ご聖体の神秘:御聖体は天主の愛の奇跡
2021年6月6日 聖霊降臨後第二主日 御聖体の祝日の荘厳祭
トマス 小野田圭志神父 説教 大阪(聖母の汚れなき御心聖堂)
愛する兄弟姉妹の皆様、
今日は2021年6月6日、聖霊降臨後第二主日で、御聖体の祝日の荘厳祭を行っています。
先週の主日は、三位一体の祝日で、福音では、私たちの主が「私は、世の終わりまで、常にあなたたちとともにいる」と荘厳に約束されたことを読みました。
その直後の木曜日、すなわち先日の御聖体の祝日には、主が御約束の通り、精神的に・霊的に現存されるのみならず、本当に・現実に・実体的に私たちとともに世の終わりまで御聖体として留まられている神秘を祝いました。御聖体の祝日の荘厳祭を祝う私たちは、御聖体の神秘をさらに黙想いたしましょう。
御聖体とは
御聖体とは「パンの全実体がイエズス・キリストの御体に、そしてぶどう酒の全実体がイエズス・キリストの尊い御血にそれぞれ変化することによって、パンとぶどう酒の外観のもとに、主イエズス・キリスト御自身の御体・御血・御霊魂・御神性が、真実に、実体的に、実際にまします秘跡で、私たちの霊的な糧となるものです」。
従って「地上において聖母マリアからお生まれになり、今は天においでになるイエズス・キリスト御自身が御聖体に実際に現存しておられます」。
「パンとぶどう酒とがそれぞれ御体と御血に聖変化するのは、司祭がミサ聖祭において聖変化のことばを唱えた瞬間です」。
「聖変化とは、イエズス・キリストが最後の晩餐のとき、『これは私の体である』、『これは私の血である』とおおせになり、パンとぶどう酒をそれぞれ尊い御体と御血に奇跡的に変えられたことを司祭を通して再現することです」。
「聖変化のことばにこれほどの力をお与えになったのは、全能の天主であるイエズス・キリスト御自身です」。
パンとぶどう酒がイエズス・キリストの御体と御血に奇跡的に変化する、毎日、祭壇で行なわれるこの奇跡的な変化を教会は、全実体変化と呼びます。聖変化のあとには、パンとぶどう酒の外観、つまり形・色・味など五感によって感じられるものしか、残りません。しかし、実体は、イエズス・キリストの御体であり御血です。主イエズス・キリストは、パンとぶどう酒とのいずれの外観のもとにも、御体・御血・御霊魂・御神性をもって現存しておられます。
イエズス・キリストはホスチアに現存しておられても、同時に天国にもおいでになります。
また、イエズス・キリストは聖変化後のすべてのホスチアにおいでになります。
イエズス・キリストの御体全体は、さいたホスチアのどの部分にもおいでになります。
大きなホスチアにも、ホスチアの小さなひとかけらにも、同じイエズス・キリストがおられます。
御聖体は、天主の愛の奇跡
人類の歴史は、天主の愛の歴史です。人間は、天主の特別の愛によって、天主の似姿とかたどりにしたがって創造されました。
天主の掟に背き、天主に逆らった人間を、永遠の滅びから救うために、人間の罪を贖うために、聖三位一体は天主御子を与えられました。ケルビムやセラフィムのような天使ではなく、最高のまことの天主、御父と等しい天主御子が、人間の本性を取って、人間としてこの地上で罪の犠牲(いけにえ)として死ぬために、自らを私たちに与えました。
人間は、天主を軽蔑して、天主から離れようとしましたが、天主は人間を大切に愛し、反抗する人間を探しに地上に来られました。人間は天主の方に近づくことができなかったので、天主の方が私たちの方に身をかがめてやってきてくださいました。天主は、御自分が私たちに対してお持ちの愛を見せるために、私たちがどれほど愛されているかを知ることができるように、寄り添ってくださいました。「救い主なる天主のいつくしみと人間への愛とがあらわれた」(ティト3:5)。
