六旬節の主日の説教―教会の基盤とは何か(大宮)
ルフェーブル大司教
六旬節の主日の説教―教会の基盤とは何か(大宮)
2026年2月8日 イヴォン・フィルベン神父
六旬節の主日の説教―教会の基盤とは何か(大宮)
親愛なる信者の皆様、
皆様は既にニュースを耳にされているでしょう。聖ピオ十世会の総長が7月1日に新司教を聖別することを決定しました。本日は、今日のミサについてコメントする中で、この件について少しお話ししたいと思います。
聖ピオ十世会の上長の決定を理解するには、教会の神秘を理解しなければなりません。この決定に関して、離教とか不服従などといった批判を耳にしたことがあるでしょう。そこで私は、この決定を理解するために、少し立ち止まり、教会の神秘に立ち返ることを提案します。
教会の神秘、すなわちローマ・カトリック教会、すなわち私たちの主イエズス・キリストの唯一の教会の神秘を、聖パウロ以上に説明できる人物はいるでしょうか。このミサの書簡に基づき、私は次の問いに答えたいと思います。「教会の基盤とは何か?」
まず、この問いに対する二つの誤った答えを提示し、次にカトリック的な答えを提示します。
これは、聖ピオ十世会の総長の決定をより深く理解する助けとなるでしょう。
1)二つの誤り
聖パウロは、自身のアイデンティティーの二つの要素、すなわちユダヤ人であること、そして深遠な霊的体験をしてきたことを挙げています。しかし、彼はこれらの要素を重要視しておらず、それらが彼をキリスト信者たらしめるものではないと考えています。
聖パウロのユダヤ教に戻りましょう。確かに、聖パウロはエリートのユダヤ人であり、両親にエルサレムに送られて、当時最も重要なラビの一人であったガマリエルのもとで学んで以来、ユダヤ教の最も純粋な伝統の中で育てられました。彼はラビとして輝かしい経歴を築くこともできたでしょう。しかし、フィリピ人への手紙の中で彼が述べているように、彼にとってこれは重要ではありませんでした。彼はこれらすべてを「芥」とみなしたのです(フィリピ人への手紙 3:8)。これは、教会が民族への帰属ではなく、イエズス・キリストへの信仰に基づいて築かれていることを示しています。これが、教会と旧約聖書のユダヤ教、そして教会とあらゆる異教との間の大きな違いです。これらの後者の宗教はすべて、特定の場所、特定の国、特定の民族に限定されており、根本的に国民宗教です。カトリック信仰は健全で節度ある愛国心を否定するものではありませんが、それは民族的または文化的な所属に基づくものではありません。
次に、聖パウロは自身が経験した非常に深遠な霊的体験について言及しています。宗教的、神秘的な体験に関しては、彼は誰からも学ぶべきものはありません。この手紙の中で、彼はあまりにも驚異的で、言葉で表現することさえできない神秘的体験を思い起こさせています。彼は「人に話してはならない、いい表わせないことばを聞いた」(コリント後12:4)と説明しています。彼は「第三天にまで上げられた」(12:2)と述べています。しかし、聖パウロはこの体験を自慢するのではなく、重要ではないと述べています。「自分の弱さだけを誇る」(12:5)。そして、彼はどの手紙においても、この体験について二度と言及しません。
信仰において、霊的体験に導かれることは危険です。プロテスタントの異端はこのように始まりました。マルティン・ルターは、カトリックの信仰が自分自身の主観的体験と一致しなかったため、それを放棄しました。同様に、第二バチカン公会議の改革後の教会においても、あらゆることはしばしば霊的体験の問題となり、「人はイエズスを体験しなければならない」と彼らは言います…。
2)使徒の教えへの服従
したがって、教会は民族的所属にも霊的体験にも基づいていません。では、教会は何に基づいて築かれるのでしょうか。聖パウロはテサロニケの信徒への第二の手紙の中で、この問いに答えています。「兄弟たちよ、堅く立て。私たちが、ことばによって、あるいは手紙によって教えた伝えを守れ。」(テサロニケ後 2:15)
