煉獄は 天主の正義と憐れみの大傑作

ソース: FSSPX Japan

2025年11月3日 全ての死せる信徒の記念

トマス 小野田圭志神父説教  日本の聖なる殉教者聖堂(大宮)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日は「全ての死せる信者の記念の日」です。そのためカトリック教会は、それぞれの司祭に、三回のミサを捧げるようにと招いています。このミサは全て、煉獄で天国に行くのを待っている、苦しむ霊魂たちのために捧げられます。そこで今日は、煉獄に苦しむ霊魂について、一緒に黙想いたしましょう。

昨日、ムルー神父様が、非常に素晴らしいお説教をしてくださり、

「罪の赦しとは、天主の正義と憐れみの業である。そして、私たちもそれを真似なければならない」ということを黙想しましたが、実に煉獄も、天主の正義と憐れみの大傑作であり、私たちはそれに真似なければなりません。

では、第一の点で、煉獄はいったいなぜ、天主の正義と憐れみの大傑作なのでしょうか?

何故かというと、私たちの永遠は二つしかありません。永遠の至福・天国か、あるいは永遠の破滅・地獄のどちらかです。

天国で味わう至福には、一切の苦しみも悲しみもありません。ただただ、計り知れないほどの大きな幸せと喜び、平和があります。

対して地獄は、終わりのない、果てしなく続く苦しみと悲しみ、憎しみの連続です。

ところで、亡くなった霊魂たちのうち、特に成聖の恩寵の状態で、主のお恵みの状態で亡くなった霊魂たち、つまり、大罪を全て赦され、天国に行かんばかりの霊魂たちは、この肉体を離れ、純粋に霊的になったその時「自分が、聖なる天主を罪によってどれほど犯したか」を、はっきりと知ります。

そして、たった一つの小罪であったとしても「その悪がどれほど深かったか」を知ります。たとえ、私たちの行為と結果によって大災害が起こらなかったとしても、私たちの意向が、どれほど汚れて不純であったか、また、天主を愛するという意向から、どれほど遠く離れていたかがよくわかります。

私たちが「たいしたことないよ」とか「なんだ、これっぽっちのことを」と思ったその罪が、聖なる天主にとっては、実は非常に悪の極みであったということを、はっきり悟ります。美しい最高の愛である天主が、どれほど望ましい存在であるかを悟った霊魂は、天主の方へ行きたいと望みます。ところが、自分の犯したあらゆる罪の醜さと、その悪の深さを見て、とてもそちらへ行くことができません。

それはちょうど、磁石の磁力に引き付けられている鉄が、障害物に挟まれ、どうしてもそちらへ行くことができない。または、地上に落ちようとする重い物体が、何らかの事情で落ちることができない。もしくは、ちょうど、私たちが暗闇から太陽の下に出た時、そのあまりにまぶしい輝きで、美しい太陽を見ようとしても見ることができないかのように、天主の清さや美しさ、聖なる御方であること、その全ての良さと愛の極みに対して、自分がどれほど醜いかを深く味わい、とても天主の方へ行くことができないのです。

それはまるで、お母さんが、愛する我が子のすぐそばにいるにも関わらず、その姿を見ることもできず、会うことも叶わない。結婚したばかりの愛する夫婦が「さぁ、会いたい」と願っても会うことができないかのように、霊魂は天主を愛するのですけれども、しかし近寄れない。そうするには、自分があまりにも醜いと思い知るからです。

そこで、聖なる霊魂たちは、確かに天国へ行くことができるにもかかわらず、その喜びを味わうことができないでいます。かといって、地獄の苦しみではありません。何故かというと、地獄とは、永遠に続く終わりのない、いつまでもいつまでも、いつまでもいつまでも続く苦しみであり、果てしない悲しみですが、しかし、煉獄には清めの時期が定められています。また、地獄にいる霊魂たちは天主を憎んでいますが、煉獄にいる霊魂は天主を愛しています。

また、煉獄で味わう苦しみは、この地上の生活で味わう苦しみとも少し違います。何故かというと、この地上には、確かに悲しみもありますが、一定の喜びを味わうこともできます。しかし、煉獄の霊魂はただただ、愛する御方である天主に会うことができないという、霊的な火の苦しみを味わっています。

そして、この地上での苦しみは、いろいろな雑念や気晴らしで和らげることができますし、友だちからの慰めもあることでしょう。しかし、煉獄の霊魂は、純粋に霊的なものだけで苦しんでいるため、それゆえに非常に鋭く、深い苦しみを負い、味わっています。しかも、一切の慰めはなく、たったひとりぼっちです。自分の周りに、誰ひとり助けの手を差し伸べてくれる霊魂たちはいないかのようです。しかし、それでも煉獄の霊魂は「天国へ行く」という希望を持っています。

このように、煉獄の霊魂が味わう苦しみは、唯一にして純粋、霊的なものであり、また、地獄とは異なり、その苦しみを味わう期間にも限りがあります。しかし、それだけの違いではありません。

私たちは、この地上で生きている間、様々な苦しみや喜びを味わいますが、それらを功徳として、天国に宝を積むことができます。しかし、煉獄では、たとえこの地上を遥かに上回る苦しみを受けていたとしても、いかなる功徳も積むことはできないのです。ただ単に、罪の償いのためだけに苦しんでいます。