【天主が人間として現れる前には、その憐れみの深さは隠されていました。人間として私たちの前でお姿を見せることによって、その愛も見えるようになりました。御降誕の序誦は、こう歌います。Quia per incarnáti Verbi mystérium nova mentis nostræ óculis lux tuæ claritátis infúlsit: ut, dum visibíliter Deum cognóscimus, per hunc in invisibílium amórem rapiámur. 「托身した御言葉の玄義によって、われらの精神の目に、御身の輝きの新しい光が、輝き出でし故なり。そは、われらが目に見えるやり方で天主を識り奉る時、これによって、見えざるものの愛に我らが心ひかれるためなり」。聖ヨハネは私たちにこう教えます。「み言葉は人となり、われらのうちに住み給えり」(ヨハネ1:14)。】
聖パウロはこう言います。「かれは、本性として天主であったが、天主と等しいことを固持しようとはせず、かえって奴隷の姿をとり、人間に似たものとなって、自分自身を無とされた」(フィリッピ2:7)。御稜威に輝く全能の天主の御言葉が、人間を愛して人間となった!御自分を無とされた!と。
天主御子が、私たちを永遠の滅びから救うために、私たちと同じ人間となるよりも大きな愛を示すことができたでしょうか?私たちを愛するために人間となった天主を愛さずにいることがどうしてできるでしょうか?
ところが愛の天主は、人間になるだけでは満足せずに、もっとも貧しい・もっとも小さい・もっとも苦しむ人となりました!「主イエズス・キリストは、生きていた間は、一瞬たりとも、受難のくるしみを感じないわけにはいかなかった。…キリストのご生涯は、十字架と殉教とであった」(キリストに倣いて2:12)。
主は、私たちを愛するために、また私たちからの愛を得るために人となりました。御自分の地上での生活の幕を閉じようとする時、全ての死の中でもっとも苦しい屈辱的な死を甘受しました。「死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくして従われた」(フィリッピ2:8)からです。
「主が、私たちのために命をささげられたことによって、私たちは愛を知った」(1ヨハネ3:16)。
「天主が先に私たちを愛し、み子を私たちの罪のあがないのためにつかわされたこと、ここに愛がある」(1ヨハネ4:)と聖ヨハネは言います。
天主御子が、私たちを永遠の滅びから救うために、私たちに御自分の命を与えるよりも大きな愛を示すことができたでしょうか?
私たちのために十字架で苦しみ死去された天主を見て、この天主を愛さずにいることがどうしてできるでしょうか?聖パウロは言います。「キリストの愛は私たちをしめつける」(コリント後5:14)。
【今の流行りの言葉ならば、キリストの愛に胸がキュンとなって苦しい、と言うことでしょう。この言葉で聖パウロが言おうとするのは、キリストが私たちのために苦しんで死なれることによって示した愛のために、私たちは主を愛さなければならない、ということです。「すべての人のためにキリストが死なれたのは、生きる人々が、もう自分のためではなく、自分のために死んでよみがえったお方のために生きるためである」(コリント後5:15)。】
ところが愛の天主は、十字架の上で屈辱を受けて命を与えるだけでは満足せずに、もっとも貧しい・もっとも小さい・もっとも無力なパンの外見を取ることを欲したのです。主は、私たちからの愛を得るために、御自分を人間の糧として残しました。御自分の愛の全ての富を人間に注ぎ尽くすことを欲したのです。主は「この世にいるご自分の人々を愛し、かれらに限りなく愛をお示しに」(ヨハネ13:1)なり、主は、私たちのために御聖体を制定しました。「とって食べよ。これは私の体である」(マテオ26:26)。しかも、全世界が主を憎んでいたその時、使徒たちが主を裏切ることを知っていたその時、人々が主を死に渡そうと準備しているその時、主は私たちを限りなく愛し、この愛の贈り物をくださったのです。「主イエズスは裏切られた夜、パンをとり、そして感謝してのちそれをさき、『これは、あなたたちのための私の体である。…』とおおせられた」(コリント前11:23-24).
