をこめて祈らなければならない、ということです。
奇跡が行われた二人の祈りは模範的です。
「主よ、あなたがおのぞみなら、私をお治しくださることができます」。
「主よ、私はあなたを、私の屋根の下におむかえする値打のない人間です。あなたがただ一言おっしゃってくだされば、私のしもべはなおります」。
ミサ聖祭では、私たちは百夫長をまねて御聖体拝領の時にこの同じ美しい祈りを三度繰り返して言います。「主よ、私はあなたを、私の屋根の下におむかえする値打のないものです。あなたがただ一言おっしゃってくだされば、私の霊魂はなおります」。(残念なことに、日本語のミサではこの深い信仰の言葉が別のものに入れ替わっています。)
百夫長の場合は、イエズスは肉体でお越しにならず霊的に力を及ぼしただけですが、御聖体拝領の時には私たちの主は本当に御体と御血と御霊魂と御神性をもって私たちのところに来られます。何という素晴らしいお恵みでしょうか!私たちは御聖体拝領の時に、どれほどの信頼と愛の言葉で祈らなければならないでしょうか!私の霊魂の癒しと光と力を得るために、また私と一緒に生活している人々のために、主に語り掛けましょう。
イエズスは全能の天主として、どこにいても力を及ぼすことができます。霊的に私たちの霊魂に訪れていただきましょう。霊的聖体拝領をする恵みをいただきましょう。
私を赦すために天から下り、私のもとに来られる愛の天主イエズス・キリスト、私はいままでどれほど冷淡で愛に不足していたことでしょうか!私はなんという不信仰だったことでしょうか!今までの準備不足の聖体拝領をお赦しください。
最後に聖母に祈りましょう。私たちの信仰と愛を増してくださるようにイエズスに御取次を願いましょう。