「求めよ、そうすれば与えられるであろう」 私たちの主のこの約束には条件が付いています
2021年5月9日 復活後第五主日
トマス小野田圭志神父 説教(テレワーク式)
ヨハネによる聖福音の続誦(ヨハネ 16:23-30)
そのとき、イエズスは、弟子らに言い給うた。「まことにまことにあなたたちに言う、あなたたちが父に求めるものは何でも、彼は私の名によって与え給うであろう。今まであなたたちは、何一つ、私の名によって求めたことがない。求めよ、そして与えられるであろう、あなたたちの喜びが満たされるように。私は、これらのことを譬(たとえ)で語った。これから、譬で語らず、はっきりと、父のことを、あなたたちに告げる時が来るであろう。その日、あなたたちは、私の名によって祈るであろう。私は、あなたたちのために父に請うとは言わない。父自らあなたたちを愛し給うているからである。あなたたちは私を愛し、私が天主から出たことを信じたからである。私は、父から出て世に来た。今や、世を離れて、父のもとに行く」。弟子たちは言った。「見よ、あなたは、今ははっきり話して、譬を言い給わない。あなたがすべてのことを知り、またあなたに問う必要がないと、今われらは、知っています。それがために、あなたが天主から出給うたことを信じます」。
愛する兄弟姉妹の皆様、
今日は2021年5月9日、御復活後第5主日です。一緒に福音の黙想をいたしましょう。
私たちの主はこう約束してくださいます。「求めよ、そうすれば与えられるであろう」(ヨハネ16:24)。ところで、この約束には条件が付いています。何故なら聖ヤコボはこう書いているからです。「あなたたちは求めても受けられない。それは、快楽についやすために、悪い意向をもって求めるからである」(ヤコボ4:3)。
そこで、今日は祈りの条件をもう一度復習してみましょう。
どのような心の状態、心の持ち方で祈るべきかを見てみましょう。
1:謙遜と痛悔
トリエント公会議の公教要理によると、祈りに必要な心の状態は、第一に謙遜、第二に痛悔です。真に謙遜で深くへりくだった心と、自らの犯した罪を認める態度で祈ることです。
謙遜については、聖書にこうあります。
「主は、謙遜な者の祈りを聞き、その祈りを軽んじられない」(詩編 101:18)。
「へりくだる者の祈りは雲を貫く」(詩編7:37)。
聖ヤコボは聖書をこう引用しています。「天主は驕る者にさからい、へりくだるものを恵まれる」(ヤコボ6:6)。天主は、傲慢な者たちの祈りを受け入れないということです。自分の力や能力に信頼して、他人よりも自分が優れていると思い、他人をさげすむような人の祈りは聞き入れらないと警告します。しかし天主は、つねに謙遜な者たちの祈りを聞き入れます。これには、遠く離れて立ち、天に目を上げることさえはばかった収税人の例や、自分の犯した罪を悔い改めて主イエズス・キリストの御足を涙で潤した罪の女の例もあります。両者共、キリスト教的謙遜が、祈りにいかに大きな重みを加えるかを如実に示しています。
聖アウグスチヌスによると、謙遜になると天主は私たちのもとにお越しになるだろう、もしも私たちが傲慢になると、天主は私たちから去って行かれる、とあります。私たちのもっている知恵や行動を誇らしく思い自分にうぬぼれるなら、天主は私たちから離れて、私たちの本当の姿、つまり無であることを思い知らせてくださいます。
しかし、どのような罪人であっても、犯した罪を思い起こして、痛悔の念を持つなら、あるいは、私たちが、主から何かを受けるに足りないことを自覚しつつ、実は祈るためにそのみ前に出ることさえ値しないと認識しつつ祈るなら、主はそのような祈りを決して拒まれることはありません。
「砕かれた謙遜な心を、天主よ、御身はさげすむことはありません」(詩篇1:19)。
2:信仰と信頼
第三に「信仰」「信頼」が必要です。
よく祈るために、堅く揺るがない信仰をもって祈ることが必要です。主は言われます。
「まことに私はいう。あなたたちがためらうことのない信仰さえもっていたら、私がいちじくの木にしたようなことができるばかりでなく、あの山にむかって『動いて海にはいれ』と命じてもそのとおりなるだろう。あなたたちが信仰にみちた祈りをして乞い求めるなら、なんでも与えられる」(マテオ)。
聖アウグスチヌスも主のこの言葉にふれてこう言います。「もし信仰が欠けるならば、祈りも消え去ってしまう」と。信仰こそ祈りの土台です。天主に聞き入れられるに値する仕方で祈るために、信じることが必要です。信仰が強められるには、今度は祈りが必要です。
聖ヤコボは「まようことなく、信仰をもって求めよ」(1:6)と教えています。
どのような罪人であっても、主に信頼をおくなら、決して捨てられることはありません。
「主に希望するものは、辱められない」(Te Deum)。
「天主を信仰せよ。まことに私はいう。この山に向かって、立って海にうつれといい、自分のいったことが、かならずそのとおりになると、ためらうことなく信じるなら、そのとおりになるだろう。だから私はいう。祈って願うことは、すでにかなえられたと信じよ。そうすればそのとおりになるだろう」(マルコ11:24)。
