七旬節:悔悛への招き:賞を受けるために走れ

ソース: FSSPX Japan

2025年2月16日七旬節の主日、聖母の汚れなき御心聖堂(大阪)での説教

トマス小野田圭志神父

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、
今日は2025年2月16日、七旬節の主日です。

【1:七旬節】
七旬節とは、復活祭の約70日前(正確には今日を入れて64日)から始まります。
今年の復活祭は、4月20日です。
七旬節というのは、イスラエルの民が天主に罪を犯したために、その罰として、約70年の間、バビロンの捕囚を味わったことを思い出させるためにあります。

考えてもみてください。天主から特別に愛されて、選び抜かれた民、エルサレムの神殿で、モーゼの規定通り、日々、唯一の真の天主ヤーウェに、いけにえをそして祈りを捧げていたはずの民でした。しかし、残念ながら生ぬるい生活を送っていました。

そのため、紀元前597年、異教のバビロニアという国によって、ユダ王国は滅ぼされました。ユダヤの民は、祖国を失ってしまいました。エルサレムの神殿も破壊されました。財宝は奪われました。そして、王族、貴族、指導者たちは皆、異教のバビロンの首都に強制的に移住させられました。
そういうことがあり得ると、いったい誰が想像したでしょうか?

黙示録にはこうあります。
「私は、愛するすべての者を、責めて罰するのであるから、あなたも、熱心にくいあらためよ。」と。
聖パウロもこう言っています。
「主は、愛するものをこらしめ、受けいれる子を全てむち打たれる」と。
ですから、聖パウロは言葉を続けて、
「あなたたちが試練をうけるのは、こらしめのためであって、天主はあなたたちを子(子供)のように扱われる。父からこらしめられない子(子供)があろうか。
だれにも与えられるこらしめを、もし、受けなかったなら、あなたたちは私生児であって、真実の子(子供)ではない。」と。

旧約のイスラエルの民は、罪を悔い改めて、罪に泣きました。そして、主に罪を犯したことを痛悔しました。エルサレムに帰還することを祈り求めました。
こうして約70年の祈りの後、ついに祈りが聞き入れられ、バビロニアはペルシアによって滅ぼされたので、ペルシアの王はイスラエルの民を赦し、エルサレムへ帰還することが許されたのでした。そして、イスラエルの民は、もう一度エルサレムに神殿を再建することができました。

これは、私たちにいったい何を意味しているのでしょうか?
私たちの今住んでいるこの世は、私たちの本当の祖国ではないということです。
私たちは流されの身、流刑の身であるこということです。
私たちは、ついには天国(天のエルサレム)に行かなければなりません。
天国こそ、私たちの本当の祖国であるということを教えています。
ですから私たちは、あたかもバビロンに流されたイスラエルの民であるかのようです。

教会は、私たちが天上の至福にいたるために、その邪魔物を取り除くように、つまり、障害である罪を取り除いて、罪を悔い改めて、悔悛をするようにと招いています。
教会は、七旬節を通して、私たちが実はキリストから遠く離れて生活しているのではないかと、疑問を投げかけています。
私たちの生活はこのままで良いのだろうか、生ぬるい生活を送ってはいないだろうか、罪を悔いて、罪に泣くことによって、ついには復活の喜びを深く味わうことができるようにと準備させています。

ですから、七旬節から復活祭まで、罪を悔い改めるようにと、悔悛の精神へと招く意味で祭服は紫です。ミサでは、グロリアとアレルヤは唱えなくなります。
確かにまだ四旬節までは、祭壇にはお花が飾られ、オルガンの音色は響きますが、しかし、教会は、四旬節を準備させるように、私たちが天の祖国をひたすら慕うようにと気遣っています。心の準備を始めさせようとしています。
私たちは、天国に巡礼している身であるからです。どうしても巡礼の究極の到達点、天国にたどり着かなければならないからです。

【2:七旬節の書簡】
ですから、今日、教会は、その書簡で聖パウロの言葉を思い出させます。
まさに、この地上に生きる私たちは、競技場の選手のようです。
考えてみてください。スポーツ選手たちは、サッカーだろうと野球だろうと、水泳だろうがスケートだろうが、勝利の冠、金メダルという「朽ちる栄光(栄冠)」のために、子供の頃から訓練をして、全てを控えて、全てを犠牲にして、熱烈にそして全力で戦いに挑みます。

