良き牧者の主日の説教―大聖グレゴリオの説教(2025年、大宮と大阪)

良き牧者
良き牧者の主日の説教―大聖グレゴリオの説教(2025年、大宮と大阪)
2025年5月4日 ブノワ・ワリエ神父
良き牧者の主日の説教―大聖グレゴリオの説教
親愛なる兄弟の皆さま、
1.良き牧者
「良き牧者は羊のために自分の命を捧げる」。この真理は、私たちの贖い主ご自身の模範によって証明されました。なぜなら、主は羊のためにご自分の命を捧げられ、御体と御血を、ご自分が贖われた羊の秘跡の食べ物とされたからです。
しかし、「牧者でもなく、自分の羊を持たぬ雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を捨てて逃げる」。雇い人は、実際には自分に託された羊を愛してはいません。雇い人は、霊魂の救いを求めてはいません。雇い人は、生活の快適さや生活用品だけを求めているため、自分の群れの霊的な病にも永遠の死にも心を動かされないのです。
ですから、私たちの主は、次の言葉を付け加えておられます。「雇い人が逃げるのは、雇い人であって、羊のことを心にかけぬからである」。まるで、こう言っておられるかのようです。「私の羊の牧者は、群れに無私の愛を与えなければ、羊を取り巻く危険の中で忠実であり続けることはできぬ」。
とは言うものの、真の牧者を見分け、雇い人と区別することは、牧者が特別な状況や羊の群れを脅かす危険の際に正体を現さない限り、必ずしも簡単なことではありません。よくあることですが、人々が平和と平穏によって安全な状態にあるときには、雇い人は、真の忠実な牧者であるかのように、羊を見守っているように見えるからです。しかし、狼が群れに近づいたとき、自分のことしか考えない牧者が、いかなる精神で動くのかが分かるでしょう。声を上げるべき時に黙ったままで逃げるのは、羊の群れに必要な援助も与えず、自分が羊の群れに対して与える義務のある霊的な助けも与えないからです。
2.羊
「私は良き牧者で、自分の羊を知り、私の羊もまた私を知っている」。
自分が本当に天主なる牧者に従っているかどうかを考えてみてください。主の声を聞き分け、真理が何であるかを知っているかどうかを自問してみてください。なぜなら、信仰によって真理を認識するだけでは十分ではなく、真理を心から愛さなければならないからです。そして、真理を信じるだけでは十分ではなく、真理を実践しなければなりません。聖ヨハネはこう警告しています。「『私は天主を知っている』と言いながら、天主の掟を守らぬ人は偽り者であって、真理はその人の中にはない」(ヨハネ第一書2章4節)。
良き羊について、私たちの主はこう言われました。「私の羊は私の声を聞き分け、私も彼らを知っており、彼らは私に従う。私は彼らに永遠の命を与える」(ヨハネ10章27-28節)。「私を通って入る者は救われ、出入りして牧草を見つけるだろう」(ヨハネ10章9節)。つまり、「彼らは信仰によってこの命に入り、この命から出て、顔と顔を合わせて私を見る」ということです。そして天国で、彼らは天の愛によって養われるのです。選ばれた人と常に共におられる天主ご自身が、彼らの食べ物となられます。天主に不足はありませんから、彼らの霊魂はこの天のパンで満たされ続けます。唯一、私たちの望みを満たすことのできる、この永遠の爽やかな牧草地にこそ、この世の快楽に打ち勝った人々が真の幸福を見いだすのです。
結論
親愛なる兄弟の皆さま、
今日の主日に、枢機卿たち、次期教皇、司教たち、司祭たちのために祈りましょう。そして聖ピオ十世会のためにも祈りましょう。教会は、良き牧者たちをとても必要としています。
しかし、皆さまは良き羊になるように努めてください。
良き牧者の声を聞き分け、掟を忠実に守ってください。
勝手気ままな羊のように、この世のものを望まないようにしましょう。旅路が終わりにさしかかるのも気にかけず、道にとどまってさまざまな花や野の美しさを眺めてしまうなら、愚かな旅人のようになってしまいます。私たちの望みはすべて、永遠の牧草地、つまり私たちの本当の祖国へと私たちを連れて行ってくれるものであるべきです。
そうすれば、私たちは、この世にいたときに信じていたものを自分の目で見て、良き牧者の永遠の抱擁のもとに駆けつけることができるでしょう。