七旬節の主日の説教―私たちは最後の時にいる(大阪)
ぶどう畑の労働者
七旬節の主日の説教―私たちは最後の時にいる(大阪)
2026年2月1日 イヴォン・フィルベン神父
七旬節の主日の説教―私たちは最後の時にいる(大阪)
親愛なる信者の皆さま、
スポーツで競技を経験したことのある人ならご存じでしょうが、勝つために大切なのは、筋肉の力ではなく、まずは精神力です。例えば、走るときに差をつけて勝利できるようにするのは、最後まで走り遂げようとする意志です。今日の七旬節の主日に、教会は、私たちに対して、心を働かせるように、つまり回心のための適切な心構えを持つように求めているのです。
四旬節の前に、教会は、四旬節の準備のための三つの主日を定めています。それは、私たちに、回心のための適切な心構えを持つようにさせるためのものです。実際、もし私たちの四旬節が、外的な行いに限定されているなら、私たちにはあまり役に立ちません。回心は心の中から始まります。ですから、主がエルザレムで中風の人に出会われたとき、「治してほしいか」(ヨハネ5章6節)と尋ねられました。これは、四旬節の前に私たちに尋ねられるのと同じ問いです。
今日、教会は、私たちが非常に大切なことを理解するのを助けて、私たちに変わる動機を与えようとしているのです。その動機とは、「私たちは終末の時代にいるのであり、二度目の機会も二度目の好機もなくなるだろう。今変わらなければ、手遅れになってしまう。私たちは選択の時にいる」ということです。
私たちは最後の時にいますから、回心を先延ばしにすることはできません。この説教では、私たちがなぜ最後の時にいるのか、そしてなぜ今回心をしなければならないのかを説明したいと思います。
1)原罪
今日のたとえ話に戻りましょう。ぶどう畑の主人が、自分のぶどう畑で働く人を雇うために出かけます。実際、天主は人間を雇われるのです。創世記は、アダムが創造されたのは、労働をするため、つまり人類のために用意されたエデンの園を耕すためだったと説明しています(創世記2章15節)。聖書では、エデンの園を耕すことと天主に仕えることの両方を表すのに、同じ言葉、ヘブライ語の「アヴァド」(avad)が使われています。天主は、人間に労働をさせて、その労働が天主に栄光を帰すようにされました。肉体と霊魂で構成された被造物、物質と霊である被造物として、人間の使命は、荒れ野を耕して美しく調和のあるものにすることで、創造物が天主に栄光を帰すことができるようにすることでした。
しかし、人間はこの労働を拒み、創造物を自分の利益のために利用することを好みました。天主と天主の計画を拒絶したのです。これが原罪です。この罪は、アダムとエワが、人類の歴史のまさに始まりにおいて犯した歴史的な出来事です。人間は天主のために働くことを拒み、天主から離れて自分のために生きることを望んだのです。
2)救いの歴史
次に、今日のミサの福音で語られているたとえ話です。天主は人間を雇うのを諦められませんでした。原罪の後でさえ、天主はアダムとエワを見捨てず、彼らに「蛇の頭を踏み砕く」(創世記3章15節)救い主を約束されました。アダムとエワの罪の後、彼らはエデンの園から追放され、最初の二人の息子アベルとカインの死がありましたが、アダムとエワはセツを生み、物語は再び始まります。これが、このたとえ話の1時です。ユダヤの時間の数え方に従って、1時、3時、6時、9時、11時と分けられています。これは現代の午前7時、午前9時、正午、午後3時、午後5時に相当します。この地方では、収穫期には夕方は午後6時頃になります。
教父たちによれば、これらの時は、救いの歴史における各段階に対応しています。夜明けは、先ほどお話ししたアダムへの約束と新しい子孫という賜物です。3時は、ノアの約束と洪水後の最初の契約です。6時は、アブラハムの召命です。9時は、モーゼの召命です。少し待ってから、最後の時についてお話ししましょう。
夕方の前にあるこれらの時は、旧約の時、すなわち啓示が展開していく時です。天主は、人間に少しずつ語りかけられ、徐々にご自分を理解させられ、人間を雇ってご自分の民の太祖、預言者、立法者とさせられます。これが、旧約聖書に記録されている救いの歴史であり、おもにユダヤ人の間で起こることです。
3)最後の時
しかし、9時を過ぎても、まだ雇われていない労働者がたくさんいました。「どうして一日中、何もせずにここに立っているのか」。彼らは答えました。「誰も雇ってくれないからです」(マテオ20章7節)。それまで天主は、ユダヤ人だけを雇っておられましたが、地上にはまだ、天主のぶどう畑のために雇われていない民がたくさんいました。日本人は、天主がまだお召しになっていない民の中にいました。これらの民は11時に雇われました。この11時とは、私たちの主がこの地上に来られ、十字架上で亡くなられ、カトリック教会が創立されて宣教のために全世界へ遣わされる時です。「あなたたちも、私のぶどう畑に行け」(マテオ20章7節)と、私たちの主は、日本人、中国人、アフリカ人、ヨーロッパ人など、洗礼を通してカトリック教会に入らなければならないすべての民に語りかけられるのです。
私たちはもはや準備の時代、イスラエルの民と旧約聖書の時代にいるのではなく、成就の時代にいるのです。次のことを理解することは非常に大切です。「十字架の後には何も新しいものはなく、天主は私たちの主においてすべてを語り、啓示された」。ですから、イスラム教のように、事後に、私たちの主の言葉や行いを修正すると主張する宗教は、偽りのものです。私たちが生きているこの時代は、教会が創立されたこの11時と、この世の終わりとなる最後の時の間です。この世の物事は変化し続け、教会の偶発的で人間的な出来事は、最後には変化するかもしれませんが、根本的に新しいことは何も起こらず、新しい使者は現れません。ですから、私たちの主イエズス・キリストを拒む人々には、新たな機会はないのです。私たちはもう、天主を拒絶した後に回心して救われたアダムとエワのような状況にはありません。二人はまだ準備の時代にいました。私たちはそうではありません。私たちは最後の日々に生きており、私たちの主イエズス・キリストを拒絶する者はすべてを拒絶し、すべてを失います。ユダを見てください。ユダは主を拒絶し、今は地獄にいます。ですから、私たちの主イエズス・キリストを拒む者すべてにも、同じことが起こります。彼らは地獄に行き、二度目の機会はないでしょう。私たちも不忠実であれば、二度目の機会はないでしょう。
親愛なる信者の皆さま、教会は私たちに、七旬節の季節の初めにこのたとえ話を聞かせ、回心が緊急に必要であることを理解させてくれます。決して回心を後回しにしないようにしましょう。なぜなら、二度目の機会はなく、私たちは最後の時にいるからです。この習慣的な小罪はそれほど深刻なものではない、後で対処できるものだ、などと、自分に言い聞かせてはなりません。家具に埃が積もっていても、後で掃除しようと自分に言い聞かせるようなものです。そうではありません。今こそ行動しなければなりません。時は刻々と過ぎており、何も隠すべきではありません。したがって、四旬節の始まりが近づいていますから、この心構えから始めましょう。