しかし、私たちは、「永遠の命」という報いを受けるために、「朽ちない栄光」のために、この世という競技場で、罪と悪とに対して戦っています。
罪を犯すか否か、あるいは善を行うか否かで、永遠がかかっている戦いを行っています。永遠を決定するためのこの人生は、一度限りです。
私たちには、たった一つの霊魂しかないからです。
私たちは、取り返しのつかない競技場に、今立っています。
これは最初で最後、一発勝負の競技場です。

茶の湯では一期一会という言い方がありますが、私たちの人生は、それよりももっと真剣なお茶の湯です。
剣道であれば、竹刀ではなくて真剣勝負、生きるか死ぬかどちらか一つの戦いです。
数年前、火の中のノートルダム大聖堂から、主の茨の冠の聖遺物を奇跡的に救い出した勇敢な司祭がいましたが、「私たちの霊魂を、地獄の火から救うか救わないか」という一大事業を、この一生で行おうとしています。
私たちが全てを失うか、全てを得るかは、私たちのこの一生をどのように過ごすかで決まるからです。

イエズス様は、天国を勝ち取るためならば、必要なことを全てせよ、と言っています。たとえ大切な目であっても、もしも罪を犯させてしまうならば、抜き取ってしまえ、と。イエズス様の御言葉を引用します。
「もし、あなたの手や足が罪をつくる機会となるなら、切ってすてよ。
片手や片足で命にはいるほうが、両手両足がそろっていながら永遠の火に投げこまれるよりもよいことである。もしあなたの目が罪をつくる機会となるなら、抜き出してすてよ。片目で命にはいるほうが、両眼があって火のゲヘンナに投げこまれるよりもよいことである。」(マテオ18:)

ですから、聖パウロはこう言います。
「私はあてどなく走ることのないように走る。空を打たないように力技(りきぎ)する。私は自分の体を苦しめてこれを奴隷にする。それは、他人にのべ伝えながら、自分は除名されることのないためである。」

確かに、私たちは、洗礼の水を通して悪魔の奴隷状態から解放されました。
御聖体拝領もしています。しかし、もしかしたらと、教会は私たちに疑問を投げかけます。もしかしたら、バビロンに滅ぼされたユダ王国のように、ええわええわと生ぬるく生活してきたのではないだろうか、と。
ですから、聖パウロは、書簡でこのように警告します。
「みな海を通り、みな雲と海とのなかで、モイゼにおいて洗われた。みな、同じ霊的な食物を食べ、みな同じ霊的な飲み物を飲んだ。」

つまり、何万というイスラエルの民は、エジプトの隷属状態から解放され、紅海をわたり、天から降るマンナを毎日のように食していた、と。
それにも関わらず、約束の地に入ることができたのは、その何万人のうちのたった二人だけでした。カレブとヨズエその二人だけでした。その他は、約束の地に入ることができませんでした。
ですから、聖パウロは、さらにこう言葉を続けます。
「もしかしたら、油断していたら、自分でさえも除名されるかもしれない」と。
主もこのように言っています。今日の福音にこうあります。その結論です。
「召される者は多いが、選ばれる者は少ない。」

私たちの生活は、今までどうだったでしょうか?
教会は、私たちに疑問を投げかけます。もしかしたら、私たちはこう言っていたかもしれません。
「兄弟たちよ、私はこの世を楽しみながら、あてどなく目的もなく走る。
私は斜に構えて空を打って力技(りきぎ)する。私は自分の体を苦しめるが、体を主人のように大切にやさしく取り扱う。自分はきっと除名されることがないだろう。天国の永遠を楽しみたいけれども、そのために全力は尽くさない。そこまでやらなくても大丈夫だろう。告解の秘跡もあるし、主は憐れみ深いから。」

このような態度では、聖パウロの反対です。このような生ぬるい状態では、天主をますますお愛ししたいという熱心は、もはやありません。自分の霊魂を救いたいという気遣いはありません。隣人の霊魂を救いたいという気遣いなどは、さらにありません。