教会は、天主の啓示を私たちに伝える使徒たちの客観的な教えの上に築かれています。この教えは、聖パウロの手紙のような聖書を通してだけでなく、ミサの儀式やすべての秘跡といった使徒たちの口伝の教えを通しても与えられています。これを私たちは聖伝と呼んでいます。
教会は使徒たちの教えを受け、それを私たちに伝えます。したがって、教会は定義上、聖伝的です。その第一の目的は、世に適応することではなく、使徒たちの教えを忠実に、変更することなく伝えることです。
3)司教
教会における権威は、カトリック信仰を変えることなく伝えるというこの使命と常に結びついています。しかし、現代の教会において私たちは何を観察しているでしょうか。重大な教理的および典礼的な誤りが至る所に蔓延していることです。これは、新しいミサの司祭、司教、信徒全員が異端者であると言っているわけではありません。もちろん、そうではありません。私は長年、新しいミサの教会で働いていましたが、そこには誠実なカトリック信者、できる限りのことをする司祭が多くいます。しかし、誤りも多く、十分な訓練を受けていない人々も数多くいます。したがって、新しいミサの小教区に行っても、真のカトリックの教えや真の典礼を受けられるという保証はありません。それは非常に不確実であり、司祭や司教によって異なります。例えば、この小教区では聖伝のラテン語のミサが行われているかもしれませんが、将来、司祭や司教が交代したらどうなるでしょうか。誰にもわかりません。
このような状況下で、どうすればカトリックの信仰を平和に、静かに生きることができるでしょうか?それは不可能です。私たちは異常な状況にあり、偶然に良い司祭や司教に出会えることを期待して、この状況に甘んじることはできません。例えば、近所にひどい教師が多く、稀に良い教師が数人いる学校があったとしましょう。皆さまは子供をそこに通わせますか?「そこに通わせれば、運が良ければ良い教師に出会えるかもしれない。そうでなければ残念だ」と考えますか?もちろん、そんなことは絶対にしません。子供の教育は、偶然に任せておくにはあまりにも重要です。そして、私たちの救いに関しては、なおさらです。
私たちは、時を経てもカトリックの信仰と典礼を確信できるカトリックの聖堂と学校を必要としています。残念ながら、現在の教会のやり方ではそれは不可能です。例外はありますが、それは一時的なものです。
だからこそ、私たちには司教が必要なのです。司教は叙階の秘跡を執行することができ、ローマ当局の決定に関わらず、常に聖ピオ十世会に司祭が存在することを保証するからです。これは私たち一人ひとりにとって大きな安心となります。司教たちと共に、聖ピオ十世会は常に教会の聖伝を守る手段を持つことができるからです。もちろん、聖ピオ十世会の司祭たちは聖伝の唯一の守護者ではなく、完璧でもありません。しかし、聖ピオ十世会の聖堂に来れば、カトリックの説教、典礼、そして秘跡のすべてを受けることができると確信できます。危機に瀕する教会が直面する不確実な状況において、聖ピオ十世会は聖伝の安定性を確保します。そして、毎年新しい司祭を叙階できる司教たちを擁しているからこそ、それができるのです。
これは決してローマ当局への反抗ではなく、聖伝が教会の中心に戻るまで、この安定した信仰の枠組みを提供するための例外的な措置です。この修道会は離教的なものではなく、教会や教皇に取って代わるものでもありません。教会の中で活動し、不可欠な奉仕を行っています。そのために、新しい司教を必要としています。
親愛なる信者の皆様、批判に惑わされることなく、平穏を保ち、聖パウロが教えているように、教会の本質に立ち返りましょう。教会は使徒継承の啓示を客観的に伝えるため、聖伝のために存在するのです。聖ピオ十世会が教会のために活動していること、そしてローマ当局がいつの日かこれを認め、聖ピオ十世会にふさわしい敬意を払うだろうことを確信しましょう。皆様のお祈りに感謝いたします。