七旬節の主日の説教

ソース: FSSPX Japan

金の子牛の礼拝

七旬節の主日の説教

2025年2月16日 沖縄 ピーター・フォルティン神父

私たちは、聖パウロが今日の書簡で述べている選ばれた民族、行くべきところ、水を飲めるところを探す民族のように、荒れ野をさまよう者です。この書簡は、数週間後に始まる四旬節の時期の準備をするためのものです。自分の行くべき方向を決める時期です。この荒れ野は恐ろしいところです。世俗化が急速に進み、天主から遠く離れているこの世を見るだけで分かります。世俗化に続いて起こる混乱の中で、多くの霊魂が落胆し、迷っている状態なのです。私たちは常に天主の御旨に沿うよう努めなければなりませんが、自分の努力に頼りすぎてはならず、自分の弱さを忘れてもなりません。私たちは常に天主の方を見ていなければならないのです。

おそらく、旧約聖書の選ばれた民の苦闘は、私たちのものと似ているでしょう。また、彼らがエジプトから救い出された背景は、いくつかの面で、私たちが霊的に経験することと似ています。選ばれた民がエジプトから救い出されたことは、「天主が力強い御手をもって選ばれた民を救われた」と要約できます。その意味は、天主が常にそばにおられても、私たちは天主に頼らなければならないということです。

選ばれた民はエジプトで繁栄し、人口を大きく増やしたため、ファラオは恐れを抱きました。そのため、ヘブライ人全体が奴隷とされて、偉大なるピラミッドや都市を建設しました。手短に言えば、ヘブライ人は400年にわたってひどい抑圧を受けていたため、天主が民を救うために、しもべモーゼを立てられるのです。

このヘブライ人がエジプト人に奴隷にされたことは、霊的な意味で、罪と悪魔の奴隷にされることと似ています。ファラオは非常に高慢な男で、ヘブライ人が礼拝するために去っていくことを許しませんでした。天主は、ファラオをなだめすかしてヘブライ人を解放させるために、エジプトに10の災いを送られます。ファラオの家を含むエジプト全土の初子が死ぬという最後の災いになってやっと、ファラオはヘブライ人が去っていくのを許したのです。

選ばれた民がエジプトを去っていくと、ファラオの軍隊に追われました。ヘブライ人の背後には紅海があったため、天主はしもべモーゼを通して紅海の水を分けられ、ヘブライ人は両側に水の壁がある乾いた土地を歩いて通ることができました。エジプト人が追ってきたため、天主はしもべモーゼを通して水を元に戻され、ファラオの軍隊、騎手、馬、戦車を滅ぼされました。この水を通ることは、洗礼の秘跡のかたどりであり、ファラオの軍隊を滅ぼしたことは、霊的な意味で悪魔の力を打ち砕いたと取ることができます。私たちにとっては、霊的に、真に、洗礼を受けて、新しい命を始めることです。

この大勝利の直後、モーゼは民をシナイの砂漠に導き、山に登って40日間祈ります。民はすぐに天主とモーゼを忘れて遊びたわむれ、それからすぐ、天主への礼拝を放棄し、金の子牛の形をした偶像に頼りました。

天主のしもべモーゼに反抗する一派が現れます。大地は数千人をのみ込み、彼らは、地面に現れた火を噴く裂け目に直接落ちていきます。信じられないことです。それまでずっと、天主は彼らとともにおられ、昼は雲で、夜は火の柱で御自身を現されていたのです。落ちていく者たちは、何と不敬で、恩知らずで、愚かなのでしょうか。これは、本気で回心しようと考えなかった霊魂たち、あるいは罪の生活を変えようと望まなかった霊魂たちを象徴しているのです。

別の例では、民がつぶやいて食べ物を求めます。この状況で、天主は民を罰せられるのではなく、民にマンナを与えられます。マンナは、ご聖体のかたどりであって、民が荒れ野を通るのを見守り、今日の私たちカトリック信者が現代の荒れ野を通るのを見守ります。さて、民が最後にたどり着いた岩は、私たちの主と主の教えを象徴しています。そこから流れ出る水は恩寵と命を象徴しており、約束の地まで民の命を支えるのです。

ヘブライ人は、天国のかたどりである約束の地にたどり着くまでの40年間、さまようことになります。主は、この民を、エジプトで捕らえていた者たちから強い御手によって連れ出され、ファラオの軍勢から救われ、民に指針である律法を与えられ、マンナという食べ物を与えられ、モーゼをご自分の代理人として御自らが導く者となられます。天主が肉体的なレベルでヘブライ人になさったことは、霊的に私たちにしてくださることの象徴であり、それはヘブライ人が受けたものよりもはるかに大きな援助なのです。

選ばれた民は荒れ野を通って、天主を信頼すること、天主が私たちを助けるためにいつもそばにいてくださること、自分を信頼してはならないことを学ばなければなりませんでした。ですから天主は、私たち一人一人にそうしてくださるように、この世を通る民を清められるのです。良き四旬節になるよう、祈り求めましょう。私たちが、荒れ野を通ってさまようヘブライ人のように、立ち止まったり、気を散らしたり、自分に頼ったりせずに、私たちの主に従い、完全に主に頼ることができますように。