煉獄という主の憐れみの場所

ソース: FSSPX Japan

2023年8月13日  聖霊降臨後第十一主日

トマス 小野田圭志神父説教  聖母の汚れなき御心聖堂(大阪)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。今日は2023813日、聖霊降臨後第十一主日です。

今日は、御変容で主が私たちに見せてくださった天主の栄光を、私たちが直接、顔と顔を合わせて至福直感することができるようにしてくださった憐れみ深い愛の御業の一つ、煉獄について黙想いたしましょう。煉獄とは、私たちを永遠に幸せに至るために、私たちをそれにふさわしくなることができるように、私たちを清める所であり、そのような場所があるということです。

【私審判】

カトリック教会は、私たちが死んだ瞬間に私審判があると教えています。イエズスは「金持と貧乏人ラザロ」のたとえを教えられました。それによると私たちは死の直後に審判を受けなければならないという結論にたどり着きます。貧乏人ラザロは、死んだときに、天使たちに連れられて、アブラハムのふところ、つまり天国に入ります。金持ちも死んでほうむられると、死者の国へ行き、炎の中で悶え苦しんだとあります。つまり死ぬとすぐに審判が行われる、天国あるいは地獄に決定されるということです。

ベネディクト十二世とフィレンツェ公会議は、罪を浄められた霊魂は直ちに至福直感に入り、大罪の状態にある霊魂は地獄に投げ込まれると宣言しています。人は誰しもその霊魂が肉体を離れると、直ちに――公会議の定義によると――直ちに天主の審判を個別に受けて一生の善悪の賞罰を受けるのです。

赦されていない大罪をもった状態で死んだ者は、無限の償いを行うために、地獄に行かなければなりません。全ての罪を赦されて、天主の正義に対して罪の償いを果たし終えた霊魂は天国に行きます。

では、小罪に汚されている霊魂、あるいは赦された罪の有限の償いが果たしきれていない場合、そのような霊魂たちは、その償いを果たし終えるまで、一時的に清めの場所に行きます。これが煉獄です。

【天主は聖なるお方】

天主はあまりにも聖なる方なので、天主の聖性の輝きと比べると、真夏のギラギラとした太陽でさえも光でないかのように思われるほどです。天主の御前では、いかなる罪の影でさえも存在することはありえません。天主の御まなざしはいとも清らかでひとつの邪悪の陰さえも許容することはできません。

もしも被造物の中に少しでも邪悪があるならば、天主の聖性はあまりにも清らかなので、その償いを要求します。天主の正義は厳格な償いを要求するのです。そしてその要求は極めて恐ろしいものです。何故かというと、無限の聖性をお持ちなので、最も軽い過ちでさえも、厳格な処罰が要求されるからです。

たとえ私たちの目にとっては軽い過失だったとしても、限りなく聖である天主にとってはそうではありません。どのような小さな罪であっても、天主を無限に不愉快にさせるからです。どんなに小さな過失であっても、天主の無限の聖性の前では巨大な償いが要求されます。

そこで、たとえ大罪は赦されたとしても、罪のために私たちが当然受けるべき有限の罰あるいは有限の償いは、わたしたちはこの地上で果たし切らなければなりません。しかしもしもこの地上で有限の償いを果たし切れていない場合、もしも霊魂が汚れている場合、そのままでは天主の輝きを至福直感で見ることはできません。天国にいくにはふさわしくありません。

天主の厳格な正義は、私たちが幼子のように清さを持つこと、罪の汚れの無さを持つこと、殉教者のような犠牲、大聖人のような聖徳を要求されます。この地上において生活している間に、償いを果たしきれてないならば、どうすればよいのでしょうか?

【天主は憐れみのお方】

天主は無限に聖なるお方であると同時に、無限にあわれみ深い方であります。主の憐れみは天の高さよりも高いと詩篇にあります。主は憐れみに満ちておられると、また詩篇はいいます。ですから、主は憐れみにおいて、もしも私たちがこの地上で償いが果たせなくとも、天国に行くことができるように、特別に計らってくださいました。つまり煉獄という特別の場所を定めてくださって、わたしたちが有限の償いを行うことができる場所を与えてくださったのです。私たちには、天国に行くために七つの秘跡がありますが、聖トマス・アクィナスは、その七つの秘跡を使っても償いが残った場合、さらに第八の秘跡ともいわれるべきかのようなものが煉獄であると言っているそうです。

ですから、たとえば、この世に生きている間、醜い罪のうちに一生を過ごしてしまったとしても、償いをほとんどしてこなかったとしても、臨終の時に天主によって罪を赦されるならば、煉獄でこの霊魂が清められて、天主を間近に至福直感で見るにふさわしくなることができるのです。

しかも、この煉獄というのはさらに憐れみの御業であると言えます。なぜかというと、この世に残された私たちは死んだ人々に代わって償いを果たすことができるからです。煉獄にいる霊魂たちが早く天国に入ることができるようにその時期を早めることもできるからです。つまり、死者のために天主に祈ることができるからです。

もしも天国と地獄しかなかったならば、死者のために祈ることはまったく無駄なことのはずでした。何故かというと、すでに天国にいるのならば、そのような人のために祈ってあげる必要はないからです。むしろ祈ってくださいとお願いするほうです。もしも地獄に堕ちてしまったのならば、それは今更いくら祈っても無駄だからです。