祈りの効果は、私たちの功徳というよりも、天主の憐れみにあるからです。
3a:私たちを愛する父親だから
私たちの主は、祈る時に「天にましますわれらの父よ」と呼ぶようお命じになりました。それは私たちが子供のような信頼をして祈ることができるように励ますためです。天主の私たちに対する優しい親のような完全な憐れみを思い出させるためです。
天主が人々のことをお忘れになることはありえません。それは、天主に対するこの上ない侮辱を為すこととなります。
エゼキエルの書には「民が『主は私たちを見ておられない。主は私たちを見放され、国を捨ておかれた』と言ったので、天主はお憤りになった」とあります。
イザヤ書にもこうあります。「シオンは言った、『主は私を見捨て、私を忘れられた』と。女が、その乳飲み子を、母がその懐の子を忘れようか。よし忘れるものがあっても、私はおまえを忘れない。見よ、私はおまえを手の平に刻みつけた」と。
天主は、人間がたとえ罪を犯しても、人間のことをお忘れにならず、つねに慈父の愛をお示しになっています。
アダムとエワが罪を犯して、天主は人祖を罰しなければならなくなった時でも、アダムとその妻とのために皮衣を着せて、天主が人々をお見捨てになることは決してない印としました。
キリスト者は、天主の似姿に創造された人間として天主を父としてもつのみならず、洗礼を受けることによって、天主の本当の子供、養子になりました。
聖ペトロも「あなたたちが新たに生まれたのは、朽ちる種によるのではなく、永遠に生きる天主のみことばの朽ちない種による」と教えています。
聖パウロも「あなたたちは、再び恐れにおちいるために奴隷の霊を受けたのではなく、養子としての霊を受けた、これによって私たちは『アッバ、父よ』と叫ぶ」(ローマ8:15)。
ですから、私たちは祈る時、愛、敬虔、従順、崇敬の念を込めて、大きな希望と信頼とをもって、祈るようにいたしましょう。
逆境や苦難の時も、苦しみを通して地上への愛着を捨てさせ、永遠の滅びから救われるように、私たちを愛し給うがゆえに、天主は嫌々ながらも私たちに罰を与えることがあります。そのような時でも憐れみを取り去られることは決してありません。黙示録にはこうあります。「私は愛する者を責めて罰する」。
旧約の義人ヨブはこう言っています。「主は懲らしめた後に助け起こされ、むち打ったその同じ手で癒される」と。
聖パウロもこう言います。「主は愛する者をこらしめ、受け入れる子をすべてむち打たれるからである。あなたたちが試練を受けるのは、懲らしめのためであって、天主はあなたたちを自分の子のように扱われる。もし懲らしめを受けなければ、あなたたちは私生児であって、真の子ではない。また、あなたたちを懲らしめる肉体の父親を敬っていたのなら、霊の父には、命を受けるために、なおさら服従しなければならない」(ヘブレオ)。
3b:私たちを愛するキリストの執り成しがあるから
聖ヨハネは、こう言います。「私たちは御父のみ前に一人の弁護者をもっている。それは義人のイエズス・キリストである。彼は、私たちの罪のための執り成しのいけにえである」。
聖パウロもイエズス・キリストについて「死んでよみがえり、天主の右に座し、私たちのために執り成してくださる」と言います。
私たちは、願うものを受けるのに値しないとしても、私たちのこの上ない執り成し手である主イエズス・キリストゆえに、イエズス・キリストをとおして、イエズスの聖なる名前において、ふさわしく祈り求めるなら、全ては与えられると、深い信頼を抱かなければなりません。イエズス・キリストは御自分の約束を破る方ではありません。
3c:愛である聖霊が取り次いでくださるから
聖パウロは、聖霊が「筆舌に尽くしがたい嘆きをもって、私たちのためにとりついでくださる」と教えています。
4:堅忍
第四に、祈りを生まずたゆまずにする必要があります。祈りは天主に対する「暴力」で、懇願の祈りは天主を「動かす」効果を持つからです。
聖ルカの福音によれば、主の祈りを教えられた後、イエズス・キリストはこう言われました。「あなたたちの中のだれかに友人があるとして、ある夜、その友人がたずねてきて、『友よ、三つのパンをかしてください。友達が旅行で来たのですが、その人にやるものがないので』といったとする。その人が中から、『わずらわしてくれるな。もう戸をしめて、子どもといっしょに床にはいったから、起きてそれをあげるわけにはいかない』といったが、なお、叩きつづけているなら、私はいう。友人であるから起きてそれをやるのではないにしても、少なくともわずらわしいので、起きて望みのものをやっただろう。私はいう。求めよ、そうすれば与えられる。さがせ、そうすれば見いだす。叩け、そうすれば開かれる。求める人はうけ、さがす人は見いだし、叩く人は開かれる」。
聖母
最後に聖母を通して祈りましょう。イエズスは聖母を敬うことを喜ばれるので、全ての恵みは聖母の手を通して私たちに至ることをお望みだからです。聖母がイエズスに願うことは、必ず聞き入れられるからです。聖母は私たちの祈りをいつも耳をそばだてて聞いておられるからです。