クリスマスの日中のミサの説教―クリスマスの神秘(大宮)
主の御降誕
クリスマスの日中のミサの説教―クリスマスの神秘(大宮)
2025年12月25日 イヴォン・フィルベン神父
クリスマスの日中のミサの説教―クリスマスの神秘(大宮)
親愛なる信者の皆さま、
このミサは、日中のミサです。どんな意味ですか。このミサは、私たちの主がまぐさ桶にお生まれになって以来、この世を照らし続けている光を象徴しているからです。この光はまぐさ桶に留まらず、教会全体に広がります。天主は目に見えるようになられました。私たちは天主を見ることができるのです。これこそが、クリスマスの神秘なのです。
天主は目に見えるようになられました。これは何を意味し、私たちにとってどのような結果をもたらすでしょうか。
1)旧約から新約への移行
まず、このミサの書簡の冒頭を見てみましょう。聖パウロは、私たちの主の御降誕前の状況をこう描写しています。「天主は、何度もいろいろな方法で、その昔預言者たちを通じて先祖に語られた」(ヘブライ1章1節)。そして、主の御降誕後の状況を、こう描写しています。「この終わりの日々には、御子を通じて語られた」(同1章1節)。「語られた」という言葉は、どちらの場合も同じ意味だというわけではありません。主の御降誕前、旧約の時代に、天主は人々に語りかけられ、その言葉が聖書に記されることを許されました。旧約はまさに言葉の時代であり、天主を見ることはできませんが、天主の声を聞くことはできます。ですから、エルザレムの神殿には目に見える像はなく、天主のために残された場所は空虚な空間でした。したがって、天主はまったく目に見えず、天主が住まわれる神殿でさえも、天主を見ることはできなかったのです。
クリスマスの日にイエズス・キリストが御降誕になることで、すべてが変わります。聖パウロは、御子は「天主の栄光の輝き、天主の力の像」(ヘブライ1章2節)であると語っています。クリスマスの神秘によって、天主はもはや私たちに語りかけられるだけでなく、私たちが天主を見ること、天主を観想することを望んでおられるのです。これは、御托身によってもたらされた計り知れないほどの変化です。旧約の偉大な人物、モーゼやエリアといった天主に非常に近かった人々でさえ、本当に天主を見ることはできませんでしたが、私たちは天主を見ることができます。実際、私たちの主イエズス・キリストの御顔を見ることは、天主ご自身を見ることなのであり、まぐさ桶の幼子を見ることは、天主ご自身を見ることなのです。何と素晴らしい特権でしょうか!
2)ミサ
今日(こんにち)では、私たちはどのようにすれば主を見ることができるでしょうか。私たちの主は御昇天以来、もう肉体的に私たちの前にはおられません。私たちの主は、実際に天に昇られましたが、御聖体という目に見えるものを私たちに残してくださいました。
「これは私の体である」と、主は最後の晩餐で言われました。ですから、私たちがミサでホスチアを見つめるとき、天主ご自身を見つめているのです。これこそが、ミサの核心です。
もちろん、ミサには朗読と教えの第一部がありますが、これは本質的な部分ではありません。ミサの核心は御聖体であり、特にパンの聖変化です。パンは私たちの主、天主ご自身の御体となり、私たちはそれをひざまずいて礼拝します。
教会の核心は典礼、ミサ、そしてミサに関連するすべてのものです。なぜなら、私たちはそこで天主を見るからです。このため、典礼は目に見えるものであり、それには、例えば、祭服、聖具、そして聖画や御像なども含まれます。
現代の典礼に対する批判の一つは、この目に見えるという可能性が、非常に弱くなっていることです。例えば、多くの身振りが削除されたといったことです。この削除を正当化する理由は、天主の御言葉、つまり聞くものの価値を再評価するためでした。しかし、これは誤りであり、プロテスタントのやり方のように旧約に戻ることです。私たちはこの方向性に従うべきではなく、むしろ、私たちの教会や伝統的な典礼の持つ、目に見える美しさを愛さなければなりません。この点で、私たちは、常に芸術と美を重視してきた教会に従っているのです。
3)見るものに注意を払う
このことは、私たちにとって、非常に深い霊的意味を持っています。天主は御托身によって、私たちが天主を見ることができるように望んでおられます。天主は、私たちが見るものによって、私たちを聖化したいと望んでおられます。天主が目に見えるようになることを選ばれたのは、私たちが見るものによって、私たちの心を変容させたいと望んでおられるからです。私たちが天主を観想すればするほど、見つめれば見つめるほど、天主の恵みをさらに深く受けます。通常、典礼を観想したり、祝福にあずかったりすることで、私たちの心は変容させられるはずです。私たちは実際に、自分が見つめるものによって変容させられるのです。天主は目に見えるものによって、私たちの心にまで到達したいと望んでおられます。ミサのときに私の態度が観想的であればあるほど、私の霊魂はさらに聖化されます。そのため、黙想をもって、また礼拝の精神をもって、ミサにうまくあずかることが大切です。ミサのときの私たちの態度は、行われている神秘にふさわしいものでしょうか。
この原則には、もう一つの結果が伴います。それは、私たちが、見るものに注意しなければならないことです。私たちは、聖なる実在【御聖体】を観想すること・見つめることによって聖化されるのと同じように、悪いものを見ることよって害も受けるのです。罪はしばしば目から始まります。私たちは、霊魂を汚さないように、見るものに特に注意しなければなりません。そのためには、インターネットで何を見るかに、よく気をつけている必要があります。
親愛なる信者の皆さま、クリスマスは私たちを、御言葉を聞くことから天主を見ることへ、旧約から新約へと導きます。私たちは、天主が御托身になって以来、特にミサにおいて天主を見ています。私たちは、ミサの実在【御聖体】を観想するため・見つめるために注意を払っているでしょうか。ソーシャルメディアを通して自分の心に入ってくる画像に、気をつけているでしょうか。