アルスの聖司祭ヴィアンネ神父様によると、このような霊魂は、ナメクジのようだと言っています。
何故かというと、地上にべったりとくっついているので、ゆっくりとしか進むことができないからです。被造物にべったりと愛着しているからです。小罪だから良いんじゃないかと、罪の機会を避けませんし、誘惑にも抵抗しません。
ですから、ともすると、ちょっとした機会で、天主に対する愛は消え失せてしまうかもしれません。
まだ祈りはしているかもしれません。しかし、それは天主への愛というよりは、習慣的に、機械的になってしまっています。

ですから、黙示録には、ラオディキアの教会の天使(つまり司教)に対して次のような警告があります。
「あなたは、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいものであるから、私はあなたを口から吐き出す。」(黙示録3:)

なぜ、私たちは生ぬるくなってしまうのでしょうか?
黙示録には、主がその理由を挙げています。それは「うぬぼれ」です。
「自分は金持ちだ、豊かになった、足りないものなどない」と自負しているからです。自分は富んでいる、満ち足りていて、天主さえも必要としない、と。
ですから、黙示録で主はこう言います。
だから「自分が本当は不幸な者、あわれな者、貧しい者、めくらで裸の者であることを知らない」と。

では、どうすればよいのでしょうか?
黙示録は、その薬(癒し方)も提示しています。
「私は、あなたに、精練された金を、私から買って富め、とすすめる」と。

「精練された金」とは、熱で清められた黄金のことです。
これは、十字架という炎によって清められた「愛徳」のことです。
また、言葉を続けて言うと、「白い服を買ってまとえ、はだかの恥を見せるな」と。
つまり、「成聖の聖寵の状態にい続けよ」ということです。
また、言葉を続けて、「目に目薬をぬって見えるようになれ」と。
これはつまり、「御受難を眼前において、私たちの救霊という現実を見据えよ、イエズス様の御受難をいつも黙想せよ」という意味です。
そして、黙示録にはこうもあります。「私は門の外に立って叩いている」と。
つまり、私たちの心の門を叩いて「さぁ、目覚めよ!」と。
天主は愛する父親として、私たちが救霊の業をするように、熱心に働くように門を叩いて招いています。「さぁ、出ておいでなさい」と。

【3:七旬節の福音】
ですから、七旬節の今日の福音で、主はこう言います。
「天の国は、ぶどう畑ではたらく人をやとうために、朝早く出かける主人のようである」と。

私たちにとって「ぶどう畑ではたらく」とは、「自分の救霊のために、一生懸命に働くこと」です。
主は、ぶどうの木の幹、私たちは、ぶどうの木についている枝、そして、ぶどうの実は私たちの愛徳の実り、善行の実りです。
ぶどう畑とは、主のカトリック教会のことです。
私たちは、良い実りをつけなければなりません。
そして、私たちの「賃金」というのは「天国」です。「救霊」のことです。

イエズスは言われます。
「もし、全世界をもうけても、自分の霊魂を失ったら、それが何の役にたつだろう。」(マテオ16:26)
主はこうも言われます。
「心要なことは少ない。いやむしろただ一つである。」(ルカ10:42)

今年の七旬節、今日から、主は私たちを招いています。
自分の永遠の救いのために熱心に働くように、"あなたたちも、私のぶどう畑に行け"と招いています。
主は、朝早くから出かけて霊魂を招きますが、日暮れでも、最後のチャンスを探して霊魂を招いています。
今まで、市場にぶらぶらとしていたのではないでしょうか?
今年の七旬節こそ、私たちにとっては、もしかしたら最後のチャンスかもしれません。実は、今年こそ、人生の日暮れ近く五時頃になってしまっているのかもしれません、最後の時なのかもしれません。
私たちは、愛する兄弟トビアスのことも考えます。
今年こそ、主の招きに熱烈に答えなければなりません。
私たちの永遠が、今年の七旬節によって決定するのかもしれません。

【遷善の決心】
では最後に、マリア様にお祈り致しましょう。
私たちが霊魂の価値、そして永遠の意味を良く自覚することができますように。
この人生の意味を、よく理解することができますように。
そして、ついに七旬節に突入した私たちは、救霊のために、熱烈に努力する決心を立てることに致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。