御聖体の制定の理由
トリエント公会議は、こう宣言しています。「私たちの救い主はこの世を去って御父のもとへ行こうとする時、この秘跡を制定した。この秘跡において、人々に対する御自分の天主の愛の富をあたかも注ぎ込んで、「御自分の不思議なわざの記念を行いつつ」(詩編110:4)、かの秘跡を拝領することにより「主の記念」(1コリント11:24)を私たちが礼拝し、主が世を裁くために来る時まで「主の死去を告げる」(1コリント11:26)ように命じた」(第2章 聖なる聖体の秘跡制定の理由)。
(Salvator noster, discessurus ex hoc mundo ad Patrem, sacramentum hoc instituit, in quo divitias divini sui erga homines amoris velut effudit, 'memoriam faciens mirabilium suorum' (Ps 110,4) et in illius sumptione colere nos 'sui memoriam' (1Co 11,24) praecepit suamque 'annuntiare mortem, donec ipse ad iudicandum mundum veniat' (cf. 1Co 11,26). Cap. 2. De institutione ss. Eucharistiae.)
天主御自身が、人間のパンとなるなどという天主の愛の愚かさを、キリストの花嫁である教会が断言しなければ、一体だれが考えつくことができたでしょうか!誰が敢えて信じようとしたでしょうか!
【大麦のパン五つと魚二匹で、5000人以上を養ったパンの奇跡をしたその翌日、主はカファルナウムの会堂で弟子たちに御聖体の予告をなさったことがあります。「命のパンとは私のことだ」「天からくだった生きるパンは私であって、このパンを食べる人は永遠に生きる。そして私の与えるパンは、世の命のためにわたされる私の肉である」。しかしそれを聞いて、弟子たちのほとんどが躓きました。「この人は、どのようにして、自分の肉を私たちに食べさせるのだろう?」「むずかしい話だ、そんな話に耳がかせようか」(ヨハネ6:53, 61)と。その時から弟子の多くはイエズスについて来なくなりました。しかし、天主の全能の愛は、人間の理解を超えることを実際に行いました。「とって食べよ。これは私の体である」(マテオ26:26)。】
御托身によって、主は御自分を全ての人に与えました。しかし御聖体の秘跡によって、主は私たち一人ひとりに御自分を全て残りなく与え尽くします。主は、燃える愛をもって私たちのもとに御聖体として来ることを欲しています。そのためにこうさえも言われました。
「まことにまことに、私はいう。人の子の肉を食べず、その血をのまなければ、あなたたちの中には命がない。私の肉を食べ、私の血をのむ人は永遠の命を有し、終りの日にはその人々を私は復活させる。…このパンを食べる人は永遠に生きる」(ヨハネ6:54, 59)。
何故なら主は言われます。「私の肉を食べ、私の血をのむ人は、私におり、私もまたその人のうちにいる」からだ、と(ヨハネ6:57)。御聖体を拝領することによって、私たちはイエズス・キリストと一つの体となり、一つに結ばれるからです。
御聖体は、霊的糧であり、霊的薬です。私たちの小罪を赦し、私たちが大罪を犯さないように守る薬です。主も「私を食べる人も、私によって生きる」(ヨハネ6:58)と言われます。私たちが犯した罪は、主の御受難によって赦されます。私たちが犯してしまうかもしれない罪からは、主の御聖体によって守られるのです。
トリエント公会議は、さらに御聖体の制定の理由をこう言います。直訳を引用します。
「主は、この秘跡が、霊魂の霊的糧(マテオ26:26)として受けられることを欲した。それは『私を食する人も、私のために生きる』(ヨハネ6:58)と言った主の生命を生きる人々が、この秘跡によって、養われ、強められるため(第5条)である。また、予防薬として受けられることを欲した。それは、私たちが毎日のあやまちから解放され、大罪から守られるためである。さらに、この秘跡が私たちの未来の栄光と永遠の幸福の保証(pignus)であること、従って、主の唯一の神秘体の象徴(symbolum)であることを主は欲した。主は、その神秘体の頭(1コリント11:3、エフェソ5:23)であり、私たちがその神秘体の肢体として『私たちが全て同じことを話し、私たちにおいて分裂がない(1コリント1・10参照)』ために、信仰・希望・愛徳で固く繋がり、それに結ばれていることを主は欲した」。