ですから煉獄というものが存在していることは、私たちに天主がどれほど聖なる方か、またどれほど憐れみ深いかということを教えるばかりではありません。人間の最終目的である救霊がどれほど大切かということについて、またどんな小罪であっても将来厳しく罰せられるということについて教えています。さらに煉獄はこの世の栄華・華々しい栄えの虚しさ、十字架と苦しみの価値、時間のもっている価値、諸聖人の通功という神秘について、深く教えてくれています。

【世の終わり】

今日の書簡で聖パウロは、キリストが復活したことを力説しています。私たちも、終わりの日に、肉体をもって復活します。その時、義人は肉体をもって至福を楽しみます。悪人は肉体をもって永遠の罰を受けます。これこそ教会が使徒の時代から私たちに告げ、私たちがそれを受けてそれに踏みとどまった福音の教えです。

死者の復活そして最後の審判の時、さまざまなことが起こります。その内の一つは煉獄が終わりを告げるということです。

公審判の時には、二つの選択肢しか残らなくなります。一つは永遠に天国の御国を楽しむこと。もう一つは終わりない地獄の永遠の火を苦しむこと。それ以外の第三はありません。しかしこの世が続いているあいだに、煉獄が、憐れみの場所が、存在します。ファチマのマリア様は、アメリアという女の子は世の終わりまで煉獄にいると言われました。しかし世の終わりには、煉獄の存在は不要になります。

マルチン・ドス・レイス神父[Padre Martins dos Reis]は、ファチマの聖母の御出現の本の少し前に、20歳ぐらいで亡くなったこの若き女性について目立たない調査をしたことがあります。その調査によると、アメリアは「貞潔に関することで癒すことができない不名誉」な状況で死亡していました。

【煉獄の霊魂】

煉獄に行く霊魂は、聖性の状態にいます。大罪の状態で死んだのではありません。ですから天国に行くための準備として償いを果たしているのです。償いが残っているので、その残る償いを果たしているのです。天主を至福直感でまみえるには必要な程度にまで、まだ清められていないからです。

煉獄というのは、有限で、限りがあって、一時的で、そして最後には天国の至福で終わります。ところが煉獄というのは、この地上のように功徳を積むことはできません。試練の場所ではありません。功徳というのはこの世に生きている間しか積むことができません。どんなに苦しんだとしてもこの地上では功徳を積むことができます。しかし煉獄では、その苦しみがどれほど激しかったとしても功徳は摘むことはできません。

試練の時、功徳を積む時、憐れみの時であるこの世は、いまの生命が終わると、その時は終わってしまいます。そののちは天主の正義しか残りません。煉獄は、正義を全うする場所で、大いなる苦しみの場所で、煉獄の霊魂たちは「暗闇」の中にいます。ですから教会は頻繁に「永遠の光を彼らに与え給え」と繰り返し繰り返し祈ります。

煉獄ではどのような清めがあるのでしょうか。どのような苦しみによって清められるのでしょうか。シエナの聖カタリナは、天主の特別なお恵みで煉獄のことを啓示で教えられました。それによると、煉獄には地獄と同じ火があるといっています。ただ、違うのはその中にいる霊魂の態度だと、その様子が違う。地獄の霊魂は天主を憎み、罪にこり固まり、失意と絶望と悪意に沈んでいます。これに反して煉獄の霊魂は天主を愛し、天国に行く希望に満ち、御旨に安んじています。

煉獄の霊魂は時として天主の許可をえて、この世に生きる人たちに現われることもあります。そして、自分のために祈ってほしいと求めた煉獄の霊魂たちも多々あります。教会は厳格な調査をしました。その結果、疑うことができないという事例がたくさん存在しています。煉獄の霊魂たちが、火に燃える自分の手の焼き跡を壁に残した、祈禱書に残した、などという例が様々にあります。それらは今でも残っています。「死んでから戻ってきた人はいないから」と思う人は、このような焼き跡を見て考えなければなりません。

聖チプリアノ、聖アンブロジオ、聖アウグスチヌス、聖ベルナルドなどは、煉獄の火の苦しみは、殉教者の受けた迫害よりも苦しみよりももっと恐ろしいと言っています。特に聖アンブロジオは亡くなった皇帝のために話した内容、あるいは聖アウグスチヌスが聖モニカのために語った内容は煉獄のことをわたしたちに伝えています。初代教会から、ミサ聖祭、つまり十字架の犠牲の再現の功徳これこそが、煉獄の霊魂たちを助けるために最も効果があると教会は教え続けています。

ですから全ての死せる信者の日である112日には、司祭はひとりずつ三回のミサを捧げるようにと教会によって勧められています。これを見ると、どれほどミサ聖祭が煉獄の霊魂たちにとって有益であるかが想像がつきます。

【遷善の決心】

では最後の遷善の決心をいたしましょう。わたしたちは先週主の変容を黙想してそれにたどりつこうとしました。それにたどり着くために特別の煉獄という場所を準備してくださった天主の憐みに感謝いたしましょう。

現代煉獄の存在を否定する方が、あるいは疑問視する方がいます。プロテスタントはこれを否定しました。プロテスタントは死者のためには祈りません。しかし私たちには教会の教えの通り、主の憐れみの御業である煉獄が存在していることを知っています。この煉獄の苦しみを避けるためにも、私たちは罪を避ける決心を致しましょう。

また煉獄にいる霊魂たちのためにもお祈りいたしましょう。特に聖伝のミサ聖祭で祈りましょう。カルメル山の聖母は私たちに約束してくださいました。もしもスカプラリオを着けているならば私たちが亡くなったその最初の土曜日に私たちを煉獄から救ってくださる、と。カルメル山の聖母に祈りましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。