六旬節の主日の説教―カトリック司教の必要性(2026年、大阪)

ソース: FSSPX Japan

ルフェーブル大司教

六旬節の主日の説教―カトリック司教の必要性(2026年、大阪)

2026年2月8日 ブノワ・ワリエ神父

カトリック司教の必要性(2026年、大阪)

親愛なる兄弟の皆さま、

この六旬節の主日に、聖にして母なる教会は、私たちの前に、種まく人のたとえ話を提示しています。私たちの主は、「種は天主の御言葉である」と説明しておられます。生ける、永遠の、そして不変の御言葉、つまり、御托身になった聖三位一体の第二のペルソナです。この天主の種は、その本性によって、御自らの内に、天主の命と実りのすべてを内包しています。それは、御托身になった真理なのです。

しかし、このたとえ話で何が分かるでしょうか。種の運命は土壌に左右されます。ある種は、道のかたわらに落ちて、悪魔にさらわれます。ある種は、岩の上に落ちて、根がないため枯れてしまいます。ある種は、この世の煩いや富という茨で窒息します。そして最後に、ある種は良い土地に落ちて、百倍の実を結びます。

親愛なる兄弟の皆さま、今日(こんにち)の教会の風景を見渡してください。信仰の土壌そのものが毒されています。聖パウロが「健全な教理」と呼ぶものは、拒絶されたり、軽んじられたり、あるいは内部から巧妙に腐敗させられたりしています。天主の種は、信仰と道徳に関する明確で不変の天主の御言葉なのですが、その正当な地位を組織的に否定されています。現代の誤謬によって踏みにじられたり、引き抜かれたり、あるいは回心を求めない偽りのあわれみの中で枯れるに任されたりしています。現代世界との妥協という茨が非常に激しく生い茂っているため、多くの場所で福音の光はほとんど見られなくなっているのです。

この天主のたとえ話において、種まく人とは誰のことでしょうか。それはキリストです。そして、キリストは、この聖なる種を時の終わりまで増殖させるために、誰に託されたのでしょうか。それは、使徒たちと、その後継者である司教たちです。これこそ、彼らの第一にして譲ることのできない使命です。聖パウロが司教ティモテオとティトに与えた訓戒に耳を傾けてください。「御言葉を宣教し、よい折があろうとなかろうと、繰り返し論じ、説得し、戒め、励まし、絶えず忍耐強く教えよ」。

宣教し、戒め、励ませ。これこそが、種の守護者である、司教の三つの義務です。

第一に、健全な教理を、純粋かつ完全に宣教することであり、減らしたり、改変したり、あるいは好みに合うような形にしたりすることではありません。第二に、誤謬と罪を戒めること、群れを狼から守ることであり、それは、たとえ狼が聖職者の服を身に着けていたとしても、です。第三に、信者を聖性へ向かうよう励ますこと、喜びと忍耐をもって御言葉を受け入れる霊魂という良い土地を耕すことです。

では、飢饉の時代なったとき、パンの飢饉ではなく、主の御言葉を聞くことの飢饉の時代になったとき、司教はどうすべきでしょうか。種を耕すべきまさにその人々が、組織的に種が実らないようにしているのを目にしたとき、司教はどうすべきでしょうか。教会自身の法と長い聖伝は、緊急事態の原則を認めています。教会の「最高の法」である霊魂の救いが危機に瀕し、通常の司牧的手段が妨げられたり腐敗したりしたとき、特別な措置が許されるだけでなく、義務となるのです。

聖ピオ十世会が7月1日に実施する司教聖別は、1988年の司教聖別と同様に、司牧上の緊急事態を深刻に考慮しつつ捉えなければなりません。この司教聖別は、反抗の行為ではなく、忠実な行為です。種まく人の任務の継続を確実にするための緊急手術です。この司教聖別は、聖パウロの委任、つまり、健全な言葉を模範とし、委ねられた良いものを守り、妥協もなく、曖昧さもなく、信仰の破壊に加担することもなく、宣教し、戒め、励ませという委任に沿った唯一の目的を持つ司教たちを残すために、執り行われるものです。また、私たちには、聖香油を祝別し、堅振の秘跡と叙階の秘跡を執行するためにも、司教が必要です。

「しかし、教皇様の委任はどこにありますか」と叫ぶ人もいるでしょう。まず第一に、教皇様は、最終的に聖ピオ十世会総長と謁見して、要請した許可を与えてくださるかもしれません。しかし、いずれにせよ、家が火事になったとき、消防署長が不作為あるいは共謀によって火を燃え広がらせていたとしたら、その家の父親は、燃えさかる建物から子供を連れ出すのに、許可を得る必要があるでしょうか。その許可は、愛徳という自然法、すなわち「私の羊を牧せよ」という天主の委任に含まれています。何十年にもわたって公に明らかだった緊急事態が、そのための裁治権を与えているのです。霊魂の救いが、それを要求するのです。

親愛なる兄弟の皆さま、

ですから、教皇様、私たちの総長、そして新しい司教、真の牧者となるために選ばれる候補者たちのために祈りましょう。

霊魂たちは、真の天主の種、つまり、完全なカトリック信仰と有効な秘跡を切実に必要としています。同時に、私たちは、天主の恩寵を受け入れやすい「良い土地」となるように努めなければなりません。

現代の誤謬という毒を拒絶し、聖伝の典礼とカテキズムに深く根を張り、私たち自身の生活の中にある、この世的な部分という茨を窒息させるために、剛毅の恩寵をくださるように祈りましょう。謙遜に聖なる種を受け、勇気をもってそれを守り、忍耐をもって実を結ばせましょう。アーメン。