【Sumi autem voluit sacramentum hoc tamquam spiritualem animarum cibum (Mt 26, 26), quo alantur et confortentur (can. 5) viventes vita illius, qui dixit: 'Qui manducat me, et ipse vivet propter me' (Io 6, 58), et tamquam antidotum, quo liberemur a culpis quotidianis et a peccatis mortalibus praeservemur. Pignus praeterea id esse voluit futurae nostrae gloriae et perpetuae felicitatis, adeoque symbolum unius illius corporis, cuius ipse caput (1 Cor 11, 3; Eph 5, 23) exsistit, cuique nos, tamquam membra, arctissima fidei, spei et caritatis conexione adstrictos esse voluit, ut 'idipsum omnes diceremus, nec essent in nobis schismata' (cf. 1 Cor 1, 10).】
御聖体に対して私たちのなすべきこと:愛
御聖体、これは天主の愛の素晴らしい大傑作です、天主の愛の大発明です。カトリック信仰の全ての神秘を説明するものは天主の愛ですが、まさに御聖体にこそキリスト教の教えの中核があります。
御聖体を信じると言うことは、天主の愛を信じることです。御聖体の神秘は、天主の愛によってのみ説明されます。御聖体はイエズス・キリストの最大の愛の高みです。最高の限りなき愛の表現です。天主が人となられたことだけで、天主の愛を信じるには十分なはずでした。天主が人となって御血を少し流されるだけで、天主の愛を証明するには十分すぎるほどでした。御聖体という愛の極みまで行かなかったとしても、私たちは天主を愛さざるを得ない程、主の愛を知らされました。しかし、主は、お優しく、寛大で、憐れみ深く、狂ってしまったかのように情熱的に、私たちを愛してしまったのです!
イエズス・キリストは私たちを愛するがあまり、私たちといつも一緒にいたい、と思われました。私たちから離れたくない、いつもそばにいたい、世の終わりまで、常に、私たちとともにいることを、望まれました。私たちを愛するがあまり、御自分を与え尽くしたいと思われました。私たちを愛するがあまり、私たちを永遠の至福を与えたいと思われました。
Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた。イエズス・キリストの教会において、全ては愛によって建てられ、全ては愛によって愛のために規定され、全ては愛です。御聖体の信仰は、どうしても私たちを天主の愛へと導きます。愛熱のかまどであるイエズス・キリストの至聖なる聖心に向かいます。
御聖体について知れば知るほど、私たちは主の聖心に対する愛が燃え上がり、ますます大きくなるのを感じます。イエズス・キリストの聖心は、御聖体にまことにましまし給うので、私たちは愛に突き動かされて、御聖体に対して無関心でいることはできなくなります。天主のこのような愛の表明を見て、礼拝と感謝を捧げずにはいられなくなります。
愛の天主であるイエズス・キリストは、祭壇で私たちから最高の礼拝と名誉と賛美を受けて当然ではないでしょうか?それとも、主が私たちの愛を受けるには、まだやり足りなかったことがあったのでしょうか?聖パウロはこう言います。「もし主を愛さない者があれば、のろいあれ」(コリント前16:22)。
天主の創造の業、また御托身、御受難、御聖体などのイエズス・キリストの愛についての考察は、過去の約2000年の間、多くの人々を心に感動を呼び起こしました。もっとも非道で極悪だったとしても、きわめて非人間的で野蛮な人々であったとしても、イエズス・キリストの愛について知ると、私たちをそれほど情熱的に愛してくださる天主をどうして愛さないわけがあるだろうか!と心を動かされていました。その結果として、主に感謝するために、天主を愛し返すために、修道院は、修道者であふれていました。何千何万の青年男女が、全てを捨てて砂漠で祈りの聖なる隠遁生活を送りました。
しかし、私たちの生きている21世紀において、イエズス・キリストはほとんど愛されていません。主が私たちに与えてくださった高価な贈り物にほとんど関心もありません。私たちを愛する救い主の勧告に従う人も、ほとんどいません。主の御教えに対しては人々は強い反発と反抗を示し、この世との妥協を声高らかに訴えています。もしもイエズス・キリストに対して感謝がなされるとしても、形式的なお祈りを機械的に唱えるだけになってしまっています。
天主御子が御聖体において示してくださる愛は、あまりにも熱烈で信じられないほどです。しかし、それよりももっと驚くべきことがあります。それは、天主からこれほどの愛を受けていながら、人々がそのお返しとして、あまりにも無関心・忘恩であることです。イエズス・キリストが、弱い憐れで惨めな私たち人間をこれほどまでも愛してくださるというのは、全く驚くべきことです。しかしこれほど愛された人間が、イエズス・キリストを愛そうとしないと言うのは、さらに不思議なことです。
主を愛さないと言う理由はありうるのでしょうか?御聖体の秘跡において見せた主の御謙遜と御自分を与え尽くす愛以上に、主が私たちに与えることができることは何かあったのでしょうか?御自分を無として、御自分を私たちに与え尽くして、イエズス・キリストに一体何の利益があったでしょうか?
