クリスマスのあかつきのミサの説教―信仰の光(大宮)

ソース: FSSPX Japan

主の御降誕

クリスマスのあかつきのミサの説教―信仰の光(大宮)

2025年12月25日 イヴォン・フィルベン神父

親愛なる信者の皆さま。

主の御降誕、おめでとうございます。

クリスマスの三回のミサが、光をめぐる劇のようになっていることに、皆さまもお気づきかもしれません。夜は光の不在、あかつきは光の始まり、そして昼は完全な光です。夜と昼の間には、一つ中間の状態があります。自然の光は、スイッチを押せばすぐに点灯する電灯のようなものではありません。自然の光は連続的に変化するものです。今朝、私たちがお祝いしているのは、あかつきの光です。

このことを、心に留めておく必要があります。なぜなら、それがあかつきのミサの根拠となるものだからです。羊飼いたちは、クリスマスの光が照らし始めたまさにその始まりに、その光を受けます。羊飼いたちは実際、最初にクリスマスの光を受ける人々であり、最初にまぐさ桶にまで行く人々です。羊飼いたちは、夜の間に天使のお告げ、つまりクリスマス前日の福音を受けて、あかつきにまぐさ桶にまで行くのです。ですから、羊飼いたちはクリスマスの光、まだ照らし始めたばかりの光を最初に受ける人々なのです。

しかし、このあかつきの光は最初に羊飼いたちの心を照らすものであり、信仰の光なのです。これが、このあかつきのミサの意味です。クリスマスの光が世界を照らすためには、まず信仰を通して私たちの霊魂を照らさなければなりません。この説教では、あかつきのミサとの関連で、信仰の大切さを強調したいと思います。まぐさ桶にお生まれになった私たちの主が、私たちの心にもお生まれにならなければならないのです。

1)信仰は他のすべてのものの条件

このミサのテキストを、時間をかけて読んでみると、信仰への言及が数多くあるのが分かります。例えば、集祷文にはこうあります。「信仰によってわれらの心を照らすこの光が、われらの行いも照らさんことを」。羊飼いたちの決断もまた、信仰の行いです。「ベトレヘムまで行って、主がわれらに知らせてくださったこの出来事を見よう」(ルカ2章15節)。

羊飼いたちは、信じたからこそ、まぐさ桶にまで行って、私たちの主を見ることができました。すべては信仰から始まり、信仰がなければ何もできません。夜、天使の群れが突然現れたとしても、羊飼いたちが信じてまぐさ桶にまで行かなければ、何の役にも立たなかったことでしょう。

人は、信仰がなければ救われません。「信じない者は滅ぼされる」(マルコ16章16節)と、私たちの主イエズス・キリストは言っておられます。信仰という対神徳は実際、私たちの霊的生活全体の基盤です。もし信仰を失えば、希望と愛、さらに洗礼の際に授けられたすべての超自然的な徳も失ってしまいます。信仰がなければ、私たちは厳密な意味ですべてを失い、何も残りません。実際、天主を知らなければ、天主を愛することはできません。

2)知るべき内容である信仰

そして、この信仰とは内容であり、単なる感情ではありません。羊飼いたちがまぐさ桶にまで行ったのは、天使が告げた内容を信じたからです。「ベトレヘムまで行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見よう」(ルカ2章15節)。羊飼いたちは、救い主の誕生について天主が告げられたことに忠実でした。信仰は決して漠然としたものではなく、明確な内容に忠実であることです。

教会に忍び込み、信仰をキリストとの出会いなどとみなす近代主義的な信仰解釈には警戒しなければなりません。信仰をキリストとの出会いとすることは、間違いではありませんが、信仰とは知って学ばなければならない実体であるという、本質的な点を忘れると、間違ってしまいます。羊飼いたちが天使の言葉を理解できたのは、彼らがカテキズムを知っていたからです。実際、天使は御降誕の夜、羊飼いたちにこう告げました。「今日、ダヴィドの町で、あなたたちのために救い主がお生まれになった。この方こそ主キリストである」(ルカ2章11節)。「主、キリスト、ダヴィドの町」という言葉の意味を理解するには、カテキズムと聖伝を知らなければなりません。多くのカトリック信者にとって大きな悲劇なのは、彼らがもう、漠然とした、感傷的で、実体のない信仰しか持っていないことです。

この羊飼いたちに倣いましょう。信仰の内容の知識、カテキズムの知識を深めることで、信仰の徳を培いましょう。カテキズムは、子どものころにだけ学ぶものではありません。生涯を通じて学び続けなければなりません。私たちはカテキズムを何度も読み返し、また教えなければなりません。

親愛なる信者の皆さま、このあかつきのミサから、信仰の徳を思い起こしましょう。羊飼いたちの心を照らし、彼らをまぐさ桶にまで導くのは、まさにこの光なのです。この光こそが、主がまぐさ桶にお生まれになるだけでなく、私たちの心にもお生まれになることを可能にしたのです。信仰を大切にし、その信仰をカテキズムの勉強を通して育んでいきましょう。