全ての死せる信徒の記念の説教―死者のための祈り 清めの祈りの意味(札幌)
カルメル山の聖母と煉獄の霊魂
全ての死せる信徒の記念の説教―死者のための祈り 清めの祈りの意味(札幌)
2025年11月3日 イヴォン・フィルベン神父
全ての死せる信徒の記念の説教―死者のための祈り 清めの祈りの意味(札幌)
親愛なる信者の皆さま、
どの宗教でも、死者のために祈りませんか。こちらでは線香に火をつけ、あちらでは古墳を造ります。今日、私たちは死者のために祈りますが、そうすると…同じことをしているのでしょうか。
いいえ、いいえ、いいえ。全く違います。
まず第一に、私たちは、王たちが長く記憶に残るように大きな墓を建てさせたように、記念や追悼が目的で死者のために祈るわけではありません。また、台湾など世界の多くの地域で行われているように、死者の亡霊を恐れるという理由で祈ることもありません。
そうではなく、私たちが祈るのは、死者の清めのためです。この短い説教では、カトリックの死者のための祈り、つまり清めの祈りの意味を説明したいと思います。なぜ死んだ後、霊魂は清めの過程を通らなければならないのでしょうか。
1)過渡的な状態
実際、死んだ後に、罰を受ける状態である地獄、報いを受ける状態である天国、そして清めを受ける状態である煉獄があります。天国と地獄が存在することは比較的簡単に理解できます。天主が存在しておられるなら、天主に仕えた者には報いを与えられ、天主に逆らった者には罰を与えられるはずです。多くの宗教は、理性を用いてこの考えに至ります。しかし、煉獄も存在すること、つまり、死んだ後の清めの状態も存在することを教えてくれるのは、カトリックの宗教だけです。煉獄は過渡的な状態であり、霊魂は極度の苦しみの状態にありますが、これは地獄のような罰の苦しみではなく、清めの苦しみです。つまり、ある時点で煉獄は終わり、その後に霊魂は天国に行けるということです。したがって、煉獄の苦しみは、地獄の終わりのない苦しみとは、何の関係もありません。
2)小罪
ですから、死んだ後には、二つの決定的な状態である天国と地獄、そして、一つの過渡的な状態である煉獄があるのです。多少逆説的に思えるかもしれませんが、天主に賛成か反対か、天国か地獄か、という、二つの選択肢しか、存在しないのでしょうか。この第三の可能性が存在することを理解するには、私たちが日常的に経験すること、すなわち小罪の経験に立ち返るだけでいいのです。実際、天主を拒絶する大罪と、天主を完全に受け入れて罪のない状態である聖性があります。しかし、小罪も存在しており、この小罪は人間に特有のものです。この罪によって、私たちは天主を拒絶するわけではないものの、それでも天主から距離を置いたままであり、このことが天国に入ることを妨げているのです。
天使は小罪を犯すことはできません。天使は大罪を犯すか、全く罪を犯さないかのどちらかであり、小罪を知りません。しかし、人間にはこの可能性があります。奇妙に思えるかもしれませんが、私たちは、自分の日常の経験に目を向けるだけでいいのです。私たちは皆、次のような、ごく単純な経験をしています。何かが欲しいのに、そのために必要なことをしません。例えば、外国語を学びたいのに、一生懸命に努力しません。目標はあるのに、それを達成するために必要なことをせず、怠惰、不注意、気が散るといった経験をしたことがない人はいないでしょう。これは非常によくある経験であり、これが小罪なのです。これは、人間的な矛盾です。私たちは天主を愛していますが、その愛に完全に沿った行動をしているわけではありません…しかしながら、その愛に直接反しているわけでもないのです。これらはすべて、私たちの小さな利己心や愛徳の欠如、また他人や天主に注意を向けなかったり、弱さや怠惰から自らに許している小さな欠点だったりします。童貞聖マリアを除いて、すべての人はこの小罪の犠牲者です。実際、人間は生涯を通じて大罪を避けることは可能ですが、小罪を避けることはできません。もし私たちが、天使のような純粋な霊であれば、大罪しか犯せませんが、私たちには肉体と霊魂があるため、小罪を犯す可能性があるのです。
3)小罪との戦い
小罪こそが煉獄の原因であり、煉獄には、自分の罪を償うために耐えなければならない苦痛が伴います。今日、私たちは、自分を小罪から清めている亡くなった人々のために祈りますが、私たちも、自分自身の生活、そして自分自身の愛の欠如を思い起こすのです。
注意して考えてみましょう。私たちは天主を愛し、全力を尽くして天主の掟に逆らうことのないよう努めますが、天主以外の多くのことに関心を抱いています。私たちは天主を愛していると言い、ある意味でそれは真実ですが、このことからそのすべての結果を引き出しているわけではなく、生活の一部を天主の光の外に置いています。これは、余暇活動でよくあることです。リラックスすることは正当なことですが、時には、天主に反していなくても、天主とは無関係な方法でリラックスしてしまうことがあります。同じことが、私たちの身分に応じた義務にも当てはまります。私たちは、身分に応じた義務に直接反することは何もしませんが、その義務を果たす際に、やり方が怠惰で、熱意もなく、優先もさせないことがあります。これが小罪であり、煉獄の存在理由なのです。
親愛なる信者の皆さま、私たちが死者のために祈るのは、死んだ後、苦しみを通して清められる状態、つまり私たちが「煉獄」と呼ぶ状態に至る可能性があるからです。この苦しみによる清めの原因は小罪です。これは、私たち自身の小罪、つまり天主に直接逆らうことがなくとも、生活において天主を顧みないあらゆる時のことを思い起こさせるはずです。小罪と戦うことでこそ、私たちは煉獄の苦しみを避けることができるのです。煉獄にいるあわれな霊魂のために祈りましょう。そして、私たちがこれらの苦しみを受けることなく、死を迎える日に天国に直接入ることができるように、勇気を持って小罪と戦いましょう。