愛の秘跡において主が受ける屈辱、冷淡、不敬、冒涜を想うと、その恐ろしさに身震いしないでしょうか?イエズス・キリストの御聖体は、どれほど恐ろしい不当な取り扱い、侮辱、涜聖を何度も何度も、受けておられることでしょうか?たとえ異端者や異教徒から冒涜の言葉をうけても、カトリック信者が愛と賛美でその罪を償うなら、少なくとも主は慰めを受けることでしょう。しかし、そのような霊魂は、そのような人々は、一握りしか見出せません。教会は礼拝する人がほとんどいなくなり、空っぽになりつつあります。
イエズス・キリストは熱烈に愛しています。しかし愛されていません。この凍り付くような冷淡さ、愛の欠如において、少なくともイエズス・キリストは、聖心の友となって無関心と忘恩の罪の償いを捧げる霊魂たちを望んでおられます。
ファチマの天使
1916年秋に、ポルトガルのファチマで、天使は子供たちに現れました。左手にカリスを持ち、その上にホスチアがありました。ホスチアからはカリスの中に血がしたたり落ちていました。カリスを空中に残したまま、天使は私たちのそばに跪いて、つぎの祈りを三度唱えさせました。
「至聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊よ、我、御身を深く礼拝し奉る。世界中のすべての祭壇のうちにましまし給うイエズス・キリストのいとも尊い御体、御血、御霊魂、御神性を、イエズス・キリスト御自身が受け給う侮辱、冒涜、無関心を償うために、御身に捧げ奉る。イエズス・キリストの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心の無限の功徳によりて、あわれな罪人の回心を御身に願い奉る」。
すると立ち上がって、天使はカリスとホスチアを自分の両手に取り、御聖体をルシアに、カリスから御血をジャシンタとフランシスコにこう言いながら与えました。
「恩知らずの人々から恐ろしく侮辱されているイエズス・キリストの御体と御血を受け、飲みなさい。彼らの犯罪を償い、あなたたちの天主を慰めなさい」。
遷善の決心
では、カトリック信者には何が求められているのでしょうか?
敬虔で聖なる良い御聖体拝領、御聖体礼拝です。
御聖体に対してなされる侮辱、冒涜、無関心を償うために、償いを捧げることです。償いをすると言うことは、つまり愛することです。償いをすると言うことは、イエズス・キリストを愛するために苦しみを受け入れることです。愛を通して自分を犠牲として捧げることです。
聖母の汚れなき御心に助けを願いましょう。
そのとき、イエズスは、ユダヤ人たちにおおせられた。「私の肉はまことの食物であり、私の血はまことの飲み物であるから、私の肉を食べ、私の血をのむ人は、私におり、私もまたその人のうちにいる。生きておられるおん父が私をつかわし、そのおん父によって私が生きているように、私を食べる人も、私によって生きる。天からくだったパン、これは、先祖が食べてもなお死んだそのようなものではない。このパンを食べる人は永遠に生きる」と。