聖人たちは「たとえ、この地上で殉教した人たちが受けた拷問を全て合わせても、煉獄の霊魂が、小さな小罪を償うために受ける苦しみと比べればなんでもない」と言います。また、煉獄の火は、地獄のような永遠に続く火ではないにしても、煉獄の霊魂たちを清めるための、火のようなものであると言われています。

ローマには、煉獄から来た霊魂たちが残した、火で燃やされたような手の跡など、いろいろな証拠があります。これこそ「天主の正義の業」です。しかし、煉獄とは、私たちを天国に行けるようにするため、霊魂のために天主が特別に創ってくださった「天主の憐れみの業」とも言えます。

煉獄からの手型

では、私たちはこの煉獄のために、いったい何をすることができるでしょうか?

いったい、私たちは、天主をどのように真似ることができるでしょうか?

 

かつて、ファチマで、ルチアがマリア様に尋ねたことがあります。

「ジャシンタは、天国に行きますか?」

――行きます。

「フランシスコは?」

――はい、行きます。

「じゃぁ、亡くなったアメリアは?」

――その子は、世の終わりまで煉獄にいることでしょう。

 

私たちは、煉獄にいる霊魂たちを、どうやったら助けることができるでしょうか?

そうです。私たちは、煉獄の霊魂たちを助けることができます。煉獄の霊魂は、一人ではなにもできません。

ちょうど、煉獄の霊魂たちは、福音の中に登場する、奇跡の起こる池(ヘブライ語でベザタ)のすぐ近くにいた病気の人のようです。天使が池の水を動かし、最初に入水した人の病は治癒します。しかし、福音に出てきた男は、池に入るために協力してくれるような友だちや親はいませんでした。誰もおらず、ひとりぼっちでした。ですから「ああ、今、入れば治るのに!」という状況で、誰にも手を差し伸べてもらえなかったのです。

煉獄の霊魂も、同じようなものです。もしも、私たちがミサでお祈りするならば、この煉獄の霊魂は、一刻も早く天国に行くことができます。彼らの煉獄にいる期間を短くすることもできますし、その苦痛を和らげることもできます。

もしも、私たちのお父さんやお母さんが、火の中にいて命の危険があるとしたら、「お父さん、お母さん、手を伸ばして早くこっちに来てください!」と、必死に助けようとするかもしれません。

また、もしも大切な友だちが大事故に遭って、もう助からないかもしれないという時も、私たちは、どんな危険にも身を晒して助けようとするのかもしれません。

あるいは、電車が脱線した、事故があったなど、助けを求めて苦しんでいる人々を目の前にした時、私たちは心動かされ、何とかしてその人たちを助けようとするのではないでしょうか?

煉獄の霊魂たちも、今、同じように私たちに助けを求めています。「子どもよ、息子よ、娘よ、私は今、火の中に燃えている、煉獄にいる。助けてほしい。お祈りしてほしい。ミサを捧げてほしい。」

 

イエズス様は、ある時、次のようなたとえをお話しになりました。世の終わりに、王様が善人と悪人を集めて、こう言うときがあるだろう。右にいる者には、

『選ばれた者よ、世の始めからおまえたちのために準備された天の国に入れ。何故ならば、おまえは、私が、のどが渇いたときに水をくれ、裸のときに服をくれ、困ったときに、病気のときに見舞いに来てくれた。』

「え、私が何をしたのでしょうか?」

『最も小さな者にしたことは、私にしたことだ。』

 

イエズス様は、最後の日に、私たちにおっしゃることでしょう。

『さぁ、天の国に入れ!』

「私たちが、何をしたのでしょうか?」

『最も小さな者に、煉獄の霊魂にした者は、私にしたことと同じだ。彼を助けてくれたではないか、祈りをもって。』

 

どうやったら、私たちは、その煉獄の霊魂を助けることができるでしょうか?

葬式の時に、きれいな特別なお花をたくさん買って飾ることでしょうか?

バラの花でしょうか? 蘭の花でしょうか?

残念ながら、お花は一切、役に立ちません。どんな貴重なお花でも、たとえお棺をお花で満たしたとしても、霊魂のためには何の役にも立ちません。ですから、教会は、お葬儀の時に花は飾りません。

では、きれいな記念碑を立てて、モニュメントを造って、お墓をきれいに豪華にしたら助かるのでしょうか?

その気持ちはとてもわかりますが、助かりません。救霊のためには、何の役にも立ちません。

いったい、煉獄の霊魂たちを助けるために、私たちは何をしたらいいのでしょうか?

「祈りと断食と施し」です。私たちが、煉獄の霊魂のために祈り、断食し、施しをすることによって、霊魂は非常に多くの利益と救いを得ます。特に、ミサ聖祭が、霊魂にとって非常に大きな助けになります。ですから、カトリック教会は今日、三回ミサを捧げています。そして、皆さんはこのミサに与ることで、煉獄の霊魂に大きな助けを示しています。

では、愛する兄弟の皆様、私たちは煉獄の神秘を黙想しました。煉獄の霊魂たちを、ミサによってお助けしましょう。そしてついに、煉獄の霊魂たちが天国に行くことができた暁には、天国から私たちのために多く祈り、私たちのために執り成しをしてくださることでしょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。